二 夏鈴
思ってたのと違う。ママがバイトに雇ったのが篤郎だって判明した時、最初に思ったのがそんなことだった。だってあたしは同年代の若くておしゃれな女の子を期待していたから。まあこの際贅沢は言わない。だってこれは遊びじゃなくて仕事だし。だから男の子だったとしても許容していたはず。でもさ、まさかじじいが来るとは思わないじゃん。バイトだよ? あの年なら立派にサラリーマンして、家族のために働いてるのが普通でしょ。喜び勇んで我が家のアルバイトに飛びついてくるなんて。なんか一気に気持ちが萎えた。もちろん両親には抗議した。年頃の娘をあんな性犯罪者予備軍みたい奴と一緒に働かせるなんて、これは虐待ですよって。でも駄目だった。ママは人を年齢や外見で差別するんじゃないの、なんて悠長なことを言っていた。あたしが篤郎に粘着質ないたずらでもされた後に、果たして同じ台詞を吐けるかね? パパはいつでもあたしの味方。それなのに、あの人はそんなことしないと思うけどなって言ってた。篤郎がパパにどんな媚の売り方をしたのかは分からないけどすっかり懐柔されてた。絶望したよ。
でもさ、現実を嘆いても仕方がないじゃない。すぐにそうやって気持ちを切り替えられるのがあたしの長所の一つだから。ここはいっちょ前向きに、篤郎のことを虐めようって思った。うちで働きたくなくなるほど執拗に虐めて場違いな中年を追い出そうって作戦。そうすれば親も新しいバイトを募集するしかなくなるしさ。
それなのに。篤郎のしぶといことよ。どんな嫌がらせを続けようとも辞めやしない。そりゃ年齢とか性別とかの芯を食った批判に傷つくことはあるみたいだけど、次の日には普通の顔で出勤すんだから。人間年を取ると鈍感になるって言うけど、あれは真実だね。なんなんだろうね、あのしぶとさは。他に仕事ならたくさんあるだろうに。時給だって決して高くないこの仕事への執着には恐怖すら感じるよ。
あたしだって本当はいじめなんてしたくはないの。だってそんなのダサいじゃん。ダサいって分かってることはしないのがあたしの基本方針だから。だけど篤郎のことを見てると嫌悪感が湧くんだよね。そうだ、虐めなきゃって使命感みたいなものが脊髄に電気信号を送るわけ。それで顔を合わせれば悪態。ここのところ、あいつのどこに腹を立てているのか自分でも見失っているくらい。散々責め立ててから一息ついて、はて、どうしてこんなに酷いことを言ったんだっけって疑問に思うこともあるんだから笑えるよね。でもいいの。あの年でアルバイト生活をしている奴なんて結局は碌なもんじゃないんだから。あたしのストレスを少しでも解消させる役割を、その悲惨な人生で担えるなら本望ってもんでしょ。
「あいつこれで辞めるかな?」
篤郎はポスティングに出る前に、意外な几帳面さでもって倉庫の隅にシールとマグネットの束をきちんと整理していった。あたしはそれらを全て回収し、この空間の様々な場所へ隠し終えた後で言った。拝島水道は家族が住む母屋の一階の内、半分くらいが店舗になっている。その隣に倉庫兼作業場兼ガレージが建っていて、互いの建物は扉一枚で繋がっている作りだ。つまり、ここはあたしにとっては庭みたいなものってわけ。
実際、母屋には庭と呼べるようなスペースはなく、小学生の頃夏休みの宿題なんかで朝顔の観察をさせられた時は鉢に植えた種をこの倉庫で観察した。日当たりは悪いけど、どうせ民家の密集した住宅街だもん。外に庭があったとしても、それほど日光の恩恵にはあずかれない。家族の束縛から逃れて一人になりたい時もここで過ごしたし、滅多にないけど一人で勉強に集中したい時もここ。ずっと上手だった絵を描く時もこの場所。つまり、この倉庫兼作業場兼ガレージ、兼アトリエのことをあたしは隅々まで知り尽くしているってこと。
