僕たちとキミたちを隔てる国境線上で
@k_ishiguro
やせた土地にまばらに生える草はみんなうなだれるみたいに葉先が地面に向かって折れ曲がっていた。養分が足りないんだ。雨だってめったに降らない。わずかに吸い上げた水分は葉のすみずみに行き渡らせるには少なすぎたし、日中の陽射しはそのわずかな水分すらも強引に持ち去ってしまうから、細く伸びた葉はよじれ、しわが寄り、そのしわには砂埃がたまり、なおさら地面へとむかい深く折れ曲がっていった。そうしたいくらかの草が寄り集まり、だけどバラバラの方角に、まるでその先にそれぞれの神様がいるのだといった様子で頭を下げていた。でもその先には同じように頭を下げている草の集まりが何メートルも離れてあるだけだし、あとはかさかさとした表面の大小の石がずっとそこに落ちていて、これから先の何年も何十年もそこに落ち続けているのだと思えるようなありかたで転がっているだけだった。小さな虫たちにとってはその草の集まりひとつひとつ、石の下のひとつひとつが世界そのものだった。その場所でうまれて、水気のない草の葉をかじり、同じようにしていた同じような虫と交尾して、かじった葉の脇に卵を産みつけ死んでいくその虫たちにとってそこは宇宙そのものといってもいいくらいだった。草の集まりひとつと別の草の集まりひとつの間には乾燥と、静寂と、断絶があるだけだった。それでもときどき気の迷った虫が、まだ低い月の光に照らされて折れ曲がった葉の長く伸びた影つたいに草の集まりを飛び出すことがあったけれど、そうした虫のほとんどは黒い影とそれの切れた月の光との境目で立ち止まり、自分はなにを求めてこんなところに来てしまったんだろう、ここにはなにもないしこの先にもなにも見えないじゃないか、住処には生きて子を成し死んでいくには十分な食べものがあるのだから他に何が必要だというんだ、と言って元々いた世界へと引き返した。影の境界線から飛び出したごく少ない虫は最初に月の光の眩しさにひどく驚いて、そうして大半の虫はそのことだけで死んでしまい、そうならなかった強い個体は六本の脚で乾いた砂をかいて進んだ。強い個体には強い意志が備わり、それはひるがえって強い脚や硬い殻を備えさせていた。虫の進んだあとには砂の上に複雑だけれど規則正しい模様が残され、月の光が横から射すとわずかなくぼみにも濃い影を映し出し、誰にも分からない新しい文字のように見えた。いくつもつながるとそれは文章のようにも、何かの物語を紡ぎ出そうとしているようにも感じられた。月の光は熱心にそれを読み取ろうとした。もっと近くで観察するために、月の光は乾いた土地にできたなだらかな丘陵の斜面を駆け降り、夜行性の虫たちがひっそりと暮らす草の集まりの横を駆け抜けると草の影はよりいっそう長く伸びた。その影の先から始まる虫の足跡に四つんばいになって鼻先を近づけると、わずかに懐かしいようにも感じられる草いきれの匂いがして、月の光は目を細めると大きく深呼吸をしたが、匂いはしかしすぐに錆た鉄のような匂いに変わってしまった。それは仕方のないことなのだと月の光には思えた。この土地のどこかにはひどく曖昧な国境線があり、その国境線で分けられたふたつの国は月の光が覚えているかぎり絶えずなんらかの、毎回別の理由で戦争をしていたから、銃弾や戦車や、墜落した戦闘機のバラバラになって錆た鉄が風化して自分は砂粒だといった顔でたくさん混じり合っていた。あるいは銃弾や戦車や戦闘機に殺されてしまった兵士が倒れ、大きく体にあいた穴からこぼれだしてしまったたくさんの血や内臓の匂いが染みついているのかもしれなかった。国境線は東に大きくはり出した。それを予備動作にして西側に大きくひき戻された。だから今はここがどちらの国の土地なのかひどく曖昧なままだから、壊れてしまった兵器や倒れてしまった兵士はそのままうちすてられ、風が吹くと吹きだまりになって小さくて緩やかな砂山になった。月の光に照らされて、草の影を飛び出したときと変わらないリズムで歩き続ける虫は、今ちょうどその砂山の頂上を越えるところで、月の光が顔を上げると頂きを越えて姿が見えなくなった。砂山の斜面にも虫の足跡は残り、月の光がそれをくっきりと浮かびあがらせ、角度がついているものだから幾分かはっきりとその足跡は文章を表しているように感じられた。キミの国の話を聞かせて?と虫の足跡は物語を語りはじめた。
