第37話 ペットの病院待合室

  雨の日の匂いは、焦りに似ている。


 玄関を出た瞬間、濡れたアスファルトの匂いが鼻に入ってきた。秋の雨は冷たいというより、静かだ。音が丸くなる。私はキャリーケースの取っ手を握り直した。中には猫のミント。今日は、動物病院。


 ミントは普段、家では「私のもの」みたいな顔をして歩くのに、キャリーに入ると急に小さくなる。小さくなるのが、胸に刺さる。自分が無理やり連れていく側で、ミントが連れていかれる側。その役割の差が、雨の日は大きく見える。


 駅前の通りを渡って、動物病院の看板が見えた。白い犬と猫の絵。かわいい絵なのに、今日はかわいくない。病院は、絵がかわいいほど現実が痛い。


 自動ドアが開くと、待合室の空気がほんのり温かかった。消毒液と、湿った毛の匂いが混ざっている。雨で濡れた動物たちの匂い。椅子は白くて、床はつるつるして、音が吸われる。みんな、声を小さくしている。小さくしているのに、不安は大きい。


 受付の前に立つと、スタッフさんが笑顔で言った。


「こんにちは。ミントちゃん、今日はどうされましたか」


 私は説明をしながら、ミントのキャリーを床に置いた。置くと、キャリーの中から「ん」と短い声がした。怒っているのか、助けを求めているのか、どっちにも聞こえる。私は視線を落として、キャリーの隙間からミントの目を見た。暗い中で光る目。いつもより丸い。


 受付を済ませると、小さな診察券にスタンプが押された。トン、と軽い音。スタンプって、普段はかわいい。ここでは「順番待ち」の印だ。かわいさに、状況が追いつかない。


 起。小さな不便、というより小さな痛みが起きる。


 待合室の椅子に座って、私は膝の上に手を置いた。手のひらが冷たい。雨のせいか、不安のせいか。スマホを見ようとして、やめた。今見たら、余計に孤独になる気がした。誰かの投稿とか、通知とか、そういう「別の世界の元気」が刺さる。


 ミントはキャリーの中で動かない。動かないのが怖い。動かないと「具合が悪い」みたいだし、動いたら動いたで「苦しい」みたいで怖い。何をされても怖い。私は怖さの方向を選べない。


 承。誤解とすれ違いが膨らむ。


 待合室の静けさが、私の頭の中の音を大きくする。


 ――もっと早く連れてくればよかったんじゃないか。

 ――昨日の食欲が少し落ちてたの、気のせいにした。

 ――私が忙しいふりをして、ミントのサインを見落とした。

 ――病院代、ちゃんと払えるかな。

 ――もし、もし、もし。


 「もし」が増えると、時間が伸びる。診察室のドアが開く音がしても、私の番じゃないと落ちる。落ちるたびに、呼吸が浅くなる。浅くなると、ミントの「ん」が遠くなる。


 隣の椅子に座っている女性が、膝の上の小型犬を撫でていた。犬は震えている。女性はずっと「大丈夫、大丈夫」と言わずに撫で続ける。言葉より撫でる。私もキャリーの上に手を置いて、指先で軽くトントンと叩いた。ミントに届くか届かないかの弱さで。届かなくても、私が落ち着くために。


 受付の奥で電話が鳴った。スタッフさんの声が小さく聞こえる。「はい、〇〇動物病院です」。それだけで、ここが現実の場所だとわかる。現実の場所にいるのに、私は現実から逃げたい。


 そのとき、向かいの席の男性がキャリーを抱えて立ち上がった。中から、猫の声がした。ミントより大きい声。抗議みたいな声。


「……鳴くね」


 男性が、小さく笑った。笑いというより、息みたいな笑い。自分にも猫にも言っている感じ。


 私はその声につられて、ほんの少しだけ口角が動いた。動くと、自分が「今、笑っていいの?」と焦る。でも、笑いは勝手に出る。勝手に出るものに罪悪感を持つと、余計に疲れる。


