人の終わりのプリクエル

發爲萬朶櫻華

2102年のアメリカ、ボストンコモン付近にて。


微かな苦味と悪心で目が覚めた。

急いで洗面所まで行き口をゆすぎ、鏡を見上げる。

しかしそれには何も写っていない。

立てかけられていた折りたたみ式の踏み台を広げる。

それに乗ってやっと、金髪の少女の顔が映った。

軽く顔を洗った後、踏み台を片付けて食堂へと向かう。


「――です。本日のボストンは麗らかな暖気に包まれ、最高気温は21度まで上がる見込みです。しかし夜は放射冷却の影響で大きく冷え込み、9度まで下がってしまうでしょう。レッドソックスのナイターをご覧になる方々は上着を忘れないように。コンコードではさらに冷え込む見込みで、ぶどうには大打撃が予想されています。さらに明日は雨となる予報で、まさに最悪といえる空模様でしょう。さて続いては皆さんお待ちかねのスポーツに――」


 テレビの音が支配する食堂の椅子には、母と弟が座っていた。テーブルの上には2人分の食事と、1人分の少なめの食事、1人分の汚れた皿がある。


「ああライザ、丁度いいところに来たわ。今さっき出来たところよ。さあ食べて。」


 促されるままに椅子へとよじ登り、先程の少なめの食事を引き寄せる。ベーコンと、イギリス式マフィンとスクランブルエッグ、それに牛乳と、豪華とはいえないものの朝食にしては力の入ったメニューといえるだろう。

 しかし実際のところは、美味しいかどうか聞かれれば美味しいと答えるだろうが、もうこういったものに目を輝かせる歳でもないのだ。ただ口に詰め込み、咀嚼し、嚥下する。その繰り返しであって、そこに味蕾の介入する隙はまったくもってありはしなかった。

 まさにこうしたことの繰り返しで生きている。人形のような少女は、その風貌からは考えられないほどに人生に絶望していた。虚ろな黄色の目は焦点合わせを完全に拒否している。

 私の脳は無駄に考える。

ナイフを持った右の手が、全く制御の外に出て反乱を起こし頸動脈を切り裂き、くだらない人生を吹き出しながら無様に死なせてはくれなかろうか。

フォークを持った左の手が、何かの間違いでそのトパーズのように艶を帯びている瞳を突き刺し、抉って何もかも見えなくしてはくれなかろうか。

 ただ、絶望していた。きっとまたずるずると生き延びてしまうという事実に。手に握った凶器を振り回すことも叶わず、また無駄に心臓を動かし続けてしまうという事実に。

 そうして半刻ほど経った。もう既に弟は仕事へと向かった。母は優しい目をして微笑みを湛え、ただ私を見つめている。

 耐えきれなくなった少女は、ただ一言ありがとうとだけ言って自室へと戻った。

 ブラインドの間隙から差し込む陽光が憎い。きっと今この瞬間にも誰かが飢えているのだろうに、私はただ漫然と生きている。やめてほしい。ただ死ぬ勇気も無い少女は、寝台の上で虚ろに座り込んだ。


 特筆すべきこともなくただ惰性で数時間を生き永らえていた。生きてしまっていた。しかし日の終わりが近づくにつれ、私の時計はびっこを引き始める。

 秒針が鉛のように重く、鈍い印象を与えつつ動いている。彼はわざとらしくその歩みを遅めていた。

 時の流れが酷く憎い。どうしようもないのに、これほどまでに人を狂わせるのだから。置き去りにされた私は、ただ身を任せるしかないのだ。


私は待っている。待ちわびている。彼らの舞踏会を。


 気づけば、薄暮が逢魔時を告げ、ボストンコモンの街灯がちらほらと照る。そんなひどくありふれた普遍的な光景が、私の金色の瞳には妖かしく艶やかに映っていた。


夜がやってくる。私の想い人が。


 ああ、私も生物であり、人なのに、不思議と闇を全く恐れていない。本能を差し置いて、心が渇望している。何もかもを覆い隠し、私の罪すらもそのヴェールが優しく抱擁してくれるのを待っている。