昨日今日現れたばかりの篤郎には想像もつかないような隠し場所に関する知識が豊富にある。例えば出入口横の壁。一部壁紙に切れ目が入っていて、その裏にちょっとした空間が広がっている。ま、第二次性徴期の頃、精神的に不安定だったあたしが拳で空けた穴なんだけど。ママに言われて自分で壁紙を貼り直したもんだから、少し大雑把になっちゃててさ。とにかく、そんなところに大切な仕事道具を隠されたなんて篤郎は夢にも思わないだろう。するとどうなる? ポスティングを終えて帰ってきた篤郎は、マグネットとシールが片付けた場所から消えていることに気付く。一瞬混乱するだろう。あれ? 別の所に整理したんだっけかな? なんて思うかもしれない。それで安心されては困る。そうならないように、数枚は目の付く場所へばら撒いておいた。あ、これは虐めだなってすぐに気付けるように。
それからは大変よ。日頃から夢乃が経費についてこんこんと説教をしているもんだから、マグネット一枚失くしただけでも大変な騒ぎになるのに、今日は全部見当たらない。もしかしたら弁償しなくちゃいけなくなるかも。今度こそクビかもって狼狽えながら、決死の宝探しが始まるわけ。想像したら笑える。見つかるわけないのに。後十年はこの部屋で過ごして経験値を貯めないと見つからない場所に隠したから。
「しぶといからね、あいつは。それより夏鈴、隠した場所忘れないでよ。マグネットとシールだって無料じゃないんだから」
夢乃が室内に目を配りながら言った。そんなこと言っちゃって。あたしが隠した場所、自分でもちゃんと記憶してくれてるんでしょ。そういう安心感があるから、あたしは自由に羽ばたけるの。愛してるぜ夢乃。
「あーあ、早く辞めてくんないかな」
「うん、ほんとそれ。でも仕方ないよね、おばさんが採用したんだし。お金払うのは夏鈴の親だから私達だけじゃ決められない」
「そこなのよ」
夢乃を指差しながら言う。彼女は驚いて「なに?」って言いながら指された自分の胸元を見つめた。
「あいつ、なんか怪しいんだよね。そんな怪しいあいつを採用したママも怪しい」
「またその話?」
夢乃が呆れたように口から息を漏らす。そりゃ夢乃からすれば人んちの単なるゴシップかもしれないけど、あたしからすればマジでのっぴきならない家庭の事情に他ならないんだから。
あいつが間抜け面さげて面接にやってきた時、あたしは店番をしていた。というか、パパは仕事で現場に行ってたし、ママは店の奥のリビングでなんかぴりぴりと神経を尖らせてたから空いている店舗スペースでカップラーメンを食べようとしてたんだよね。お湯を注いだラーメンを持ってきて、スマホでアラーム設定をしている最中だった。店に篤郎が入ってきて「まだこれ募集してますか」って聞いてきた。指を便器とか蛇口を陳列しているショーウインドウの横に向けていた。そこには紙が貼ってあった。貼ってあったけど、こちら側からでは表に何が書かれているのか分からなかった。分からなかったけど、多分バイト募集の張り紙だろうなって思った。
篤郎は見ようによっては若い風貌をしていた。シンプルなワークパンツにバンズのスニーカー。黒い襟付きのシャツを合わせていたから、そのミニマルなファッションのせいで若く見えたのかもしれない。後はそうだな。痩せていたっていうのも老けて見えなかった原因かもしれない。中年は大体太ってるものでしょ。パパもそうだし。短い髪に白髪も見当たらなかった。肌は世界最大の巨木ジェネラルシャーマンみたいに乾燥してデコボコしてたけど、まあスキンケアに関心のない男もいるし、それだけで年齢を推測することなんて出来ない。
「ん? バイト? ちょっと待ってて」
あたしは既に敬語を使っていなかった。年上の人だとは思ったけど、採用されれば部下になるわけだし。初っ端から舐められるわけにはいかなかった。まさか四十過ぎのじじいだとは思わなかったけどさ。まあ、いっても三十前後くらいかなって思ってた。
「ああ、はい」なんて思春期の同級生もびっくりな覇気のない声で篤郎は答えた。次の瞬間、店の床を這い回るコードに足を引っ掛けやがってさ。バランスを取るために伸ばした腕が、レジ横のショーケースに置いてあったカップラーメンに当たった。あたしに被害はなかった。熱湯を注いだラーメンは見事な放物線を描いて篤郎の背中に直撃した。甘くテープで貼り付けて蓋をしただけだったから、熱いスープの洗礼を一手に引き受けることになった。
