初恋と逃避行
聖澤
初恋と逃避行
結婚式の前夜だというのに、この部屋には静寂が漂っていた。
佐伯 直人は、テーブルの上に置いたままの白い封筒を見下ろしていた。祝電用に買ったそれには、まだ一文字も書かれていない。ペンを握ると指先が妙に冷たくなって、結局、また机に戻した。
「おめでとうございます」
それだけを書けばいいはずなのに、どうしても手が動かなかった。初恋の相手、紗季が結婚する。明日の昼には、彼女は白いドレスを着て、別の男の隣に立つ。それは何十カ月も前から分かっていた事実で、今さら驚くようなことじゃない。それでも、胸の奥に残ったままの何かが、じわじわと痛んだ。
時計を見ると、二十二時を少し回っていた。家には誰もいない。両親は共働きで、今日は帰りが遅いと言っていた。直人は封筒を引き出しに押し込み、上着を羽織って玄関を出た。
夜の空気は湿っていて、秋の始まりの匂いがした。行き先なんて考えていない。ただ、部屋に戻りたくなかった。駅まで歩くうちに、紗季との楽しかった日々のことを思い出す。5歳の自分は、彼女の後ろを必死に追いかけて、何度も転んだ。紗季は振り返って、そのたびに笑ってくれた。
改札前まで来て、直人は足を止めた。終電までは、まだ少し時間がある。ベンチに腰を下ろし、スマートフォンを取り出す。画面には、何の通知もなかった。
そのときだった。
「……直人?」
聞き覚えのある声に、心臓が跳ねた。顔を上げると、そこに紗季が立っていた。薄いカーディガンに身を包み、髪はゆるくまとめられている。結婚式前夜とは思えないほど、いつもと同じ姿だった。
「こんな時間に、どうしたの、まだ高校生でしょ?」
そう聞かれて、直人は言葉を失った。偶然、なんて信じられなかった。でも、彼女は確かにそこにいて、少し困ったように笑っている。
「……散歩」
咄嗟に出た嘘は、あまりにも頼りなかった。紗季は一瞬だけ目を細め、それ以上は何も聞かなかった。
「そっか。私も、ちょっとだけ」
「紗季姉、明日、早くないの?」
「ちょっとだけだから」
二人の間に、微妙な沈黙が落ちる。改札の向こうで、列車が走り去る音がした。直人は、その音を聞きながら思った。
──逃げるなら、今しかない。
その理由を、まだ言葉にできないまま。
終電のアナウンスが、思っていたよりもあっさりと流れた。
「まもなく、3番線、最終電車が発車します」
紗季は一度だけ改札の方を見た。足はそちらに向かなかった。直人も、何も言わない。言えば、この並んだ距離が崩れる気がした。
電車の扉が閉まる音がして、風が抜ける。構内に残ったのは、夜の匂いと、行き場を失った二人だけだった。
「……終わっちゃったね」
紗季が小さく言う。残念そうでも、後悔しているふうでもない。ただ事実を確認するみたいな声だった。
「うん」
直人はそれだけ答えた。胸の奥で、何かがほどける音がした。帰れない。そう思った瞬間、怖さよりも先に、奇妙な軽さがきた。
駅を出ると、夜はさらに深くなっていた。人通りは少なく、街灯の下にできる影がやけに長い。
「どうする?」
「……どうしよっか」
決めない会話をしながら歩く。バスターミナルの明かりが見えたのは、偶然だった。俺たちは夜の虫のように煌々と光るバスターミナルへと引き寄せられた。
夜行バスの案内板が、淡々と行き先を並べている。直人はその中の、聞いたこともない地名に目を留めた。
「ここ、まだ席あるみたい」
言ってから、しまったと思った。提案してしまった。でも紗季は、否定しなかった。
「遠いね」
「朝には着くらしい」
紗季は少し考えるように黙って、それから肩をすくめた。
「……明日の朝まで、だよ」
それが条件なのか、自分に言い聞かせているのか、直人には分からなかった。ただ、うなずいた。
切符を買う間、二人は離れて立った。機械の操作音が、やけに大きく聞こえる。紙の切符を受け取ったとき、直人は初めて、これは夢じゃないと思った。
発車時刻が近づき、バスの前に人が集まり始める。見送りも、別れの言葉もない人たち。皆、どこかへ行くだけの顔をしていた。
「行こ」
紗季がそう言って、先に乗り込む。直人は一瞬だけ立ち止まり、振り返りそうになるのをこらえた。バスの中は、静かだった。座席に腰を下ろし、エンジンがかかる。窓の外で、街の灯りがゆっくりと後ろへ流れ出す。
逃げているのかどうか、直人にはまだ分からなかった。ただ、この夜が動き出してしまったことだけは、確かだった。
初恋と逃避行 聖澤 @felnand2314
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