雪が降る町

うみべひろた

雪が降る町

「お願い高井くん、家まで送ってって」

 山中さんは言った。顔の前でぱんと合わされた両手に、ゆるやかな茶色のミディアムヘアがふわりと揺れた。

 これが例えば飲み会の帰りだとか、重い打ち明け話の後だとか、そういう場面であればもう少しロマンチックな想像も膨らんだのかもしれない。だけど残念ながらここは会社だし、まだ夕方だった。何も良いことなんてない。


「他の人たちはどうしちゃったんです?」

 事務所には誰も残っていなかった。蛍光灯もあらかた落とされていて、僕と山中さんの机の周りだけが照らされていた。

「みんなチャイムが鳴り始めた瞬間に帰って行ったよ。今日はすっごい早かった」


 窓の外は事務所の中よりも明るい。

 昼過ぎから降り始めた雪が力を増しながら降り続いているから。さっきまでの粉雪がいつの間にかぼたん雪になっていて、地面も白く染まっている。


「だったら、別に僕を待たなくてもよかったんじゃ……」

「頼んだんだけど、みんな帰りが逆方向だったの。高井くんだけがおんなじ方向だし、スタッドレスだから安全。だから乗せてってもらえばいい、って言ってた」


 ささやかな抗議の声は、これ以上ないほどに理論的な返答にかき消される。

 車に誰かを乗せるだけ。別にそこまで嫌なわけではない。ただ、あんまり話したことのない女性の先輩と一緒に帰って、帰り道で何を話せばよいのかと気詰まりなだけ。

 そもそも帰る方向が同じだということすら知らなかったくらいなんだけど。


「山中さんも学園都市方面なんですね」

「うん、そうだよ。」そしてにっこりと笑った。「私はさらにその向こうだけど」

「――うちよりもさらに遠いんですね」

「よろしくお願いします」


 この人は年上らしいけれど、美人というより、年下の元気な後輩みたいに見える。声がハスキー気味だから尚更。

 ぺこりと頭を下げて、ふわふわと揺れるゆるやかなキャラメル色の髪の間から上目づかいで見上げられると、なるほど、確かに、何も言い返せない。




 下駄箱から出てみると、景色は一面真っ白に塗りつぶされている。空も地面もどこがどこだか分からない。

 ところどころに残った足跡も、さらに積もっていく雪が次々に消していく。


「山中さんっていつも車ですよね」

「車だよー。だけどこんな雪の中を走ったら事故るって自分で分かるからさ。運転しないよ。偉いでしょ」


「スタッドレス、使わないんですか?」

 雪原の中へとベージュのブーツをおそるおそるといった様子で差し出していく背中。その小さな背中に問いかける。

 山中さんが着ている赤いロングコート。あまりに目立つから雪の中でも絶対に見失わない。


「使ったことないよ」視線は自分の50センチ前に注いだまま。「だって、普段はこんなに雪降らないし」

「そうですか。雪が怖いから履いとけって、いろんな人に騙された」

 そう言うと、山中さんは、あはは、と笑った。


「でも良かったよ。」

 うん大丈夫だ、ふかふかで楽しいな。そう言って山中さんは雪の上を無造作に歩き始める。さくさくと音を立てながら。

「高井くんが騙されてくれたから、私はこうやって安心して帰れる。ありがとう、騙されてくれて」


 くるりとこちらを向いて笑うから、思わず目を離す。

「褒めてるんですかそれ」

「んー。褒めてるというか感謝かな? 高井くん、私の近くにいてくれてありがとう」


 なんじゃそりゃ。

 それは良かったです。って生返事をする。「近くにいたっていうか、山中さんが待ち構えてたんじゃないですか」


「うん。そうだね。高井くんのことをずっと待ってたよ」

 言い終わる前にくるりと回って勝手に走り始めるから、その背中に何かを返すことさえできない。

 赤いロングコートは遠くてもはっきり見える。




「見てよ高井くん。雪ほんとうにすごいよ。足跡がすぐに消えちゃう」

 くるりと振り返って走り寄ってくる山中さん。指さす足跡は小さくて、靴のサイズが何センチなのかが気になってしょうがない。


「久しぶりに見ましたよ。こんなに雪が降ってるところ」

 山中さんは手を腰の後ろで組みながら雪を見ている。その背中に言う。

「うん。私もすっごい久しぶりに見た。小学生とか中学生の時以来かも」


「高校生くらいの時までは、雪は特別だったんですよ。もっと積もらないかなって楽しみにしてましたけど。」

 前を行く山中さんの背中を見る。その足取りはこんな中でも軽かった。「今は全然ダメですね。通勤がめんどくさくなるから早くやんでほしい、そう考えちゃいます」


 間断なく積もっていく雪の向こう、空から注ぐ何千何万の光を浴びながら。まるでスローモーションのように、山中さんは足を止める。首をかしげる。ふり向く。くるりと舞うミディアムボブ。


