十二月のプロンプト
三号
第一話 手のひらのそよ風が
駅舎から出てはじめて、敦賀不由は雨が降り始めていることに気がついた。
定時というものが無きに等しい仕事である。こうして一般のサラリーマンたちに囲まれて帰ることに一抹の安堵感を覚えつつ電車に揺られての帰宅は久しぶりのことであった。しかし現在取り扱っている事件のために頭の中で繰り広げられる思惟によって周囲への観察にシャッターがかけられていたのだろうか、駅舎から出るまで天気の確認を怠っていたのは、不由本人からしても意外とも思える小さな錯誤であった。
不由はいま降りてきたばかりの階段を上がり、改札前にある小さなコンビにで傘を買い求めた。不由の前に並んでいた高校生も同じように傘を買っている。おそらく自分と同じ境遇なのだろう、そうすると雨が降り始めてから然程時間が経っていないのかもしれない。
不由は再び階段を降りて、買ったばかりのビニール傘を開いた。
開いた傘からは真新しいビニールの匂いがする。
駅前のロータリーを右に曲がる。二車線の道がロータリーから続いていて、国道に突き当たる。不由が住んでいるマンションは国道沿いに建てられていた。国道へ抜けるまでのその道が商店街にもなっており、左右にいくつか店構えを見ることが出来る。栄えているとはお世辞にも言えないながらも、それなりの用事は済ませることが出来る。
人が集まるのであれば、そこに治安が必要になるのはこの狭い国の中のどこへ行こうとも変わるものではないらしい。ちょうど商店街の中ほど、遠慮がちに体育座り小学生のような呈で交番があった。
不由にとって謂わば同僚が勤務しているその場所へ、自分から近づいたことはいままで一度も無い。むしろ不由はいつも意識的に、交番がある場所とは反対側の歩道を歩いていたくらいである。
しかしその日に限って、歩道橋で国道を跨いでいった先にある私立大学から駅へ向かう人の流れが多く、不由が常に歩いている歩道を占拠していたために、不由は人ごみを避けるために交番がある方の歩道を歩くことになってしまった。おそらくは何かしらのイベントが大学であったのであろうが、それこそ不由が知る由もないことであった。
なるべく視線を交番へ向けないようにして不由は歩く。
なぜ自分がこうも忌避する必要があるのか。
そこまで自分と同種の人間を嫌う必要などないのではなかろうか。自問してみたところで、答えなどあろうはずもない。不由にとってみれば同属嫌悪のようなものであろうし、はたまたそこに何か災いの種のようなものが落ちていて、自分が近づくことによって種が発芽してしまうのではないかといった、妄想に近い危惧があった。
もっともこれを話したことがあるのは部下のの山木と、かつて部下だった男の二人にだけであり、山木からは変人を見るような目つきで見られたものだ。勿論、そのような目つきで上司を見ることなど許されようはずもなく許す気もさらさら無い不由は、山木の腹部に拳を勢い良く埋めて悶絶させたものである。
そして当の山木は、自分がいつも通る場所にある交番へは毎日挨拶を欠かさないという。自分の身分を明かした上でのことであり、彼曰く「ほら、住んでる町ですからね、みんな仲良く、安心して暮らせるように僕も協力しているわけですよ」などと放言していた。しかし実際は、いつも交番で出される茶菓子が目当てであることを不由は知っている。警視庁捜査一課刑事の名が泣くとはこのことだ、と不由は憤っていた。同時に、この自分には無いパーソナリティを山木から奪う気もなかった。
なるべく足を速めて交番の前を過ぎようとした不由の視界の片隅に、決して広いとは言えない交番の室内でパイプの椅子に座っている子供がちらと映った。
――見るべからず。
と不由の脳が発した命令を無視するかのように足が止まり、視線が顔ごと交番の中へ向けられてしまった。後々、不由は振り返って恐怖を感じることがある。このとき自分自身をコントロールすることに失敗していなかった場合の未来というものが存在する可能性があったということに。
もともと交番自体が大きな建物ではないし、さらに不由が住む街の商店街に軒を連ねるようにして建っているその交番は余計に小さな建物に見えた。その中に、小学生か幼稚園か、とにかくそのような年齢に見える男の子供がパイプ椅子に背を丸めて座っている。
交番勤務の警官が腰を下ろしているデスクの真向かいに子供は座っている。通常そこは訪れた人が座って警官に事情を説明するための椅子のはずだった。しかし、いま椅子に座っている子供は、不由から見ればまるで尋問を受けている容疑者のように見えなくもない。
警官はふたり、設置されているデスクに座ってノートらしきものにペンを走らせようとしたまま止まってしまい子供から目を離さない二十台前半と思しき警官がひとり。そして児童の脇へ中腰になり、児童へ必死に語りかけている年配の警官がひとり。たったそれだけのことであれば、不由が交番の中に足を向けることなどなかったのであろう、しかし。
「失礼します。その子、どうかしたの」