ああ、なんということだろう。始まってしまう。いや、もう始まっている。

 夜闇の歌声に誘われて、いよいよ月が建物の屋根から顔を出した。それに星々が付き従っている。

夜闇はやがて建物の輪郭をも飲み込み、か細い灯りだけがやっとその自我を保っていることができた。このうんざりとした部屋も自我を失い、私すらも溶けていく。世界が一つの存在へと昇華していくように。私もやがて一体化していく。

 官能的ですらある。この浮かぶような感覚を表す言葉など見つかろうか。あり得ようか。いくら辞書を捲ろうと、いくらネットの海を板子乗りしようとも、いくら人に聞こうとも、この感覚だけは誰にも共有され得ない。

 気づけば私は外へと繰り出していた。先程からさらに時が経ち、最早空には一切の陽光はない。なんて素晴らしいことだろうか。

私の嫌いな陽光は、最早1カンデラたりともありはしないのだ。この喜ばしい瞬間には、誰も邪魔など出来ないのだ。

 ああ、すごく、すごく楽しい。生に歓喜を覚える。今まさに、星々のコロンビーナがハーレクインを求めている。月をその優美で誘い、夜闇というドットーレがそれに水を差す。そんな即興の喜劇が天球全てを覆っているのだ。

池のほとりにあるベンチに座って星を眺めると、この地球というものも、実際はあの光る星々の一つに過ぎず、やはり他と変わりなくこの喜劇に参加しているのだと感じられる。

 夜のボストンコモンで寝間着のまま愉悦に浸る少女は、他人の目にはきっと、月光に灼かれルナティックに陥った狂人だろう。しかしこれだけが少女の人生で許された楽しみなのだ。

 気分が酷く高揚している。心臓が跳んで跳ねて舞っている。脳味噌はサイケデリックで染め上がり、視神経は焼き切れんばかりに熱を帯びている。

息を飲み心躍らせるスペクタクルが網膜を焼き焦がす。釘付けにされたままの双眸に、大量の星光が流れ込む。

 美しい。その言葉を億兆倍に濃縮しようとも足りないほどに。何者もこの楽しみを奪う権利は持ち合わせていないのだ。


 しかし、いつもパーティというのは終わってしまうものだ。

全く何故かは知らないが、終わってしまうのだ。

 薄明が夜を掻き消していく。塗り替えていく。どうして。

立ち上がる。月は虚しく光を失い始めた。薄紫色の空は星々の抵抗をものともせず虐殺の限りを尽くしていく。手を伸ばす。水星が消えていく。頬を雫が伝う。あれほど燦然としていた月は、もはや土気色の酷い顔をしている。眼球が沈む。

光が、消えていく。


 ベンチに力なく座り込むも、啜り泣く声が止まない。楽しい夢から覚めてしまったような無力感が、筋繊維を麻痺させている。

 脳が理解を拒否する。あの楽しい時間が終わってしまったことを。ああ、私も連れて行ってくれたら良かったのに。



――とにかく、ここでぐずっていたってしょうがない。風邪を引いてしまいそうなほど肌寒いのだ。

 明星が見えている内に帰ろう。ベンチから降り、アパートへと歩き出した。今日は晴れてて良かった。明日は確か雨だとか言ってたから、きっと見られないんだろう。少し肩を落としつ――






 瞬間、何かを被され目の前が真っ暗になり、細い物で喉元を強く締めあげられる。

「がっ....こぁっ...」

 声にならない嗚咽を漏らしつつ、腕を振るって藻掻くも、だんだんと力が抜けていくのを感じる。脳が全力で危険を伝える。しかしいくら暴れようとも無駄だ。

誰か助けて。助けてください。助けて。嫌だ。死にたくない。助けて。助けて。たすけて。たすけて――









「....。」

 嫌な夢を見た。私がまだエリザベスだった時の最後の記憶。私が、まだ人間だった時の最期の記憶。

 声にならない恐怖と後悔だけが脳を支配しているのを、スイッチを入れて抑制する。


 一つ呼吸を置いた後、首元のケーブルを抜去した。

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人の終わりのプリクエル 發爲萬朶櫻華 @sakulabana

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