柿色のまた明日

ひーと

柿色のまた明日

放課後、校庭の奥にある古い温室は、秋だけの居場所だった。テッセンの影が長く伸び、夕陽が薄い柿色で満たす静かな空間。クラスのざわめきや、他人の視線から離れて、1人で呼吸ができる場所。


ある日、秋は温室の扉を開けた瞬間、妙な気配がした。本来ならば湿った土の匂いと静寂だけが迎えるはずなのに、なぜか、他人の気配で満たされているのを感じた。視線を向けると、奥に1人の少年が立っていた。


「こんにちは。僕は秀。」


知らない名前。そのはずなのに秋には初めてのようには思えなかった。そのまま続けて秀は口を開く。


「やっと見てくれたね。秋。」


秋は息を呑む。


「……なんで、私の名前、」


秀はゆっくりと笑みを浮かべた。その笑みは感情のないような形だけを整えたような、不気味なものだった。


「知ってるよ。秋のことなら、ずっと。」


秀は立て続けに、


「昨日、ここに寄るか迷ったでしょ。扉の前で立ち止まってた。4秒も。」


秋はその言葉に背筋が凍りつく。確かに昨日は温室に寄るか迷った。しかし、周囲には人の気配なんてなかったはずだ。秀は秋の驚きに追い討ちをかけるように一歩近づく。


「秋の歩き方は、迷うときに少しだけ外向きになるんだよ。昨日も、今日も、扉を開ける前に8度だけ外を向いていた。」


初対面のはずなのに、本人ですら意識していない癖を語られている異様な状況。


「……なんでそこまで知ってるの?」


「言ったじゃん。ずっと、見てたからだよ。」


その一言が、温室を満たす湿度よりも重く、秋にのしかかる。秀は笑っていた。しかし、その奥には何か得体の知れないものがある気がした。秋の存在だけで世界を構成しているような、濃密で逃げ場のない集中。


「ほら、見てよ。秋に似合うと思って置いておいたんだ。」


そう言って、秀は温室の奥を指した。そこには可愛らしい柿が1つ、机の中央に置いてある。


「秋、好きだよね。」


柿が好きなことは誰にも言ったことがない。もちろん、秀にも。


「明日からも……来てくれるよね。」


問いかけという形をしているだけで、拒否を想定していない声色。優しさと要求が奇妙に混ざり合ったそれを、秋は受け止めるしかなかった。


その日を境に、温室の空気は変わっていった。翌日、柿は2つに増え、さらに翌日は3つ。均等な間隔で、秋の手の位置までわかっているかのように置かれていく。


「秋が来てくれるのが嬉しいんだよ。」


秀の声はいつも穏やかで、怒りも焦りも見せない。だがその穏やかさが秋に不気味で、秀の秋に対する「愛」が秋の居場所を満たしていくのを感じた。


ある日、秋は体調を崩してしまい温室に行くことができなかった。その翌日も、またその翌日も。1週間後、体調が回復した秋は温室に足を踏み入れた。


「え、なに、これ。」


驚愕する秋の視線の先には、柿が温室中に置かれていた。床にも、棚にも、もちろん机にも。整然と並び、甘い匂いが重く沈んでいる。


「秋、来なかったね。」


秀は静かに秋を見ていた。怒っていない。責めてもいない。ただ淡々と言葉を並べる。


「ねえ、なんで?僕のこと見てくれたじゃん。僕は秋のために、それなのになんで、僕から逃げようとするの。」


「ち、違っ」


怯える秋をよそに、秀は続ける。


「体調だって3日で治ってたはずだよね。なのに1週間も来てくれないなんて、僕は寂しくてどうにかなりそうだったよ。」


ばれていた。秋は言葉が出ない。


「え、ああ、なんで知ってるかってことね。」


秀は笑みを浮かべる。


「見てるから、ずっと。」


その言葉に秋は後退る。


「このかわいい柿たちもいわば僕、君のことをずっと待っているんだ。」


秋にはもう、1人の時間なんてものはない。秀に、温室に、蝕まれた日常に永遠に囚われ続ける。


「秋、また明日ね。」

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