『無効率』

雪沢 凛

🟨 08:15、瀕死のイエロー

 ――一度だけ、時間を無駄にしてみたかった。



 08:15 A.M. 新東京。

 視界の左上。集中力計測フォーカスポイントバー(FPバー)が、壊れかけのネオンサインのように、病的な黄色で点滅している――27%。

 これは警戒域。ここから下がれば、社会の可視化リストの縁へと滑り落ちる。


 昨夜の睡眠時間は4時間12分。

 システムは「睡眠と生産効率の相関曲線」に基づき判断:過度な睡眠は「非最適な自己管理」として、FPの蒸発加速 +15%のペナルティ。


 その判定を受け入れる。

 罰は常に存在する。酸素や重力のように、否定も拒絶もできないものとして。

 地下鉄の車内。


 9割以上の人々が緑色の領域にある。

 イヤホン、視線、指先――すべてがアウトプット対象に向かっている。

 ある人はAIを使って技術報告書を翻訳・編集し、別の人は視線でノートを操作し、また別の人は効率瞑想をしていた。


 誰のFPも、安定した緑色の光柱。

 まるで透明なガラスに注がれた植物用の照明のようだった。


 黄色は、自分ひとりだけ。

 都市システムに忘れられた旧型モデルのように。

「通勤密航プロトコル」を起動する。

 左手でポケットからノートを取り出し、右手で1秒に5回のリズムで、意味のない記号をノートに書きつける。

 これは仕事ではない。「効率の偽装」だ。


 ペン先が紙に触れていれば、システムはそれを「微量アウトプット」として認識する。


 FP:27% → 28%。

 一時的に、安全圏を維持。


 手が震えていた。

 低効率への恐れではない。

 ――今日、これから自分がやろうとしていることが、FPを上げる行為ではないと知っているから。


 メッセージを送るつもりだ。

 効率も成果もなく、システムの記録にも認められないメッセージ。

 それをすれば、FPは0%に落ちる。


 それでも、やるつもりだった。

 世界を変えたいわけじゃない。

 ただ、世界の隅で、静かに――時間を、無駄にしてみたかっただけだ。


 ドアが開き、人の流れに混ざって外へ出る。FPは28%を維持。今のところは安全。

 エスカレーターに乗る。

 前の人たちの肩越し、後頭部の隙間から、都市の骨格が見える――灰色で、直線的で、感情のない神経線のような風景。


 スマホが震えた。

 通知はメッセージではなく、システムによる自動提案だった:

「昼休みに推奨される行動:集中力の補充、効率向上のための瞑想、あるいは社会性強化のシミュレーション」

 通知を消す。


 自分が昼に何をするかは、もう決めている。

 その内容は、提案されたどの項目にも当てはまらない。


 オフィスビルの自動ドアが、自分を認識して、開いた。

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