第30話 転職サイトの広告が刺さる

 通勤電車の広告は、たまに私の心の弱いところにだけ当ててくる。


 朝の車内は、いつもより一段暗かった。曇り空で、窓の外の光が薄い。なのに人は多い。人が多いと空気が温かくなる。秋なのに、上着の内側がじんわりする。私は吊り革を握り直して、指先の感覚で自分の場所を確かめた。


 目の前のドア上。横の中吊り。窓の外の景色より、広告のほうがよく見える。


『今の年収、妥当ですか?』

『あなたの市場価値、3分で診断』

『未経験から○○へ』

『残業ゼロの世界へ』


 全部、刺さる言葉でできている。針の位置が的確すぎる。誰が設計してるんだろう。たぶん「私のような人」を大量に見てきた人。


 私はスマホを開いた。通知がいくつか溜まっている。社内チャットの「今日の朝会、資料見ておいて」。取引先からのメール。家族のグループのスタンプ。ニュースの見出し。どれも今すぐじゃないのに、画面は「今すぐ」に見せるのが上手い。


 視線を上げると、また広告。


 「……うるさい」


 声に出さず、口の中だけで言った。広告は声がないのに、うるさい。しかも、うるさいのが自分の頭の中に入ってくる。


 ここ数週間、仕事が詰まっていた。人が足りない、締切が近い、急な仕様変更。そういう波が続くと、生活が薄くなる。薄くなると、広告の言葉が濃くなる。


 『転職しませんか?』


 しませんか、じゃない。しろ、と言っている。私の疲れに向かって。


 私はいつもなら「転職は大きい決断だから」と自分に言い聞かせる。でも今日は、決断衝動が湧いた。衝動は、疲れのときに強い。疲れは判断力を奪うくせに、決断力だけは増幅させる。変な仕様。


 今すぐ辞めたい。

 今すぐ変えたい。

 ここじゃないどこかへ。


 その「どこか」が具体的じゃないのに、逃げたくなる。逃げ先を持たない逃げって、ただ転ぶだけなのに。


 私はスマホで転職サイトを開きそうになった。指が画面の端を探す。探して、止まった。止まったとき、背後で小さな声がした。


「広告、えぐいよね」


 振り返ると、同じ部署の先輩——真鍋さんがいた。通勤時間が被ることがある。真鍋さんはいつも淡々としていて、淡々としているのに人の機嫌を読みすぎない。私はそういう人に救われることがある。


「えぐいです……今日、全部刺さります」


 私が言うと、真鍋さんは小さく笑った。笑い方が、広告に負けていない。負けない笑い。


「刺さる日に見るとね。わかる」


 言い切らない同意。私はそれだけで少し楽になった。楽になると、衝動が少しだけ薄まる。


 電車が揺れて、車内の人が一斉に重心を動かした。私は吊り革を握り直した。握り直すと、気持ちが戻る。戻ると、言葉が出る。


「私、今すぐ辞めたいって思ってました」


 言ってしまった。言ってしまうと、少し恥ずかしい。だけど恥ずかしさの後に、空気が入る。


 真鍋さんは「うん」とだけ言って、少しだけ間を置いた。間があると、説教にならない。


「辞めるのも選択肢だよ。でもさ、転ばない転職って、地味なんだよね」


 転ばない転職。言葉の響きが面白くて、私は少しだけ口元が緩んだ。転ぶ転職って何。たぶん、衝動で飛ぶやつだ。私が今まさにやろうとしていたやつ。


「地味?」


「うん。まず、棚卸しする。今の仕事で何が嫌で、何が嫌じゃないか。何ができて、何ができないか。できないのは能力じゃなくて環境のこともあるし。あと、生活。通勤時間とか、睡眠とか。そういうのも含めて。で、転職サイトを見るのは最後」


 真鍋さんは淡々と言った。淡々とした言葉は、広告より強い。広告は派手だけど、淡々は重い。


 棚卸し。


 私の頭の中に、突然「棚」という言葉が浮かんだ。自分の中に、ぐちゃぐちゃに積んでいる箱。疲れ、不満、達成感、評価、給与、やりがい、同僚、通勤。全部を一つの段ボールに突っ込んで、「辞めたい」で封をしている状態。棚卸しって、それを箱から出す作業だ。面倒。でも、面倒なほうが転ばない。


「真鍋さん、転職したことあるんでしたっけ」


 私が聞くと、真鍋さんは窓の外を少し見た。車窓に秋色が流れている。街路樹が赤くなり始めて、空は薄い青。光が柔らかい。


「あるよ。一回。勢いで辞めなかったから、転ばなかっただけだけど」


 背景が、一つだけ見えた。


 真鍋さんは、勢いをそのまま決断にしなかった人だ。


 それだけで十分だった。過去の苦労を全部聞く必要はない。転職の成功談を詳しく聞くと、私の自意識がまた暴走する。必要なのは、視点の置き換えだけ。


 電車が駅に滑り込んだ。ドアが開いて、冷たい空気が入る。秋の空気は、入ってくるときだけ鋭い。私はその鋭さで目が覚める気がした。眠っていたのは身体じゃなくて判断力だったのかもしれない。


 ホームに降りて、改札に向かう人の流れに乗る。流れの中で、私はスマホを見た。通知がまた増えていた。増えているのに、さっきより焦らない。焦らないのは、衝動の代わりに手順が手に入ったからだ。


 会社に着いて、デスクに座ってから、私は小さなメモを開いた。紙でもスマホでもなく、社内のタスク管理のメモ欄。仕事の中に、生活のメモを混ぜる。


『棚卸し』

・嫌:急な仕様変更で夜が削れる

・嫌じゃない:企画の初期、資料を整える作業

・助かる:真鍋さんみたいに淡々と話せる人がいる

・欲しい:睡眠、帰宅後の時間


 書いていると、少し笑いそうになった。転職サイトの広告は「市場価値」を測りたがるけど、私が今測りたいのは「生活の価値」だった。価値って、年収だけじゃない。なのに、広告はそこを飛ばす。飛ばすから刺さる。刺さるから飛びたくなる。


 私は通知を一つずつ処理しながら、心の中で「決断は後」と言った。後にするのは逃げじゃない。転ばないための順番だ。


 昼休みに窓際へ行くと、外の木が少し色づいていた。赤と黄と、まだ残っている緑。秋色は急に変わらない。少しずつ、毎日、知らないうちに変わる。変わるとき、誰も通知をくれない。通知なしで、季節は進む。


 私も、通知なしで少しだけ進めばいい。決断より先に棚卸し。完璧な答えじゃないけど、今日の私はそれで一ミリなめらかになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る