第51話 最後のお弁当の手紙

 目覚ましより先に、台所の音で起きた。まな板がトントンじゃなくて、コツ、コツ、と小さく硬い。冬の朝の音は、全部乾いている。布団の中で息を吐くと、鼻先が冷えて、少しだけ目が覚める。


 スマホの画面を点けたら、白い光が暗い部屋に刺さった。卒業式まで、あと三週間。いまさらカレンダーに丸をつけるほど子どもじゃないのに、指は予定を確認してしまう。通知はゼロ。世界は静かに続いている。


 台所に行くと、母がダウンのベストを着たままフライパンを振っていた。暖房を入れるのはいつも遅い。節約というより、冬と交渉しているみたいな慎重さ。


 「起きた」


 「うん」


 会話が、そこで終わる。言いたいことは喉の奥にあるのに、言い切った瞬間に自分のものじゃなくなる気がして、いつも途中で止める。


 弁当箱は、いつもの青。角が少し白くなっている。小学生の頃からずっとこれで、途中で一回フタを落としてヒビが入って、母がテープで補強した。テープは透明で、光ると一本だけ見える。


 母は卵焼きを切って、切り口をこっちに向けた。私はその黄色を見て、なぜか胸がつまった。昨日の夜、担任が「卒業前に、家の人に何か言えるといいね」と言ったからだ。急に道徳が差し込まれるのは、冬の体育館と同じくらい寒い。


 「今日さ…最後の弁当、になるかも」


 口から出てしまって、自分でびっくりした。「かも」で逃げ道をつけたのが、自分らしい。母はフライパンを置いて、箸を持ち替えた。視線は卵焼きの端に残っている。


 「まだあるでしょ。卒業まで」


 「うん。でも、模試とかで…購買とか…」


 言い訳が、先に立つ。母は「ふうん」とだけ言って、卵焼きを詰めた。隙間にブロッコリーをねじ込む。慣れた手つき。私はその手元を見るほど、言うタイミングをなくす。


 冷蔵庫の横に、くしゃっとしたレシートがマグネットで留めてあった。スーパーの、あの薄い紙。母は買い物のたびにレシートをポケットに突っ込んで、あとでまとめて家計簿アプリに入れる。入れているところを見たことはない。けど、レシートが湿ったり乾いたりして減っていくのを、私は見ている。


 「それ、また溜まってる」


 言ってしまったのは、単に気まずさを別の話題に移したかったからだ。


 「うるさい。今日入れる」


 母は笑っていない。怒ってもいない。雑。近いほど雑になる痛み、ってこういうやつだと思う。優しさは、たまに雑な形をしている。


 私は弁当箱の横に立って、何か、何か、と探した。ありがとう、と言えばいいのに、口は固い。言葉の代わりに、視線が台所を彷徨う。湯気が立っている。味噌汁の鍋のふたが、少しずれて鳴る。窓の外は白い。冬の朝の光は、洗ったみたいに薄い。


 「…弁当、飽きた?」


 母が聞いてきた。変な質問。刺さった。私は首を振った。


 「飽きてない。むしろ…」


 むしろ、なんだ。むしろ、好きだ。むしろ、なくなるのが怖い。むしろ、言えない。


 母は弁当箱のフタを閉めて、輪ゴムをかけた。輪ゴムが弾ける音が、冬の空気に乾いて響いた。


 「はい。置いとくよ」


 弁当がそこにある。いつも通り、ある。そこに、今日だけの意味を勝手に盛りつけているのは私だ。


 玄関で靴を履きながら、私はスマホを握り直した。友だちのグループに「卒業まで弁当あと何回?」みたいなメッセージが流れている。スタンプが飛んで、笑いが増える。私の胸の詰まりだけ、置いていかれる。


 「行ってきます」


 「行ってらっしゃい」


 言い切った。母も言い切った。音だけが往復して、玄関の冷えたタイルに落ちた。


 駅までの道は、霜が残っていた。白い息がマフラーに吸われて湿る。コンビニの前の自動ドアが開くたびに、暖気が路面に漏れてすぐ消える。世界はすぐ冷える。冷えるのに、続く。


 電車の中で、弁当袋が膝の上で少し揺れた。布が擦れる音。私はバッグの中を探って、ペンケースを引っ張り出した。シャーペンの芯が一本折れて、指先が黒くなる。そういうことが起きると、言葉より先に手が動く。