「キミの国の話を聞かせて?と彼女がひっそり声を発すると、「キミ」という言葉と、話を聞かせての「は」の言葉と一緒に白い息がふたつ、ぽっと生まれた雲のように立ちのぼり、それを指先でつまめそうなくらいはっきりと月の光が照らし出した。彼が目で追うとふたつの白いかたまりはその位置関係を保ったままやがて輪郭をあやふやにして溶けるように見えなくなった。あとには満天の星ばかりがくっきりと見えて、そのいくつかを線で結ぶと彼の知っている星座になった。おおいぬ座、こいぬ座、オリオン座のそれぞれのいちばん光る星を結ぶと大きな三角形ができる。そのことを塹壕をはさんで向こう側に座る彼女に教えることは軍規違反にあたるのだろうかと彼は考えて、すぐに機密漏洩にあたるのかもしれないと考えたが結局どちらかはよくわかることができなかった。彼女の息を白く照らした月の光は彼の背中側から低い角度で射していて、だから膝を抱えて地面に座った彼の長く伸びた影を彼は自分の正面に見ていた。彼の足元から伸びはじめた影はかたわらでゆらゆらと燃えているたき火の光と混ざり合いわずかに中和されたがそれでも伸び続け、その先の塹壕まで届くとちょうど彼の首のところでぱっつりと切断された。塹壕ははるかむかしの戦争のときに掘られたもので今はそこがちょうど彼の国と彼女の国の国境線だった。キミの国では犬を食べるってほんとう?と国境線の向こうで彼女が尋ね、最初に口を開いた時と同じようにふたつの白い息が立ちのぼったけれど、彼は塹壕のところどころで曲がりくねって北に伸びる様子を目で追っていたのでそれを見ていなかった。見ていたのならそのふたつの白い息が彼女が話すときのイントネーションの癖と同期していたことに気づいたかもしれなかったけれど彼には知ることができなかった。塹壕は月の光にくっきり照らしだされどこまでも見渡すことができそうだったが、実際には消失点として一点に収束されると見えなくなってしまったので、彼にはそれがどこまで続いているのかわかることはできなかった。軍学校ではその全長を教えられてはいないし、今も夜通しどこかで誰かの手によって掘り進められているだろうということはわかった。南側を見渡しても同じ風景が続いていて、彼は塹壕について考えることをあきらめて彼女の質問について考えはじめた。キミの国ではそんなふうに教えられているのだろうかと彼が言うと、彼女が学校なんかで教えられたわけじゃないの、でも村の年寄りはそうやって子供たちに教えるのと返し頭を上げた。ヘルメットの影に隠れていた彼女の顔を彼がたいていたたき火と彼女がたいていたたき火とが照らしてよく見えるようにした。彼女の顔は彼女の声の印象よりも若く見えたし、別の国の人間だというのに村ですれ違ってもそうだと気づかないくらいだと思わせた。顔をあげた彼女はしばらく星を見あげてあそこに冬の大三角形が見えるでしょう?あれはキミの国の人間が犬を襲っている姿を現しているって教えられたの、仔犬が襲われたとき立ち向かう親犬になりなさいってと言った。ひどい話だと彼は笑ってたき火に薪をひとつ放り投げた。たき火はその頭を薪で押さえこまれいちど火を小さくさせたが、新しい薪を取り囲み飲みこむと最初よりも高く火の粉を巻きあがらせた。犬を食べたりはしないよ、それどころか僕たちの村では犬を狩りに連れて行く相棒としてとても大事にしていたよ、冬の大三角形は犬を連れて狩りに出かける様子を現しているんだ。火の粉がひとつひとつと舞いあがる速度に合わせ、彼は言葉を解き放った。そのときにはもう軍規や機密について考えを巡らせることはなかった。僕が産まれた同じ春に父の犬と隣の家の雌犬の間に五匹の仔犬が産まれたんだ。