「あっっつう」と、悲鳴を上げて体を捻った篤郎がスローモーションで見えた。まるでインドネシアの民族舞踊を踊っているようだった。笑いそうになったけど、勢いでシャツを脱いだ篤郎の上半身を見て引いた。だってあいつの体には、無数の傷が刻まれていたから。あ、SM趣味の変態が面接にやってきたと思った。その後で前職ヤクザかなにかだったのかもって思い直した。でもそれにしちゃ迫力がないなって思った。だからためらい傷の残る自殺志願者だって結論付けた。真実がどうであれ、碌なものではなかった。
「どうしたの?」
男の叫び声を聞いて、ママが店に顔を出した。篤郎が少しでも熱さから逃れようと傷だらけの上半身裸で踏むステップを見て驚いている様子だった。そりゃそうだ。もしかしたら新手のレイプ魔に娘が襲われている現場を目撃してしまったと思ったかもしれない。一瞬仰け反って、それから敵から子を守る母性本能が反応したのか慌ててあたしと篤郎の間に割って入った。
あたしは男の無様なダンスを見ていなかった。ママの凛々しい横顔を背後から覗き込んでいた。なんでかって言うと、篤郎の裸を見てママが雌の顔に変わったから。その瞬間をあたしは見逃さなかったよ。ハッとして、次の瞬間には頬を赤く染めてた。ママ、キモい。はっきりとそう思った。高校二年生の娘の前でそんな表情見せるかね? って説教してやりたくなったよ。ママとパパの関係性はよく知らないよ? 想像なんてしたくないけど随分ご無沙汰なのかもしれない。それで目の前に突然男の裸が飛び込んできたものだから性欲に関係なくときめいてしまっただけなのかもしれないし。だけどその後の展開を考えたらそうも思えないだよなあ。
篤郎はママからの手厚い介護を受けて、お風呂に入った後面接を受けた。あたしはママの態度に疑問を持ちながらも、まさか初日にカップラーメンをぶちまけた人間なんて雇わないだろうと高をくくっていた。結果は採用。嘘でしょって思って篤郎の履歴書を盗み見て、本物のじじいだって分かった。四十二才? 死にかけじゃん。なんで? って思った。確かにバイト採用には苦労した。予算も時間もなくて、パパが手書きした求人広告を店の窓に貼るっていういにしえの方法でしか募集しなかったから当然。でもさ、よりにもよって篤郎みたいなじじいを選ぶ? すぐに名探偵夏鈴の鼻の奥がつんとした。これはなにかありますねって。どうもママと篤郎の間には、きな臭さを感じました。
大体ママはアルバイト募集にだって反対してたんだよ。それなのに。なんだったらバイトを募集する理由になった、あたしの拝島水道救済マグネット作戦だって猛反対だったんだ。ママは無駄に慎重なところがあるんだよな。成功は求めるくせに決してリスクは冒さない性格っていうかさ。
我が実家、拝島水道はどうやら経営の危機に直面しているらしい。そうは言っても、すぐに破産って感じじゃなくて調子が悪いくらい? よく分かんないけど。世間の中小企業は大体そんな感じなんじゃないの? いつだって自転車操業っていうかさ。それでも潰れないでなんとかやってるところがほとんどなんだから、そんなに心配はしていない。
あたしが拝島水道の経営難に気が付いたのは、数ヶ月前のことだった。夜中トイレに起きると、リビングから明かりが漏れていることに気付いた。こりゃ家族会議だなって思った。だから気付いた瞬間に抜き足差し足のねずみ小僧スタイルになってリビングに近付き、暗い床に漏れている一筋の光を踏まないように注意しながら壁に張り付いた。あたしだって拝島家の家族だ。盗み聞きする権利はある。これ、結構楽しいんだよね。前にもこんなことがあって、その時は二人共酔っ払っててさ、大学で出会った頃の話なんかをしてた。両親の出会いの話なんてキモいって初めは思ったけどさ、なかなか素敵な話だよね。娘の前では決して話さないような内容で、あたしは愛されて生まれてきたんだなって実感出来た。これは良かった面って言える。