ふたりの警官と、そして子供の視線がそれぞれの温度で不由へ向けられた。デスクに座っている若い警官は、突然の闖入者に対するあからさまな不審。年配の警官からは不由の素性をすばやく見抜こうとする視線。そして子供の瞳は凝結していまったかのように、瞳それ自体の力で不由の介在を断ち切ってしまうようでもあった。
ここで不由は自分の身分を明かせば、少なくともふたりの警官から例え表面的なものであろうとも好意的な対応を約束されたはずだ。しかし不由はそれを躊躇った。自分が吸い込まれるようにして交番へ入ってしまったのは、自分が警察当局に所属する刑事であることを誇示する為でなく、この子供の所為だった。ましてや本来自分のフィールドではない場所に出しゃばって、自分の能力以外の力を利用することは唾棄すべきもののように思えたのだった。
いわば虎の威を借らずとも、不由は不由でありたかったのだ。
「ええと……お名前は知りませんが、この子の知り合いですか」
年配の警官が不由に視線を貼り付けたまま言った。そう、知り合いといえばそうなるか。しかし実際に話したことはないし、この子供が自分のことを知っているなどとは思えない。
子供は不由が住んでいるマンションの、不由と同じフロアに住んでいる家族の子供のはずだたった。十階建て、各フロアには六戸の部屋がある。不由が住んでいるのはフロアの一番東側に位置している部屋であり、この子供が何度か不由の部屋から一部屋を間に挟んだ扉から親と一緒に出てくるのを見たことがある。
苗字は、確か渡辺といったか。しかしすれ違い、見かけることはあっても都会の生活では隣近所同士で声を掛け合うことなどはあまりない。ましてやマンションにおいてはいわんをや、である。尤も、不由自身がたとえ田舎に住もうとも、隣近所と睦まじく暮らしていくなどいは想像も出来ない。つまりそういった状況になる遠因は、過分に不由のパーソナリティに負う部分が多いのは確かなことであった。
「知り合いというか、この子の家は知ってる」
子供と知り合いであるわけがない。そもそも不由は子供がどうしても好きになれない。あの理不尽な行動や、他人を自分の世界でしか見られない未熟さが不由には耐えられたものではない。ましてや目の前にいる子供の家族と交流を持った憶えも無いし、挨拶以外の会話を交わした憶えも無い。それでも見知っているのであれば、知り合いとでも形容できるものなのだろうか。しかし年配の警官は一人合点をしてしまったらしい。
「ああ、それなら丁度いいや。この子、家まで案内してくれませんかね」
「どうして。交番に来たのなら何か用事があったのでしょう」
「いや、それがねえ。一時間くらい前かな」と言った年配の警官は、デスクに座っている若い警官を見た。それに対して若い警官は軽く頷いた。「いきなりここに入ってきてね。まあ、とりあえず椅子に座るようにすすめたんだが、それから何も喋らないときた。こっちから何を訊いても答えないし、困ってたんですよ。だから、交番に来た理由もわからないし、このままひとりで家に帰すのも不安なのに住所も喋らないし、本当に困ってたんですよ」
無責任な、と不由は思う。何かしらの事件に巻き込まれたショックで口が聞けなくなっている場合もあるかもしれないというのに。そこまで考えて、不由は自嘲する。自分の仕事柄、どうしても物騒な方向に考えてしまうな、と。そんな不由を子供は見つめたままだった。
不意に不由は子供が自分へ向ける瞳を見て、この子は何かを訴えようとしている、と直感した。訴えたいことがあるのだが、それを精神が邪魔をしている。だから口を開くことが出来ない。
邪魔をしている精神は何か、それは千差万別。
ただ本質的な部分で言えるのは、訴えることで自分に加わる危害が増すことが多い。そういう人間を不由は厭と言うほど見てきた。それが、不由が仕事として取り組むべき血なまぐさい事件ではないにしても、子供にとってはそれに比肩するような何事かであることを理解した。
子供の瞳に射すくめられた不由は、どうしたものかと迷う。子供を連れて帰る、どこへ、そう自分が帰るべきマンションの、しかも同じフロアまでのことだ。そこで別れても、不由が子供の部屋を訪ねて親に引き渡しても良い。いずれにせよ、然程の労力を要する仕事だとは思えなかった。
「構いません、すぐそこですから」
言った不由だったが、このとき奇妙な違和感を感じた。
今日は雨だが、まだ九月だ。湿気も多く、まだ暑く感じる季節でもある。大人でさえ半袖で過ごしている季節だ。
しかし、子供は、長袖のワイシャツの襟を立て、ジーパンの長ズボンを穿いていた。まるで海の水圧から身を守るために甲羅を纏っている貝のように見えた。そして不由は見逃さなかった。先ほどから不由を見つめたままの子供の左頬が、薄く、注意して観察しなければ見過ごしてしまうほどのささやかさで、赤く腫れているのを。それは、子供が誰かに暴力を振るわれたであろうことを如実に物語っていた。さらに子供の雰囲気から、おそらくそれ以上のことがあるのではないかと不由は推測していた。
我ながら益体も無く汚らわしい推測だな、不由は内心で自身を蔑んだ。
十二月のプロンプト 三号 @third_number
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