第二話 「この国は病んでいる」

  時間:23時40分


  場所:東京都内一等地・澄原グループ本邸


  ダイニングの扉は固く閉ざされていた。


身内だけの食事会であっても、空気には窒息しそうな階級意識が漂っている。


上座には、父・澄原惟宗。


皿の肉を切り分ける手つきは静かだが、視線は冷え切っていて、不本意な決算書に目を通しているかのようだ。


龍立の右隣には、長兄・澄原龍仁。


グループ副社長。


席に着いてから一言も発していない。精密に動き続ける時計のように、澄原グループの絶対的な「秩序」と「安定」を体現している。


龍立の正面には、次兄・澄原龍雅。


人事と財務を握る専務取締役だ。


龍雅は口元を拭い、優越感に満ちた笑みを浮かべた。


「龍立。空港では派手にやってくれたね。“民を愛する三男坊”ってところか」


彼は首を振り、聞き分けのない子どもを諭すような口調になる。


「だが、お前はまだ甘い。若いのを押さえつけるのには、理由があるんだ。


自尊心を徹底的に踏み砕かなきゃ、“言うことを聞く歯車”にはならない」


手にしたワイングラスを揺らしながら、当然のように続ける。


「恐怖こそが、最も効率の良いマネジメントだ。


金をやって、尊厳まで持たせたら、自分の立場をわきまえなくなるだけだよ」


「それが、澄原グループの離職率18%の理由ですか?」


龍立はナイフとフォークを置き、二兄を真っ直ぐ見据えた。


「兄さん、今の日本を見てください」


「若者は押さえつけられ、どれだけ努力しても上がれない。先輩たちは惰性で居座り、後輩たちは消耗品扱い。社会全体が、澱んだ水たまりみたいに淀みきっている」


「兄さんの言う“効率”は、この国の未来を食いつぶしているだけだ」


「子どもじみているな」


黙っていた長兄・龍仁が、ようやく口を開いた。


声は大きくない。


しかし父親よりも直接的な圧力がある。


「龍立。澄原グループは世界中で二十五万人を雇っている。その背後には、二十五万の家庭がある。日本のGDPの3%を担っている」


龍仁はカトラリーを置き、古井のように静かな眼差しを向けた。


「この巨大な船を安定して進ませるためには、犠牲が必要だ。黙って燃料になる者も、口を閉じる者も。そういう存在が不可欠なんだ。


それが“大局”だ。お前が海外で学んだ人権だの何だのでは、この数字は支えられない」


龍立は兄を見つめる。


――これが澄原の後継者。


完全に「体制そのもの」となった怪物。


「兄さん。もしその“安定”が、人を燃料としてくべることでしか保てないのだとしたら」


龍立の声は低い。だが、硬かった。


「そんな安定そのものが、罪だ」


テーブルの空気が、一瞬で凍りついた。


父・惟宗が、ようやくナイフとフォークを置く。


「よせ」


七年ぶりに顔を合わせる末子を、じっと見つめる。


「龍立。お前はこの家が病んでいると思っている。


この“当たり前”の文化が、間違っていると?」


「大きな間違いです」


「では、機会をやろう。特命準備室長だ」


父は、長女・澪に目配せをし、一枚の書類を取り出させる。


《特命準備室 設置案》


「ただし――」


父は三本の指を立てた。その一本一本が、鉄格子のようだ。


一、期限九十日。


二、予算ゼロ。社内に味方はいない。全ての部署がお前を排除しようとする。


三、少しでも混乱を招き株価を下げたら、その瞬間お前はカナダに送り返す。二度と澄原グループに足を踏み入れることは許さん。


龍雅が笑う。


これはチェックメイトだ。


予算なし、味方なし。二十五万人を抱える澄原という巨大帝国の中で改革をしろ?


夢物語というより、愚か者の妄想だ。


「どうした、救世主様? サインする勇気もないのか?」


龍立は、書類を見つめる。


脳裏に、空港で倒れた少女の蒼白な顔が浮かぶ。


佐久間の、涙をこらえた眼差しが蘇る。


ここでサインをしなければ、


彼らは明日も地獄のような現場に戻るだけだ。


龍立はペンを取り、力強く自分の名前を書き込んだ。


「お受けします」


椅子から立ち上がり、父と兄たちを順に見渡す。


「この時代、“恐怖”より“人の心”のほうが、はるかに強いことを証明してみせます」


龍立が部屋を出ていく。


その背中が見えなくなったあとで、龍雅は龍仁の耳元でそっと言った。


「兄さん。明日、全社集会でちょっと授業をしようか。


あいつが、どれほど子どもじみた考え方をしているか、身に染みてわからせてやる」


龍仁は何も答えない。


ただ、ナイフとフォークを取り直し、皿の上の肉をいつも通り正確な厚みに切り続けた。

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