『終わる私と、終わらない世界』

月影レイン

第1話 世界が終わる前の日

朝の鐘が鳴る。

 それは、魔法学校アルカディア学府において、あまりにもありふれた音だった。


 石造りの校舎に反響する澄んだ音色を聞きながら、エルシアは静かに目を開けた。


 ――今日も、生きている。


 それが何を意味するのか、この時の彼女はまだ知らない。


 窓の外には、灰色がかった青空が広がっていた。

 暗黒時代と呼ばれるこの世界では、晴天ですらどこか色を失っている。遠くの街並みは、再建途中の足場と防壁に覆われ、平和だった時代の面影はない。


 終焉の獣が現れてから、世界は変わった。


 人口の半分が消え、国家は崩れ、神は沈黙した。

 だが人類は滅びなかった。


 それを可能にしたのが――五英雄。


 そして、その中心に立っていたのが、

 アウレリア=ルクスフィリア。

 エルシアの姉だ。


「……姉さんは、今日も遠い世界にいる」


 小さく呟き、エルシアは制服に袖を通す。

 自分と姉を隔てる距離は、物理的なものだけではなかった。


 アウレリアは“英雄”。

 エルシアは、ただの学生。


 才能の差ではない。

 世界が与えた役割の違いだ。


 魔法学校の講義は、生き残るための知識で埋め尽くされている。

 結界術、対獣魔法、緊急時の魔力分配――どれもが「実戦」を前提としていた。


 その中で、エルシアは目立たなかった。


 ――正確には、目立とうとしなかった。


「エルシア、また完璧ね」


 隣の席の生徒が、感心半分、諦め半分で言う。


「そうかな……?」


 黒板に書かれた複雑な術式。

 教授が「理解できる者は三割いればいい」と言った内容を、エルシアは一度見ただけで再現していた。


 難しい、とは思わない。

 ただ――どこかで“知っている気がする”だけだ。


 その感覚に、違和感を覚えたことは何度もある。

 だが、それを口にする理由もなかった。


 授業が終わり、夕暮れが校舎を染めるころ。

 魔力警報が、微かに鳴った。


「……また?」


 誰かが呟く。

 最近、この警報は珍しくない。


 終焉の獣は討たれた。

 だが、その“影”は世界に残っている。


 魔物の異常発生。

 歪む空間。

 説明のつかない魔力反応。


 ――世界は、まだ終わりきっていない。


「エルシア、寮に戻ろう」


 友人に声をかけられ、エルシアは頷いた。


 この時点では、まだ何も起きていない。

 それが、何より恐ろしい。


 夜。

 寮の廊下は静まり返っていた。


 自室の扉を開けた瞬間、

 エルシアは――胸の奥が、ひどくざわつくのを感じた。


 理由は分からない。

 だが、確信だけがあった。


 何かが、間違っている。


 窓の外。

 月明かりの下で、空間が微かに揺れている。


 次の瞬間。


 ――“それ”は、現れた。


 音もなく。

 前触れもなく。


 黒い裂け目から這い出す、獣の影。

 終焉の獣とは比べ物にならないほど小さい。だが――


「……あ」


 理解するより早く、魔力の奔流がエルシアを飲み込んだ。


 痛みは一瞬だった。


 視界が白くなり、身体の感覚が消える。


 ――ああ。


 ――死ぬんだ。


 その思考を最後に、エルシアの意識は途切れた。


 *


 朝の鐘が鳴る。


 石造りの校舎に、澄んだ音が響く。


 エルシアは、静かに目を開けた。


「…………?」


 同じ天井。

 同じ光。

 同じ朝。


 だが――


「……今、死んだ……よね?」


 胸に手を当てる。

 心臓は、確かに動いている。


 だが、身体の奥に残る“死の感触”は、消えていなかった。


 理解してしまった瞬間、

 エルシアの喉から、震える声が漏れる。


「……私が死ぬと……世界が、戻る……?」


 神は沈黙している。

 だが――何かが、この結末を拒否している。


 それが何なのかを、彼女はまだ知らない。


 ただ一つだけ、確かなことがあった。


 この世界は、彼女の死を許さない。



――第1話・了

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