新しく犬が産まれるといい猟犬を手に入れようと村人がこぞって顔をのぞかせるから、父はいちはやく隣の家の納屋の戸を開けた。五匹の仔犬のうち父の犬によく似たまだらの仔犬が、まだ目も開かないというのにその音に耳をそばだて顔をあげたんだ。こいつはいい猟犬になるぞ、と言ってその仔犬を父は頼みこんで連れて帰った。そうして僕が眠っていた揺りかごにその仔犬をそっとおろしたんだ。それから僕とその仔犬は兄弟同然に育った。同じベッドで眠り同じ食べものを食べた。父に連れられはじめて狩りに出かけたときも一緒だった。森には朝もやがかかり僕と父の前をいくよく似た犬の親子の後ろ姿はかすんで見えた。朝つゆをたっぷりふくんだ腐葉土は踏みしめるたびに濃い森の匂いを立ちこめさせ、僕が枯れ枝を踏んでぱきりと音を立てると犬の親子はほとんど同時に振り向いた。父の犬はとても耳が良く、その子供の僕の犬もとても耳がよかった」
月の光が読んでいた虫の足跡は砂山の頂上までたどりつき、虫の姿が見えなくなった頂きの向こうに続いていたが物語はそこでいちど中断された。月の光が山の頂上に立つと後ろから夜風がその隣に並び、なにをそんなに熱心に探しているんだと聞いた。物語だよ。今夜一匹の小さな虫が旅立ったんだ。その子の足跡は新しい文字になって僕たちの知らない物語を紡ぐんだ。そう言った月の光の言葉に夜風が笑い声を上げると砂山の斜面にしがみついていた草の集まりがゆれてかさかさと音を立て、その葉にしがみついていた虫たちが振りほどかれぽとぽとと砂の上に落ちた。月の光に照らされた虫たちは慌てて草の影に飛び込むが、いくつかの虫たちが間に合わず眩しさで命を落とした。そうして逃げまどったりもがいたりした虫たちの這ったあとが砂の上に浅いくぼみを作り、夜風がそのかたわらにひざまづくとこれみよがしに声を上げて読みあげた。隣町に空襲があった日、わたしは年老いた犬と信号待ちをしていたと書いてあると夜風は月の光を見あげて笑った。「隣町に空襲があった日、わたしは年老いた犬と信号待ちをしていたの。年老いた犬は信号待ちの間にアスファルトにすっかり伏せてしまうから、わたしはその横に座って背中をなでていた。犬の毛はほつれてどこかあぶらっぽく、絡まった毛の内側には何かの植物の種やかさぶたのようなものが絡まっていた。そう言って彼女は右の手のひらを見つめた。小銃はもうおろしてしまっていて、それを見た彼も同じように自分の右側に小銃をおろした。砂の上に小銃がおろされるとき、肩かけ紐の金具がカチャリと音を立てて彼女がはっと顔をあげたが彼女は自分の小銃に手をのばすことはなく、少し小首をかしげた表情は森の中で振り向いた僕の犬によく似ていると彼には感じられた。彼と彼女は塹壕をはさんで同じような格好で座り、それぞれ右側によく似た小銃をおいて向かい合っていた」あるいは「犬たちは爆弾をくわえて戦場を敵陣に向かって走った」と夜風は言って虫の這い回ったあとに息を吹きかけた。砂はさらさらと小さい粒から押し流され、あとに残った大きい粒は足元の砂が払われるとバランスを崩して倒れ、その勢いのままころころと転がって流されていった。虫の足跡が消えると夜風は立ち上がって膝の砂を払った。このパンパンと膝を払う音だって歌や詩に聞こえることもあるだろう、砂の転がる音は?朽ちた戦車の穴を通り抜けるすきま風はどんな物語を紡ぐんだ?いいかい、虫の足跡は虫の足跡なんだ。万が一にもその足跡が紡ぐ物語はせいぜい食べ物のことか繁殖のことだよ。それにそれは別にくだらないことや下等なことなんかじゃない。生き物としてごくシンプルで正しい物語だ。上等とか下等とかそういうことじゃないんだ。むしろくだらないのはそこに意味を見いだそうとする行為のほうさ。身勝手に解釈することさ。そう言って夜風がごうごうと音を立てて砂山の頂上で渦まくと、月の光は小さく肩をすくめた。草の影では虫たちが震えている。辺りの砂はすっかりかき回されて追っていた虫の足跡も見えなくなってしまった。