「そう? 私は今でも、雪、好きだよ」


 それはちりりと跳ねた静電気のような。

 芝居がかった振り返り方と、真冬の風に煽られて赤らんだ白い頬。こんな中でもなお柔らかな髪。それを雪のカーテン越しの真正面から見た。

 息を吸い込むと雪が一緒に入って来て息苦しい。

 その髪が雪を弾いてきらきらと、それはダイアモンドの欠片のような。


「それは、こんな中を自分で運転しないから言えるんですよ」

 そんなことを言うと、

「うん。すごく助かる。ありがとう」

 なんて言うから、笑う山中さんから目を逸らす。




 駐車場には、既にほとんど車が残っていなかった。あのデミオですよって言うと、

「すごーい。車が雪だるまみたいになってる」と山中さんは駆け寄る。

「ちょっと待っててくださいね、エンジンをかけます」エンジンをかけると同時に車の中を見る。ちゃんと掃除をしておいて良かったと今になって思う。


 車の雪をぱたぱたと払っている間、山中さんはくるくると回っていた。

「目が回りそうですよ」

「だって、すごいよ。こんなにつるつる滑る。歩くとざくざくしてるのに。」


 くるくると回りながら、山中さんは右腕をいっぱいに宙に伸ばしていた。ただそれだけのことで、小さな雪のかけらは羽根みたいに見えた。

 赤いロングコートを翻して、雪のかけらをいくつも、その小さな手に握りしめる。


 あなたの周りのその羽根は空から降っているのか、それともその身体から舞っているのか。


「山中さん、なんかクリスマスみたいになってます」

「クリスマス? なんで」

「髪に雪がいっぱいついてて、オーナメントをたくさん付けたくなっちゃう」


 ゆったりと巻かれたカールにたくさんの雪を抱いて、暖かなキャラメルみたいな色の髪はまだふわふわ。


「プレゼントを置いてくれても良いよ」

 髪の中に、赤いコートに、ロングスカートに。羽根は雪みたいに、隠しきれないくらいに身体中に見えた。

 ただその姿がとても眩しかった。




 いつも見慣れた帰り道は姿を変えていた。

「見てよ高井くん。田んぼのカカシまで雪だるまみたい。こんなところまでクリスマス仕様なのね」

 畑とか陸橋とか信号とか、山中さんは、何かを目にするたびに声を上げる。

「すごーい。ファミマの駐車場が大雪原になってるよ高井くん。なんか知らない街に来たみたい」


「そうですねぇ。何か、雪が降って、町が広くなったみたいな気がします」

 何もかもが白一色に塗りつぶされていた。道路も、建物も、空でさえも。まるで周りの景色すべてがふわふわと浮遊しているみたいで、まったく現実感がない。

 助手席のキャラメル色の髪。

 唯一、いつも車のラジオでかけているJ-WAVEだけが現実との接点に思えた。雪が降り続いています、というニュース。


「見てよ高井くん、あの公園のブランコまで……あれ」

 急に黙り込んだ山中さんは、下唇に人差し指を押し当てて何か考えるように虚空を見ている。

「ん? 何かありましたか?」

「うわ、なんか懐かしい。この曲。知ってる?」

 J-WAVEは何かの曲のイントロを流し始めていた。ベルの音色と降り積もるようなドラム。


「いや、分からないです」

「ユニコーンのいちばん有名な曲だと思うんだけど」

「ユニコーンとか、活動してた時期のこと知らないんですけど」

「そうなの? いや、歌えば思い出すよ。ぼーくらーのまーちーにー、ことしもゆーきーがふるー」


 それは普段のハスキー気味の声からは想像もつかない、透き通った歌声だった。

 驚いたけれど、知らないものは知らない。「いや、ぜんぜん知らないです」

「そうなんだ……高井くんってもうそんな世代なんだね。なんか衝撃のジェネレーションギャップ」

 あはは、と、山中さんは少しさびしそうに笑った。


 気の抜けたようなボーカルの歌声がにわかに存在感を増して、それに山中さんの小さなハミングが混じる。

 たまには二人で、じゃま者なしで、少し話して、のんびりして。

 それはやはりとても美しい声だった。この歌のことは知らないけれど、多分ずっと山中さんのハミング付きで思い返すことになる。


「じゃあさ、この曲ならどう?」

 歌声が消えてJ-WAVEのナビゲーターが再びしゃべり始めたところで、山中さんは歌いはじめる。

 きみはぼーくーをー、わすれるーかーらー、と。


「いや、ごめんなさい、全然知らないです」

「なんか溝を感じちゃうなぁ。溝というよりもむしろ壁か。高くてかたい壁。ユニコーンがすごく好きで、私はその昔、CDまで買ったのに」

 久しぶりに引っ張り出して聞くわ、もう今の人には理解されない悲しみを感じながら。現代人には興味ない話をしちゃったね。山中さんは言った。


