カナダに追放された財閥の三男が帰国しました:父が「搾取は伝統だ」と言うので、「あらゆる手段」を使ってこの1兆円規模のブラック巨艦を完全ホワイ
柳澈涵
第一話 8.5時間の「尊厳」
時間:22時27分
場所:東京・羽田空港 VIP専用通路
空気は、死んだように静まり返っていた。
通路の中では、濃い色のスーツに身を包んだ三十人のエリート社員が、墓標のように整然と並んでいる。
彼らは名門大学を卒業し、いくつもの関門をくぐり抜けてようやく澄原グループ総務部に採用された精鋭だ。
だが今の扱いは、犬以下だった。
三男坊の帰国を出迎えるためだけに、午後二時から今の二十二時二十七分まで、丸々八時間半。
彼らは水を飲むことを禁じられ、トイレにも行けず、「視線を泳がせること」さえ禁止されている。
「おい、7番。呼吸がうるさい」
総務課長・坂本の冷えた声が響く。
「三男坊がお着きになるんだ。忘れるな。お前たちは人間じゃない。澄原グループの“顔”だ。顔に痛覚はいらない」
いちばん後ろに立つ佐久間の両脚は、とっくに感覚を失っていた。
爪が食い込むほど掌を握りしめて、ただ立っている。
その隣で、入社一年目の女性社員はすでに限界寸前だった。
彼女の名は美咲。昨日ようやく、最初の奨学金返済を終えたばかりだ。
(倒れちゃダメ……絶対に倒れちゃダメ……)
(ここでみっともない姿を見せたら、“ストレス耐性がない”ってレッテルを貼られて、どこか閑職に飛ばされる。そしたら、私の人生は終わり……)
疲労より恐怖のほうがずっと怖い。
それは、日本の職場が一人ひとりの骨の髄にまで埋め込んだ毒だ。
だが、生理的な限界は、恐怖で誤魔化せるものではない。
「あっ……」
視界が暗転し、美咲の身体は糸の切れた凧のようにぐにゃりと崩れ、冷たい大理石の床に倒れ込んだ。
ドン。
鈍い音が、張り詰めていた全員の神経を叩きつける。
「何やってる!」
坂本課長が真っ先に見せたのは心配ではなく、怒りだ。
「さっさと引きずって行け! 早く! あの役立たずで、お坊ちゃまの通り道を汚すんじゃない!」
警備員たちは無表情のまま歩み寄り、ゴミでも片付けるかのように、美咲を柱の陰まで引きずっていこうとする。
これが彼らの運命だ。
部品として扱われ、壊れたら捨てられる。
佐久間の目頭が熱くなる。
それでも、動けない。
悲しいことに、差し伸べるはずの片手を出す勇気さえ、すでに飼い慣らされて失っているのだ。
そのときだった。
自動ドアが開いた。
取り巻きの一団も、派手な出迎えもない。
ロングコートを羽織った青年が、ひとりで歩み出てきた。
澄原龍立。二十六歳。
彼はキャリーケースを引きながら、この硬直した人形のような列をひと通り見渡し、最後に、床を引きずられているあの少女の姿で視線を止めた。
満面の笑みを浮かべて出迎えるつもりだった坂本の背中に、ぞくりと冷たいものが走る。
龍立は、キャリーケースを放り出した。
大股で歩み寄り、ロボットのように動く警備員たちを乱暴に押しのける。
「どけ」
驚愕の視線が集まる中、龍立は片膝をついて冷たい床に膝を当て、慎重に美咲の頭を支え、自分の高価なコートを脱いで、その震える身体にそっとかけた。
「……姉さん」
龍立は振り向きもせず、抑え込んだ嵐のような声で車の側に立つ女性――澄原澪を見る。
「救急車を。いちばんいい病院へ。原因は過労による失神だと、医者にはっきり伝えて。会社の体面を守るために、病状をごまかしたりするな」
澪は一瞬だけ目を見開き、すぐに頷いて動き出す。
坂本は慌てふためき、腰を折り曲げながら脂汗を流した。
「ぼ、坊ちゃま、大変申し訳ありません! こいつは不良品でして、選抜の段階で見抜けなかった我々の落ち度で――すぐに差し替えますので……」
「坂本」
龍立が立ち上がる。
身長は坂本より頭ひとつ高い。その眼差しに宿った冷気だけで、坂本の膝は震えた。
「不良品、だって?」
龍立は、未だに微動だにできない社員たちを指し示す。
「彼らは東大や京大に合格し、いくつもの試験を勝ち抜いてここに入ってきた精鋭だ。
親たちは、彼らをこんなふうに、犬みたいに八時間も立たせるために育てたんじゃない」
その一言は、雷鳴のように、皆の麻痺した心のど真ん中を打ち抜いた。
佐久間の鼻の奥が、つんと熱くなる。
入社して三年。
「上の人間」が自分たちを人間として見たのは、これが初めてだった。
使い捨ての消耗品ではなく、ひとりの人間として。
「姉さん、社印を貸して」
龍立は社長室の実印を受け取る。
坂本の手から《接待報告書》をひったくると、その裏面に勢いよくペンを走らせた。
【業務命令】
1.本日の待機時間(8・5時間)は、全員「最上級特別手当」として支給すること。
2.今回発生した医療費および精神的損害に対する慰謝料は、会社が全額負担すること。
3.現場は即時解散。全員、タクシーで自宅へ帰り、休養にあてること。
ドンッ。
真紅の社印が、力いっぱい捺される。
龍立はその紙を坂本の胸に叩きつけた。
「よく聞け」
「澄原の“体面”はな、社員の尊厳を踏みにじってまで保つものじゃない」
三十人の疲れ切った顔を見渡し、声の調子を少し落とす。
「ご苦労だった。今日はもう帰れ。胸を張って、ぐっすり眠ってくれ」
そう言い残して、龍立は車へと向かう。
通路には、死んだような静寂が再び落ちた。
その背中が見えなくなるまで、誰も声を出せなかった。
そして佐久間は、ようやく目頭から熱いものが溢れ出すのを感じた。
それは、金のせいだけではなかった。
あの夜、彼らは久しぶりに背筋を伸ばし、「人間」として空港を出ていくことができたのだ。
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