 男性が私の方を見て、会釈した。会釈の角度が低い。丁寧というより、同じ地面に立っている感じ。


「雨、嫌ですよね」


 急に天気の話。動物病院で天気の話。なのに、その話題がちょうどよかった。天気の話は、痛みを直接触らない。


「……嫌ですね。なんか、余計に」


 私が言うと、男性はうなずいた。


「匂いもしますしね。うちも最初、こういう待合室、しんどくて。静かだから余計考えちゃう」


 転。背景が一つだけ見える。


 「最初」という言葉が、私の背中を軽くした。


 この人は、初めてじゃない。経験者だ。経験者は、勝手に頼もしい。頼もしいのは、答えを持ってるからじゃなくて、「この空気を通ったことがある」からだ。


 男性は続けて言った。


「でも、意外と大丈夫でした。猫の方が強い時もある。……こっちが勝手に不安になってるだけ、ってことも」


 不安になってるだけ。言葉は軽いのに、軽く言われると救われる。救われるのは、否定されてないからだ。「不安になるのは普通」と言われた気がした。私は、胸の中の「もし」の数が一つ減るのを感じた。


 受付の番号表示が鳴った。ミントの名前が呼ばれた。呼ばれると、心臓が跳ねる。跳ねるけど、さっきより少しだけ整っている。私はキャリーを持って立ち上がった。持ち上げると、ミントがまた「ん」と鳴いた。


 診察室のドアを開ける前に、私は振り返って男性に小さく言った。


「……ありがとうございます」


 男性は軽く手を振った。言葉じゃない返事。ちょうどいい距離。


 診察室の中は、待合室より明るかった。白い光。先生の声。スタッフさんの手際。ミントを出すとき、私は手を震わせた。震えても、いい。震えるのは、ちゃんと大事に思ってる証拠だと自分に言った。言ったけど、長くは引き延ばさない。先生がミントの背中を触り、耳を見て、体温を測る。ミントは意外に大人しい。大人しいのが、逆に強い。


 診察は思ったより短く終わった。大きな問題ではなさそうだ、と先生は言った。薬と、様子見と、食事の工夫。私は何度もうなずいた。うなずきながら、目の奥が熱くなった。涙が出る準備がようやく整った。でも、ここで泣くと時間が長くなる気がして、私は息を吐いた。泣くのはあとでいい。


 会計でレシートを受け取ると、紙にスタンプがもう一つ押された。次回の来院の印。トン。トン。小さな音が、生活の続きに繋がっていく音。


 病院を出ると、雨は弱くなっていた。空気の匂いが少し変わっている。土の匂いが混ざる。秋の雨上がりの匂い。私はキャリーを抱えて、待合室にいた男性を思い出した。「最初、しんどくて」。その言葉が、まだ私の中で温かい。


 結。次は自分が声をかける。


 帰り道、交差点の前で立ち止まったとき、小さな犬を抱えた若い女の子が病院に入っていくのが見えた。女の子の肩が少し上がっている。緊張の肩。私は一瞬、声をかけようとして、迷った。迷って、でもやめなかった。


「雨、冷たいですよね」


 私は言った。天気の話から。痛みに直接触れない入口。


 女の子は驚いた顔をして、それから小さく笑った。


「……はい。なんか、変に緊張して」


「待合室、静かですけど……意外と、なんとかなるみたいです」


 私は言い切らずに、みたいです、と付けた。自分が経験者ぶりたくない。でも、繋げたい。


 女の子は「ありがとうございます」と言って、ドアの中に消えた。たったそれだけ。大げさな励ましも、涙もない。けど、たぶん一ミリは空気が軽くなる。


 私はそのまま駅に向かった。キャリーの中でミントが小さく動く気配がした。生き物の重さ。雨上がりの匂い。遠くで電車の音。


 通知が鳴らなくても、世界は続く。待合室の静けさも、誰かの小さな声も、スタンプの音も、全部続きの中に置かれていく。私は歩く速度を少しだけ落として、濡れた地面の反射を見た。秋の空が、そこに薄く映っていた。

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