「だったら、そのCDを貸してくださいよ。」

 赤信号で、長いブレーキをかけて車は止まる。それをきっかけにして話しかける。「山中さんが好きな曲、聞いてみたいです」


 この車はBluetoothとか付いてないから。


「そうね、そうする」そして楽しそうに笑う。「私が好きなものを布教してあげる。高井くんも絶対に好きになるよ。」


 エアコンの暖房が効きはじめて、山中さんはまた知らない歌を歌いはじめる。

 まーちのはずれでしゅびどぅばー。


「そうですね、好きになります」

 信号が青くなってアクセルを踏む。

 その瞬間に、

「あーー!」

 山中さんが突然叫んだから、思わずブレーキを踏んでしまう。


「高井くん、勘違いしちゃダメだよ!」

 いや別に。CDを借りるくらいで勘違いなんて。ぼそぼそと呟く言い訳を山中さんは聞こうともしない。

「ユニコーン、別にリアルタイムで聴いてたわけじゃないんだよ。親が好きだから影響されただけだからね。さすがにそこまで年上じゃないんだから」

「……はぁ」

「ぜったいに! 勘違いしないでよね」

 ハンドルを持つ左腕をばしばしと叩いてきて、「暑いよ」ってエアコンも止められてしまう。


「……やっぱ寒い」

 って山中さんがエアコンをつけたのは3分くらい後のこと。

 雪はいよいよ強さを増して、道路さえも隠しはじめる。標識も制限速度も見えない。停止線も完全に消えているから、どこで止まるべきなのか、どこまで走って良いのかが分からない。

 走っている間にも、景色は刻々と塗りかえられていく。


「あとはそのローソンを右に曲がればうちに着くよ。」

 視界の端に見え始めた青く光る看板を指す。

「言うほど遠くなくて良かったです」

「ありがとう。あと、わがままついでにもうひとついいかな?」

 助手席から身を乗り出してこちらを見ている気配が伝わって来る。


「はい。もうここまできたら何でも来いです」

「もう今日は外に出たくないから、買い物したい。ローソンに寄ってもらっていい?」

「コンビニ弁当ですか?」

「そんなわけないじゃない。一人でもちゃんと自炊してます」

 エプロンをつけて、包丁を持ちながら真剣な眼差しでまな板を見つめる姿。確かに、それはとても似合いそうな気がする。でも何か作り物めいたその姿は、自炊とか主婦というよりも家庭科の授業みたいだ。


「いいなぁ自炊。今日は何を作るんですか?」

「あったかいものが食べたいから、クリームシチュー作ろうかなって考えてたの。サーモンとほうれん草のシチュー」

 駐車場を横目にとらえて、右折のウインカーを出す。対向車は全然来ていない。

「クリームシチューかぁ。ここ数年食べてないですよ。聞くと食べたくなっちゃう」


 駐車場の雪はまったく踏み固められていない。平然と運転しているつもりでも、ハンドルを取られたりブレーキがかかりづらかったり。思いもかけずに危険な運転になってしまって、どきりとしたりする。

それでも山中さんは平然としている。

「シチューは煮るだけだから、やってみれば意外に簡単だよ」


 車はコンビニの入り口にいちばん近い場所に止まる。


「いいことを教えてあげる」

 シートベルトをしゅるしゅると外して、山中さんはこちらを向いた。

 身長差があるからどうしたって上目遣いになってしまうその顔は、雪が乱反射しつづけるコンビニの明かりに照らされて、月みたいな美しさを覗かせる。


「――いいこと?」

「うん」

 秘密の耳打ちをするように、声音を落として山中さんは笑う。

 なんで小声になるのさ。

 唇のグロスがきらきらと桃色。

 今まで気付かなかった薔薇の香水。俄かに存在感を増して、なんだか暖かい。

「これは秘密だよ。誰にも言わないで」


 —―シチューの隠し味には白みそを入れると深みが出るの。

 —―とってもおいしくなるよ。うちに伝わる秘伝のレシピ。


 秘伝だから誰にも言ったことないのよ。会社では高井くんが初めて。

 そう言い残して山中さんはドアを開けてコンビニの中へ入って行った。


 白みそ。


 そうですか。

 すごいね。


 ラジオは再びニュースを流し始める。今夜は大雪になるでしょう、と。

 それにしても。停車位置はここで合っているのだろうか。線が雪に埋まっていて見えないから、正しいのかわからない。

 だけど周りには車の姿がまったく見えない。心配することはないか、別に間違っていたって誰にも迷惑は掛からないし。


 ローソンの中を覗き見るけれど、ガラスは結露か何かで曇りきっていて中の様子を窺い知ることはできなかった。山中さんは何を買っているのだろうか?

