第18話 プールの匂いの記憶

 帰省って、荷物より先に匂いが届く。


 駅の改札を出た瞬間、むわっとした空気が顔にまとわりついた。都会の熱と違って、こっちは土の熱が混ざっている。アスファルトの上にも緑の気配がある。私はキャリーケースの取っ手を握り直しながら、実家へ向かうバスに乗った。窓ガラスが日差しで熱くて、指先がじりっとする。


 バスが小学校の前を通ったとき、匂いがした。


 プールの匂い。


 塩素と、水と、コンクリートの湿り気。夏の昼の匂い。鼻の奥の、少し痛いところに来る匂い。私は思わず窓の外を見た。白いフェンスの向こうに、水面が一瞬だけ見えた気がする。見えた気がするだけで、もう体が昔のほうへ引っ張られる。


 ぎゅう、と胸の奥が縮む。懐かしい、だけじゃない。懐かしいは優しい言葉だけど、記憶の引力は優しくない。勝手に連れていく。


 実家に着くと、母が玄関で待っていた。スリッパが揃っている。扇風機が回っている。麦茶のピッチャーが冷蔵庫に入っている。家って、先回りができる場所だ。


「暑かったでしょ」


「うん……」


 私は言い切らないまま、靴を脱いだ。床が少しだけひんやりしていて、足裏が安心する。夏の家の安心は、温度差だと思う。


 自分の部屋だったところに荷物を置いて、私は窓を開けた。外の蝉の声が一気に入ってくる。蝉って、音量調整を知らない。私は笑いそうになって、でも笑えない。さっきのプールの匂いが、まだ鼻に残っている。


 押し入れの下段に、昔の箱があった。段ボールじゃなく、プラスチックケース。中身が見えるやつ。見えるのに、見ないふりができるやつ。私はそれを引っ張り出してしまった。帰省の魔法は、箱を開けさせる。


 中には、写真と、寄せ書きと、古い携帯電話。折りたたみ式。電源が入るかも怪しい。私はそれを手に取って、指で角をなぞった。プラスチックが少しだけ黄ばんでいる。時間の色。


 なぜか、電源が入った。画面が暗い青で光る。私は息を止めた。古いものが生き返るときって、怖い。壊れていてほしいような、壊れていないでほしいような。


 受信メールのアイコンが、まだ残っていた。私はそこを押してしまった。押してしまう。人は、禁止された扉ほど押す。


 メールの一覧に、懐かしい名前があった。


 彩乃。


 中学の頃の友だち。いや、友だち、と言っていいのか曖昧な距離。仲良かった時期もあったし、急に冷たくなった時期もある。理由は今もよくわからない。わからないまま終わった関係は、保存状態がいい。腐らない代わりに、ずっと残る。


 私はメールを開いた。


『ごめん。今日、プール行けない』


 短い。短いのに、胸がきゅっとする。返信は私からのものが残っていない。残っていないことが、逆に怖い。私は何を返したんだろう。返したのか。返さなかったのか。過去は、ログが欠けているところほど想像が暴れる。


 私は気づいたら、さっきの匂いの中に戻っていた。小学校のプールサイドの熱。白い帽子のゴムが耳の後ろに食い込む痛み。水に入る前の、身体が拒否する一瞬。彩乃の横顔。笑ったかどうかも曖昧な横顔。


 過去が、今の私を引っ張る。引っ張られると、今の部屋が急に薄くなる。薄くなると、ここにいる自分も薄くなる。


 「遥ー、麦茶あるよー」


 母の声が襖の向こうから聞こえた。私は返事をするタイミングを失って、携帯を握り直した。指が少し震えている。震えが、私の現在を証明する。


 母が部屋に顔を出した。手にはコップ。氷がカランと鳴る。夏の音。


「なに、それ。懐かしいの出して」


「うん……ちょっと」


 母は私の手元を見て、何も詳しく聞かなかった。聞かないのは、優しさにもなるし、距離にもなる。でも母の表情は、距離じゃなく余白だった。


 私は言った。


「プールの匂いしてさ。急に、いろいろ思い出して」


 言い切らない。言い切るほど整理できていない。でも、言う。言うと、自分の頭の中の霧が少し動く。


 母はコップを机に置いて、氷の音が落ち着くのを待ってから言った。


「匂いはね、勝手に連れてくのよ。でも、戻っても来れるよ」


 戻っても来れる。


 それだけだった。説教も、分析もない。ただ、帰り道の存在を教える一言。背景はそれで十分だった。私は息を吐いて、氷の溶ける音を聞いた。今の音だ。今の時間の音。


 私は古い携帯の画面を閉じた。パタン、という音が小さい。小さいけど、切り替えの音。


 過去は消えない。消えないなら、持ち運べる形にしたほうがいい。裸のままだと、匂いで突然飛び出す。飛び出すと怪我をする。怪我をしないために、ケースに入れる。


 私は携帯を写真に撮った。今のスマホで。古いものを新しいもので撮ると、距離ができる。距離は冷たいんじゃなく、扱いやすさだ。


 それから、メールの一部をメモに写した。全文じゃなく、一行だけ。


『ごめん。今日、プール行けない』


 この短さが、私の胸を刺す形だとわかったから。形がわかれば、取り扱い注意のラベルが貼れる。


 押し入れの箱を閉じて、ケースの外側に小さな付箋を貼った。


「夏/プール」


 それだけ。大げさにしない。大げさにすると、過去が主役になる。主役は今でいい。


 夕方、母とスーパーへ行った。店内の冷房がきつくて、二人で「寒いね」と笑った。笑いが軽いと、心も軽い。帰省は、こういう軽さもくれる。


 帰り道、空が青かった。夏の青は、目に刺さるくらい強い。電線の影がくっきり地面に落ちている。私はその影を踏みながら歩いた。影って、踏んでも怒られない。


 家に着くと、縁側のあたりに光が差していた。青い光というより、白に近い青。夏の光は、色より強さで語ってくる。私は麦茶をもう一杯注いで、氷を足した。カラン、という音が、過去じゃなく今の私の手から出た音だとわかる。


 プールの匂いは、まだどこかにいる。でも私は、それを写真とメモの形にして箱にしまった。しまっても、消したわけじゃない。消さないで、持っていける。


 通知が鳴らなくても、世界は続く。匂いが連れていっても、戻ってこられる。夏の青い光の中で、私はその戻り方をひとつ覚えた。

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