ありのまま専門店

ほねなぴ

足るを知るまで

『……なんか満たされない。結構いい生活してると思うんだけどなぁ』


 言ってから、少しだけ後悔した。

 部屋が静かすぎた。


 床はきれいだった。

 物の位置も決まっている。

 一度決めてから、動かしていない。


 ソファに座る。

 沈みすぎない。

 立ち上がるときに、余計な力がいらない。


 冷蔵庫を開ける。

 中は整っている。

 どれも自分が選んだものだが、強い匂いはしない。


 扉を閉める。


 スマホが震えた。

 何も表示されない。

 それでも、画面を見る。


 外に出る。

 駅までの道。

 見慣れたはずの街。


 地下へ続く階段の脇に、小さな看板があった。


 ――そのままで来店してください。


 一度、通り過ぎた。

 数歩進んで、戻った。


 階段を下りる。

 音が、少し遅れてついてくる。


 扉を開けると、小さな店だった。

 服はほとんどない。

 鏡もない。


 カウンターの上に、毛のない生き物がいた。


 しわ。

 丸い目。


 ハダカデバネズミだった。


「たくさん、着てますね」


 声は平らだった。


 何か言おうとして、やめた。


 手で示され、上着を脱ぐ。

 次に、時計。

 靴。

 ポケットの中のもの。


 外すたび、

 軽くなる。


 最後に、スマホを指された。


 一瞬、迷ったが、置いた。


 沈黙。


 ハダカデバネズミが言った。


「ありのままが、一番です」


 それだけだった。


 しばらくして、

「今日は、ここまでです」


 店を出る。


 街は同じだった。

 看板も、人も。


 ただ、

 何も足さなくていい気がした。


 満たされない、という言葉が、

 どこから来たのか、分からなくなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ありのまま専門店 ほねなぴ @honenapi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

参加中のコンテスト・自主企画