かさかさと笑い声を残して夜風が去ってしまうとこの土地はほんとうに静かだった。どんな息づかいもここには存在しないようにすら感じられて月の光が肩を抱いて身震いすると、心許なさに合わせるように雲が流れて来て月の本体がかくされ、辺りは暗くいちだんと寒々しく感じられた。砂山の斜面にへばりついた草は無残に折れ曲がり葉先はなかば砂の中に埋もれてしまっていて、もうどちらが根元でどちらが葉先かもはっきりとわかることのできないアーチのような形状になっていた。夜風が巻き起こした混乱はいまだ虫たちを落ちつかせず、一列になって歩く姿は難民の行列みたいに感じられた。難民の列はアーチ状になった葉の根元か葉先のどちらかわからない方からのぼりはじめ、その内側を天地を反転させて進み、そうしてやっぱり根元か葉先かわからない方から地面へと降りていった。月が雲に隠れているあいだ虫たちはそうして何周も何周も草のアーチと地面とを行き来していたが、その虫の一匹たりともとまって休もうとは言わなかったから行列は疲れはて、アーチの頂上で力尽きて足を滑らせると、いくらかの虫が地面に叩きつけられた。落ちて仰向けになった虫の死骸を見て難民の先頭だった虫は何かの危険が迫っているのだと感じ、その死骸を迂回すると草の根元、あるいは葉先に行列を誘導した。そうしてアーチを何周もするあいだに年老いた個体、生まれつき体の弱かった個体から力尽き難民の列が通るたびにその数は多くなっていった。砂の上に散らばった虫の死骸は白黒を反転させた夜空の星々みたいだった。行列の足跡は無作為に散らばった虫の死骸の間をいくつもの線で結び、上から見おろすと星座図のようにも見えた。月を覆っていた雲には砂地に散らばる黒い点が羊の群れに埋もれる牧羊犬のようにも感じられ、星座になった一匹のある犬をめぐる物語を思いおこさせた。
「ある村に一匹のまだら模様の犬が産まれた。生まれつきとても耳のいい犬で、狩りに出かけると雪の重みで折れる枝の音や、はるかな地鳴りや遠くの雪崩の音、凍りついた川の氷が絶えずこすれ合いひび割れる音が響く森の中でも、飼い主である猟師の声や岩の影に隠れる野うさぎの雪を踏みしめる音を聞き逃したりはしなかった。ある冬の終わり、犬は雪深い山奥で手負いの鹿を追っていた。雪の上にはぽつぽつと南天の実を落としたように鹿の血のあとが続いていたから追いかけることに苦労はなかった。犬の耳には鹿のあらい息づかいもずっと聞こえていた。やがてごうごうと冬でも凍らない水量を誇る川が木々の間に見え隠れしてきた。国境の川だ。鹿がその川へ続く斜面を転げるように下っていく音が聞こえ、犬はそれを追って藪へ飛び込んだ。猟師が追いついたとき、犬は若い牝鹿の喉元に食らいついていて川むこうの兵士数人に取り囲まれていた。これはお前の犬か?と兵士が犬の頭に銃口をむけて言うと自ら返事をするように犬は低く唸り声をあげた。俺たちの国では鹿は神聖な生き物なんだ、それを殺すとはなんて不道徳な行為だと兵士が言って、川のこっちは僕たちの国だと猟師は言って返し猟銃を兵士に向けた。どちらが先に発砲したのか分からなかったけれどすぐに国境の川は小さな戦場になった。銃弾が飛び交いそこにいた何人かが激しく河原の石の上に倒れ、何人かはどこかへ逃げていったが、それが川のこちら側だったのかあちら側だったのかは犬には分かることができなかった。人間の血の匂いは鹿の血の匂いと混じりあい、そこに犬の血の匂いが加わって犬は自分の体も傷ついていることに気がついた。あれほど激しく鳴り響いた銃声も、轟く川のたくさんの水が流れる音も聞こえなくなっていた。つんざく銃声を間近で聞いて犬の鼓膜は破れてしまっていた。足を引きずり幾日かさまよった犬はどこかの町で小さな女の子に出会った。どこからきたの?けがをしているの?と少女は犬に声をかけるが犬にはなにも聞こえなく、ただ口の動きで自分が話かけられていることだけはわかることができた。この子はなにを自分に話しているのか、何度も耳を傾けたが無駄な努力でしかなかった。それでもその仕草は少女の気をとてもよく引いた。お前は人間の言葉がわかるみたい、耳がいいんだね、と犬の鼻先をなでて家に連れて帰った。それから何年もたって、犬はすっかり年老いていたが少し大きくなった少女はそうした犬の世話をよくした。古傷が痛んで犬は散歩の途中で何度も足を止め、信号待ちのたびに地面にぺたんと伏せた」