逆に後悔しているのは、あたしの生理が始まった時。夜中あたしが寝た後でリビングに集まっちゃってさ、二人でパニックのタンゴを踊ってた。パパは分かるよ。男だから。娘が大人になるのが受け入れられないんだよね。だけどママがパパと同じくらい見事なステップを踏んでいたことには驚いた。ほら、ママって心配性だから。ただの成長だったとしても、あたしに変化の兆しが見えるともうそれだけで恐怖を感じる扁桃体がびんびんに反応しちゃって。二人でおろおろしながら「今から赤飯炊く?」とか叫んじゃってさ。最悪だった。
ま、そんなこともあるから、その時は期待半分不安半分ってところだった。リビングから聞こえる二人のひそひそ声の調子は重く、決して娘の成長について話し合っているわけじゃないことは理解していた。
「今月も売上が落ちてる。このままじゃいよいよマズイよ」
ママの声だった。中の様子は見えないが多分帳簿を見ながらパパを責めるように顔を顰めているんだろう。
「やっぱり詐欺集団の影響が大きいんだろうな」
パパの声は緊張していたが、それは拝島水道の行く末に不安を感じているというより、ママに詰められて萎縮しているって様子だった。
詐欺集団のことならあたしも知ってる。「水のトラブル見積もり無料」とか描かれたマグネットをばら撒いて、連絡してきた可哀想なトイレ詰まり民に後から高額な支払いを要求する悪徳業者のことだ。しばらく前から話題になっていて、最近ではテレビでも報道されたりしている。馬鹿が馬鹿相手に商売することに不満はないけれど、馬鹿が馬鹿のままで困るのは、うちみたいに実直に商売をしている地場の個人商店ってわけ。ニュースで報道されたりするとさ、消費者は名前も知られていないうちみたいな水道屋も警戒対象に入れてくるわけ。結果、CM打ってるような大手の水道屋とかメジャーな電気屋を窓口に使っている狡い店しか使わなくなるの。拝島水道なんてさ、爺ちゃんの代から続く歴史のある街の水道屋さんなんだよ。昔はここら辺の新築を一手に引き受けてたんだよ。それなのに、今や水道詐欺集団の手によって間接的に追い詰められているなんて。世の不条理を感じるよ。
「警察も対応してくれてるらしいんだけど、ああいうのは結局イタチごっこになっちゃうらしいからねえ」とママ。
「今のところは詐欺被害撲滅のポスターとか作って住民に周知してるだけだもんな。ありがたいけど、その周知がうちみたいな個人商店の引き合いを減らしちゃってるんだもんな。本当、なんとかならないもんかね」パパは落胆しているようだった。
「うちの場合、破滅の原因はそれだけじゃないんだけどね」
ママが厭味ったらしい口調で言うと、すかさずパパが「それはさ、まだこれからっていうかさ。結果は出てないっていうか」とゴニョゴニョとやり始めた。
そこまでだ。ここであたしの登場。リビングの扉を勢い良く開けて、しみったれた両親の前に姿を現す。
「あたしに良い作戦があるよ」
ママは驚いて動きを止めたが、パパは救世主が現れた、みたいな顔つきに変わった。家族会議にかこつけたパパへの説教が始まりそうだったところに娘が現れたんだからそりゃ救世主だわな。
あたしはそこで前々から温めていたアイデアを披露した。今が実現するチャンスだと思ったから熱弁を振るうことになった。
あたしは高校卒業後、美大に進学したいと思っている。昔っから絵が上手いって褒めれることが多いし、描くことが好きだから。なによりさ、美大ってなんか格好良くない? おしゃれっぽいし、特別感がある。社会の枠に収まらないアウトサイダーって雰囲気がぷんぷんとするじゃない。だからあたしは美大に進学したい。それだけ。デッサンの勉強? そんなのやったことないし、今後もやるつもりはないけどなんとかなるっしょ。あたしはね、そんなお受験アートなんてやらないの。本物の芸術家だから。美大志望のエセサブカルキッズ達が美術予備校なんかでしこしこと自分の個性を殺している間に、あたしは現実の作品を作るの。もし入試で面接とかがあった場合、きっと教授達はあたしの行動の方に花丸をつけることだろう。大変よくできましたってね。