 行ってみようかな、とエンジンキーに手をかけながら迷っているうちに、山中さんが走って戻ってきた。


「寒いなぁ、車の中が暖かいから油断してた」

 がちゃり、と助手席のドアが開いて、手袋をしたままの手をこすり合わせながら入ってくる。「考えてみれば外が寒いことくらいわかるのに」


「何を買ってきたんですか?」と聞くと、

「牛乳だよ。ちょうど切らしてたんだ」そして、ごそごそと袋の中を探る。「あと、はい。これ」

 そう言って山中さんがこちらに差し出してきたのは中華まんだった。


「肉まんですか?」

「もちろん肉まんだよ。あんまんなんて選ばないよ。しかも高いほうの特選肉まん。どーだ先輩だからこんな高いものを買っちゃうのだ。敬いなさい」

 そう言って、自分も袋の中の一つを取る。

「私が高校生くらいだったときは、帰り道で肉まんを買い食いすることがいちばん冬っぽい行動だったのよ」空になった袋をくしゃりとコートのポケットに突っこむ。「あなたたちの世代がどうなってるか、私には全然わからないけど」


 山中さんは肉まんにぱくりとかじりつく。

 口が小さいから、ひと口では具にまで行き着いていない。

 なんでそんなに世代にこだわるんだ。


「僕たちも一緒です」

 冬に入るコンビニの暖かさ。部活の後で冷めた手を温めながら、肉まんを頬張っていた。「山中さんと同じです」


 かじりついた肉まんの皮は、想像していたよりも熱くてふかふか。中の具も記憶の中よりずっとおいしい。だけど同じ。あのころ食べていたのと同じ肉まんだ。

 ローソンの青い看板、手袋の上からでも感じる暖かさ、前を歩くピーコートの女子生徒。もう忘れかけた、だけど時々記憶の中から浮かび上がって眺めた光景。


 だから、

「肉まんなんて、久しぶりに食べました」

 何年ぶりだろう。やはり肉まんは暖かかった。


 その湯気の向こう、今、記憶の中にいる女子生徒はふわふわの茶色いミディアムヘアをなびかせながらくるくると回っていた。

 羽根が舞っていた。


「同じなんだね。良かった」

 山中さんは微笑んでいる。窓の外に積もり続ける雪を眺めながら。

「今気づきましたけれど。やっぱり雪って良いものですね」

 見慣れたはずの景色。それは変わらずにずっとそこにあるのに、全然別のものに変わってしまったように見える。

 もういい加減に見飽きていた景色。夜まで降り続けるという雪は、この景色をさらに変えていく。

 もっと遠くへ。


「ね、すごく良いでしょ?」

 山中さんは肉まんを両手で持ちながら、まるでリスみたいだ。「私の好きなもの、ひとつ布教完了したのね」


 雪はいつまで降り続けるのだろうか。

 いずれ止むのは間違いないけれど、例えば明日、雪が溶けたら。その後の町はどうなるのだろうか。見慣れたいつもの町に戻るのだろうか。

 もしかすると全然違う景色が表れるのか。


「なんでも布教してくださいよ、いくらでも染まりますから」

「まずはユニコーンのCD。帰ったら探すから」


「一つだけ聞いていいですか?」

 そう聞くと、まだ熱いなぁって肉まんを見つめながら山中さんは言う。

「いいよ。だけど一つだけね」


「なんで秘伝のレシピを教えてくれたんですか?」

「お礼だよ。こんな場所にまで連れて来てくれたんだから」


 だけど。冷静に考えたらちょっとあげすぎたかも。

 山中さんは両手の肉まん越しにこちらを見上げる。

「特製肉まんは余計だったかもね」

 ふふふって目を細める。「私たちって今はそんな関係じゃないし」


 そして車のドアをがちゃりと開ける。雪が車に吹き込んでくる。

「じゃ、お邪魔しました—―うわ、すっごく寒い」

「いや、そりゃ寒いでしょ。乗ってくださいよ。家まで送りますから」


「だから言ったでしょ」山中さんはよたよたとこちらを振り返る。「家を教えるほど、別に私たちは親しくないもん」

「いや、別にそんな」


「だから今日の全部は、」

 ——私と高井くんだけの秘密だよ。


 そう言い残して、ドアが力いっぱい閉められる。


 特製肉まんのお礼は3倍返しでいいよ! とか何とか。

 外で叫んでいるけれど、雪にかき消されてよく聞こえない。


 そのうしろ姿をじっと眺める。

 赤いロングコートは降り続く雪の中でも目立つ。遠くなってもしばらくは消えない。

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