それで?と雲に聞いたのは石の影に隠れていた小さな虫だった。それでどうやってその犬は星座になったの?と虫は強すぎる月の光や、強すぎる夜風や、突然の暗闇とその寒さから身を守ろうと隠れていた石の影から、雲の語る物語に気を引かれて体を乗り出した。虫は疲れ果てていた。住処から飛び出してずいぶんと時間がたっているように思えたし、その間なにも食べていなかった。隠れていた間に幸運にも見つけた夜露をひと雫飲んだだけだった。脚も一本抜けてしまってひどく歩きづらかった。ときどき見かけた別の国の虫たちは、翅のかたちも触角のかたちもまるで違って、同じ虫のようには思えなかった。そうして旅のあいだ誰とも口をきいていなかったから、なにより会話に飢えていたのかもしれなかった。そうした小さな虫に雲は目を細めた。まだまだ長い物語なんだよ、お前たち虫の寿命の何倍も物語は続くんだよ、たぶんそうなんだよ、どうしてこんな物語を私は知っているんだろうか?きっとどこかで読んだか聞いたかしたんだろうな、どこかで降り積もった雪や、海まで流れた川や、たき火の煙や、誰かの吐いた白い息が巡り巡って私たち雲になるのだから、その間のどこかで見たり聞いたりした話なのかもしれないし、物語はどんどんつけ足されてやがて入道雲のように空高くそびえ、そうして雨となって降りしきるのかもしれない。結末だけを聞くことはできないの?と虫は少し遠慮がちに聞いたがけっして雲は怒ったりばかにしたりはしなかった。ただ目を細め、見てごらんと言った。雲はいくつもの小さな雲に散り散りになりはじめていて、物語はいくつものエピソードに分かれると、そのどこに物語の結末が含まれているのかはもう雲にもわかることができなかった。再び月が顔を出すと薄くなった雲が虫の足元にまだらの影を落とし、その影は複雑にかたちを変えながら文字のような、文章のような意味を砂の上に記しているように虫には感じられた。そこに虫は物語の断片を見たような気がした。虫くいだらけの物語の空白部分を虫は埋めようと頭をひねったが、出てくるのは空腹と生存への焦りばかりだった。草の影から飛びだしたときの衝動も言葉や物語にすることはできなかったが、体を突き動かしたその衝動は虫を石の上に登らせることに成功した。虫はこれまで這ってきた大地を少し遠くまで見渡すことができた。最初にいちばん近くの草の集まりが見え、そのむこうに同じような草の集まりがいくつも見え、そこには自分たちのような虫がその土地その土地に合わせて少しずつ体のかたちを変えて暮らしているのだろうと思えた。食べ物が違うから触角から放つ匂いで会話はできないかもしれないけれど、砂に書いた足跡はどうだろうか?同じ六本脚なのだから少しの読み違えや、誤解や、解釈の違いはあっても物語を共有できるんじゃないだろうか。虫にはそれがとてもいいアイデアのように感じられた。雲の残した虫くいだらけの物語の空白部分を虫たちが補ってひとつの物語にするのだ。一匹一匹の寿命はその物語の一段落より短くても、たくさんの虫たちが集い、受け継げばいつかは物語を完成させられるかもしれない。砂の上を虫が這ったあとは散り散り点在する草の集まりを星座を結ぶようにつなぎ、それは夜空の月から見たときにあの物語の猟犬の姿に見えるかもしれない。虫は石の上から飛び降りると砂の上に五本脚で不器用な足跡を残した。歩き出した途端に虫の中で物語が地面から水が湧くように染み出してきた。左の脚がまた一本落ちてしまったが、それは新しい文字のように砂の上にはっきりとかたちを残して置き去りにされ、石の影から出てきた蜘蛛が拾い上げかじると、これまで食べたことのない新しい味を感じた。それは何年も前にこの土地に降った雨の匂いにも似ていたが蜘蛛にはそれ以上なにかに例えることはできず、苛立ちにも似た気持ちで糸を吐き出すと、それはいつかその蜘蛛の糸に絡め取られる羽虫にとってはじめて見るのに、どこか知っているようなかたちをきっとしていた。