 メモ帳を開いて、何か書こうとした。ありがとう、と書けばいいのに、手は止まる。文章が、自分の顔みたいに見えるのが怖い。読まれる怖さ。家族でも。


 私は一度、ページを閉じた。弁当袋の口を開けて、弁当箱を見た。フタの透明テープが一本だけ光る。母の補強が、今もここにある。


 その瞬間、ふっと、別の発想が浮かんだ。言葉は、正面から言うと照れる。橋にすればいい。橋なら、渡る前提がある。


 私は学校の購買で、安い便箋を一枚だけ買った。レジの人が「袋いりますか」と言って、私は首を振った。便箋は薄くて、手の熱がすぐ移る。レシートも一緒に出てきた。材料じゃないのに、レシートは生活の付属品みたいにくっついてくる。


 昼休み、教室の隅で便箋を開いた。周りはうるさい。笑い声が跳ねる。私はその中で、声を出さずに文字を置いた。


 ――今日の卵焼き、いつもより甘い気がした。

 ――飽きてない。むしろ、助かってた。

 ――卒業したら、自分でも作ってみる。たぶん最初は焦がす。

 ――今まで、ありがとう。


 「ありがとう」だけ、最後に置いた。言い切るのが怖いから、文字にして置く。文字なら、相手が読む速度を選べる。逃げ道がある。配慮って、遠ざけるだけじゃない。近づき方にもある。


 便箋を折って、弁当袋の内ポケットに入れた。袋の布が少し膨らむ。秘密が一枚増えたみたいで、私は少しだけ息がしやすくなった。


 家に帰ったのは、夕方だった。玄関を開けると、朝より台所が暖かかった。味噌と、醤油と、洗剤の匂いが混ざっている。母はテーブルでレシートを広げていた。指先で一枚ずつ揃えて、角をトントンと机に当てている。冬の音。母の仕事。


 「おかえり」


 「ただいま」


 私は弁当袋をそっと台所の椅子に置いた。置き方が、不自然に丁寧になる。母はそれを見て、目だけで弁当袋を追った。


 「弁当箱、出しといて」


 「うん」


 私はキッチンで弁当箱を洗った。フタのテープのところに水が溜まって、指で押すとぷにっと動く。洗いながら、便箋のことを思い出して胃がぎゅっとした。今さら恥ずかしくなって、取り出して捨てたくなる。やめろ。そんなことをしたら、橋を燃やす。


 弁当袋を干そうとして、内ポケットから便箋が少し覗いた。母の視線が、それに止まった。止まったけど、すぐには動かなかった。見ていいのか、見ないほうがいいのか、その間があった。母も、私も、そこは似ている。


 母はレシートを揃える手を止めて、便箋をそっと引き抜いた。指の動きが静かで、紙が擦れる音だけがした。母は立ったまま読んだ。顔は見えなかった。肩のラインだけが、少しだけ緩んだ気がした。


 読み終わっても、母はすぐに何も言わなかった。便箋を折り直し、テーブルの端に置いて、それから、レシートの山の下に滑り込ませた。材料の紙の中に、手紙が混ざる。生活の書類に、感情が紛れる。うまい隠し方だと思った。


 「…卵、甘かった?」


 母が言った。声が少しだけ軽い。照れを、雑な質問に変換している。


 「うん。気がした」


 「気がした、って」


 母が小さく笑って、レシートの角を揃え直した。その角が、少し湿っていた。台所の湯気のせいか、手の汗のせいか、どっちでもいい。


 私は冷蔵庫から麦茶を出して、コップに注いだ。氷は入れない。冬だから。コップを持って母の前に置く。差し入れみたいに。


 母は、ありがとう、と言わなかった。代わりに、便箋の上に手を置いた。押さえるだけ。言葉じゃない肯定。私はそれで十分だった。


 その夜、私は机で英単語帳を開いた。ページをめくる音が、部屋の空気を動かす。スマホは机の端で光らない。通知が来ても、世界は続く。


 台所から、母が弁当箱を洗う音が聞こえた。コツ、コツ、と乾いた冬の音。明日の弁当があるかどうかは、まだ決まっていない。でも、便箋が一枚、レシートの山に混ざった。それだけで、明日の生活が一ミリだけなめらかになった気がした。


 言えないものは、橋にして渡す。

 受け取った側は、その橋を次の誰かにも渡せる。たぶん、母は明日、私に何かを押し付けない。代わりに、いつもの雑さの中に、少しだけ柔らかい間を残す。


 冬の朝の湯気は、明日も同じように立つ。

 それを見て、私はまた一回、起きる。

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