緊急事態の恋
鴉
第1話 感染症
2019年12月末、海の向こうの国で起きたコロナウイルス感染症はパンデミックとして世界規模で蔓延し、数年にわたって深い影を落とした。
これは、コロナ禍でありながらも、困難にめげずに運命に立ち向かった青年の物語である。
******
乱雑に山積みになった資料が置かれたデスクに座り、彼等は深刻な表情を浮かべながら胃が痛くなる思いでパソコンを睨みつけて作業をしている。
その傍ら、マスクをしている青年は彼等よりもさらに深刻な表情で、椅子に座って待っている。
そして上司らしき人間は、その青年の元へと歩み寄り、一枚の書類を青年に差し出し、マスク越しに重々しく口を開く。
「鏑木さん、今日限りで君との契約は終わりなので、この書類に印鑑とサインをお願いね」
いつも眠たそうにしている、やる気のなさそうな青年の上司は、「こいつの人生なんて知ったことか」と機械的に書類を手渡す。
「は、はい……」
青年は、コロナ禍のこのご時世で頼みの綱だった仕事がなくなる絶望に目の前が真っ暗になり、淡々と事務手続きを行なった。
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鏑木力丸は、つい30分ほど前に2年登録していた派遣会社を首になった、所謂派遣切りというやつである。
派遣先の仕事はお菓子メーカーの包装の仕事だったが、コロナ禍に突入したことで派遣元の仕事が激減して大規模なリストラを行うこととなり、まだ20歳と若い力丸もその対象になった。
(これからどうすりゃいいんだよ……)
力丸は一人暮らししている6畳一間で家賃4万円ほどの築二十年のアパートに戻り、すぐさま手洗いとうがいを行って消毒液を手に擦り込ませる。
預金残高が10万円ほどであり、実家に帰って親に頼れば解決しそうなのだが、彼は赤ん坊の時に児童福祉施設に赤ちゃんポストに預けられたため身寄りはいない。
(単発の派遣だったから失業保険とかねーし、マジでやべぇな……)
力丸はテレビをつけ、コロナ禍の状況を確認すると、『感染者○人』などのネガティブなワードが出てきてさらに憂鬱な気持ちに襲われる。
「うわっ超うざっ」
慌ててチャンネルを変えると、自転車で宅配サービスをしている売れない芸人のドキュメンタリーが画面に流れ、力丸はそれに目を奪われる。
「なんだこの仕事は?」
その芸人が背負っているリュックを見ると、『XUBER EATE』と書いてあり、力丸は興味が湧いてそれをスマホで調べ始める。
(これなんか、儲かりそうだな。やってみるか……)
近所のリサイクルセンターで購入した、3万円の中古のパソコンを開き、『XUBER EATE』と検索して出てきた画面を入念に見つめた。
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コロナ禍では、リモートワークやソーシャルディスタンスという所謂対面で人と関わるのをやめようという風潮が芽生え始める。
そんな中、自転車で飲食物を届けるというサービスは誰でも気軽にでき、それなりに稼げるということで流行した。
力丸もその例に漏れず、生活のために仕方なく『XUBER EATE』に登録して、日銭を稼ぐようになる。
緊急事態宣言がもう少しで明けようとする頃、力丸はいつものように宅配に精を出して働いていたある日のことだ……。
******
「はぁーあ、面倒臭ぇー」
自転車での配達で風を切って走るため、力丸はマスクを外しているが、通行人は皆マスクをつけており、顔が誰なのか分からない。
(仕事が見つかったのはいいけれど、これかなりキツいわ。死ぬわマジで。でも働かないと稼げないしなあ。彼女欲しいなあ)
『XUBER EATE』は完全歩合制であり、働いた分だけの給料を貰えるため、「どうせ家でウジウジ悩んでても働いていた方がマシだ」と開き直り、力丸は仕事に励んでいた。
「今度はこの家か、うわっ、すごい豪邸じゃん!」
力丸の配達先はかなりの豪邸であり、自分とは住む世界が違うんだよな、と現実の壁に打ちのめされて深いため息をつく。
自転車を近くに置こうとすると、何かにタイヤが当たった感触に気がつき、「石でも当たったのかな?」と下を見るとマジックペンが落ちている。
「なんだぁ、…うーん」
力丸は、ふと何か思い立ったのか、マジックペンを拾ってバッグを開き、中に入っている宅配のピザの箱に自分のスマホの番号を書く。
(どうせ、この人らとは縁がないんだろうけど……まぁ、いいか。バレない悪戯だ)
玄関の前に立ち、インターホンを押して待つこと5分、家の住民らしき中年の女性が出てきて、金銭などのやり取りをして、力丸はその場から立ち去った。
*****
コロナ禍では、三密という人混みを避けろというキーワードができ、人と人とが会えないことで精神的な不調を訴える人が大半である。
力丸はそれは例外ではなく、非モテで非リアで友人はいなかったが、それでも誰とも話し相手がいなくて、家に帰って食事をとってテレビやネットでコロナのことばかり観るルーティンが出来上がっていた。
(ダメだ寂しい! 誰かと話ししてえ!)
布団に蹲り、強烈な孤独に胸が押しつけられそうになり、目から冷たい涙が零れ落ち、自殺の二文字が何度か頭によぎっているのである。
気晴らしに動画を見たりすればいいのだろうが、必ずと言っていいほどコロナの情報が出てきて、精神的にも相当参っていた。
『ブブブ……』
「誰だよ?」
スマホを見やると、全く知らない番号からの着信があり、普通の精神状態ならば悪戯電話だなとスルーするのだが、「誰でもいいから話をしたい」という衝動が勝り、力丸は電話に出る。
「はい? どちら様でしょうか?」
「あの、先日『XUBER EATE』でピザを購入した者なのですが、箱の外側に電話番号が書いてあったので、それで……」
声の主は女性であり、会社をクビになってから2ヶ月以上も女性と全く関わってなかった力丸のテンションがかなり高くなる。
「あ、すいません。実はイタズラで書いたんですよ。ご迷惑でしたか?」
だがすかさず謝罪はして、上司に報告がいくのかなと内心ビクビクしたが、進展はしないかなとドキドキしている。
「全然大丈夫ですよ。私も話し相手欲しかったので。ところでおいくつですか?」
「20歳です」
「私と同じだ」
「え、そうなんすか。奇遇ですね」
「あの、LINEにしますか? 私この番号でやってるんですよ」
「ええ、全然いいですよ。それなら後でLINEしますね!」
「わかりました! ではまた!」
電話が終わり、力丸は仕事以外で普通の人と久しぶりに話すことができた満足感と、同じ年の女性とラインを交換できることにかなりの達成感を感じた。
「えーと、電話番号検索をして、アカウントは……あった」
『あずさ』という子犬のアカウント画像を見つけ、「この子だな。あずさって名前なんだな」と思い友だち登録して、直ぐにメッセージを送る。
『こんにちは。さっき電話した者です。イタズラで番号を書いてすいませんでした。そちらがよろしければ登録しませんか?』
無難な内容を送ると、すぐに既読になり、『こちらこそよろしくお願いします。また時間のある時にラインしましょう。眠いので寝ます、おやすみなさい』と返信が来た。
力丸はしゃがみ、ブルブルと震え、「いよっしゃあ!」と天井に手が当たるぐらいの勢いでガッツポーズをした。
緊急事態の恋 鴉 @zero52
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