草の影から旅立つすべての虫が最後はそうなるように、四本足の虫はどこか物語の途中で力尽き、乾いた風にさらされるとあっという間にバラバラになって砂粒に紛れてしまった。あるいは石の下から飛び出した砂ネズミに捕まって頭からバリバリと食べられてしまった。鳥に見つかってしまったのかもしれないし、そっと忍ばされた寄生虫に体を食い破られたかもしれなかった。次の夜に月の光がその虫を探したとき見つけたのは干からびて丸まった触角の一本だけで、それはまだどこかへ向かって這っていく虫が残していった物かもしれなかったが、ほんとうのことはわかることができなかった。ただその触角は句点のように虫が這ってきた足跡の最後に静かにそっと添えられていて、月の光にはここで虫の紡ぐ物語が閉じられたのだと感じられた。最後の段落で虫の足跡の物語は戦争は終わると思う?と彼女の言葉を語った。
「戦争は終わると思う?と彼女は毛布にくるまって、塹壕の向こうで同じように毛布にくるまり横になった彼に聞いた。「終わる」という言葉と「思う」という言葉のふたつの「お」のところで彼女の口からふたつの白い息がぽっと立ちのぼった。何個目の小さな雲だろうかと彼は考えていた。ひと晩でこんなに誰か他人の白い息を見るのははじめてのような気がした。キミは犬をとても大切に思っているし、わたしもそうだから、キミの国の人間は犬を食べるという誤解や言いようのない恐怖をわたしや、わたしの国の誰も感じる必要はないし、同じ犬好きならきっとわかりあえるような気がするのと彼女は言い聞かせるように続け、その間もいくつもいくつもの白い息が冬の大三角形に吸い込まれていくのを彼は見送った。そもそも、今回の戦争は何がきっかけだったのだろうか?と彼は思い返していた。軍学校ではなんて習ったのだったろうか、軍規にはなんて書いてあったのだろうか、あれほど叩き込まれたはずだったのにその大義はひとつも思い出すことができなかった。そもそもきっかけなんてあったのだろうかとさえ思えた。彼女と彼を隔てる塹壕は今の戦争の最前線で国境線だったが今夜はあまりにも静かな夜だった。戦争が終わったらまた犬を連れて狩りに行こうと思っているんだけど、キミは鹿の肉は食べられるかい?それともキミの国では鹿は神聖なんだろうか?と彼は自分の吐いた白い息を見上げながら彼女に聞いて、その白い息の輪郭がぼやけて消える間際、彼女は鹿肉は好きだよと答えた。それにね、鹿の角でアクセサリーを作るの、穴を開けて、紐を通して、笛になっているの。彼女の声はやがて途切れ途切れになって、そうして規則正しい寝息に変わってしまったあと、彼は彼自身が眠ってしまうまでのしばらくの間ひとりで星々を眺めていた。おおいぬ座、こいぬ座、オリオン座、あとはわからない虫くいだらけの星座図には僕の知らない物語がたくさんあるんだろうな。塹壕の向こうで眠る彼女の鼻がぴいとひとつ鳴って、彼は息を殺して笑った。彼女が作るという犬笛みたいなその音に耳のいい犬の親子が振り向く後ろ姿が、笑いと一緒に漏れた白い息の向こうにかすんで見えるような気がした。彼は先に眠ってしまった敵国の兵士や、夜空の知っている星座や知らない星座や、月や雲、生きている者、死んでしまった者、はじめから生きてはいない者に向かって分け隔てなくおやすみと言って目を閉じ、見送ることはなかったその言葉と一緒に吐き出された白い息の輪郭が曖昧になって消えていく姿を思い浮かべながら眠りに落ちた。そうして朝になっても、僕たちとキミたちを隔てる国境線上できっと戦争は続いている。」
了
僕たちとキミたちを隔てる国境線上で @k_ishiguro
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