だけど、今は家が貧乏になっちゃってるわけでしょ。詐欺集団のせいでさ。もしかしたらあたしの大学進学にも影響が出るかもしれない。進学しないでうちを手伝えなんて言われたら最悪。大体街の水道屋なんてダサいしさ。あたしの才能を活かす職業じゃないね。やば。改めて考えてみると相当やばいことになってるって言える。でも大丈夫。あたしには作戦があるから。
水道詐欺集団が小道具に使っているのは小賢しいマグネットなわけでしょ。妙に馴れ馴れしい笑顔を見せるオリンピックメダリストの写真がプリントされてたり、センスのかけらもないフリー素材のイラストが描かれてたりするあの。水道トラブルにあった民衆は情報弱者でもあるわけ。うんちが流れないトイレにパニクりながら、安心安全の業者なんて到底選べない。それで、冷蔵庫に貼ってあるマグネット広告に連絡してしまうっていう寸法。
だからすぐに捨てられてしまう紙の広告よりも、なんとなく捨てられないマグネット広告は効果があるってことだろう。詐欺の温床にもなってるけど。つまり、マグネット広告自体は悪くない。要は使い方。詐欺集団のセンスのないマグネットよりも格好良いものをあたしが描いてそれを配れば、絶対冷蔵庫っていうキャンバスの中ではひときわ輝いて見えるはず。ただでさえ選択肢の少ない民草が手を伸ばすのはどっちだ? ええ? 拝島水道のマグネットだろう? それがあたしの拝島水道救済マグネット作戦の概略。我が才能とアイデアをふんだんに盛り込んだ最強の企画。肝心のデザイン料が無料になるんだから、実質得したようなもんでしょ。
熱のこもったプレゼンを終えた後、ママは呆れてた。お金がないって言っているのに、お金を使う作戦を考えてどうするのよって言ってた。夢のない女。ママのことは好きだけど、現実的過ぎて息が詰まる。ウーマンリブとかフェミニズムとかそういう運動、ママは知らないんだろうな。パパは感動してた。ちょっと涙目になってたんじゃないかな。子どもだと思っていた娘が、商売に新たなアイデアをもたらすなんてって感じだった。で、結局パパの熱意で作戦は承認された。予算は諸々込で五万円ってことだった。ママは最後まで反対してた。どこまでも後ろ向きな人。
あたしはアーティストとして、金勘定からは距離を置きたかったから夢乃に声をかけた。こっちはわくわくしてたけど、迷惑になっちゃうかなって思って遠慮がちに声をかけた。そしたら、意外に乗り気だった。面白そうとか言って、こっちが思うよりもずっと頑張ってくれるようになった。なんでだろう? 多分あれだな。友情だな。愛情でもいい。少し前なら友情で十分だったけど、最近では夢乃から好かれたいって思い始めてる。あたし、同性愛者なのかもしれない。ネットとかで色々調べてみたんだけど、結構当てはまってるし。悲しくなんてなかった。不安もなかった。むしろ、やったって感じだった。だって、同性愛者なんて格好良いじゃん。特別感があるしさ。これから先マイノリティとしてどんどん発言権が増えていくと思う。正直に言うけどあたしはさ、そういう普通じゃなくて一目置かれるのに、努力も必要のないレッテルが大好きなの。羞恥心さえ忘れれば、都合よく被れる仮面なんて利用しない手はないでしょ。本当のところ、あたしが同性愛者かどうかなんて分からない。でも男を好きになったことなんてないし。それはただ恋愛経験が浅いだけなのかもしれないけど、でも夢乃のことは好きだし。きっとそんなセンシティブなこと詰められたり証明を求められたりもしないはずだ。しばらくはこれで行こうって心に誓っている。
あたしのマグネット作戦はすぐに暗礁に乗り上げた。夢乃がちょっと計算を間違えちゃったみたい。最初は五万円を使って、デザイン以外全部業者に頼もうって話だったんだけど、彼女、張り切り過ぎちゃって。自分たちでマグネットとシールを買って作って、更に自分たちでポスティングをすれば十倍近くの枚数を各御家庭へ周知できるって気づいたもんだから。あたしも悪かったのよ。資本主義の隙間をついた良い作戦だなんて二人で盛り上がったから、すぐに実行に移しちゃって。で、そろそろ自分たちの企画にも飽きた頃に、大量のシールとマグネットが送られてきたもんだから呆然としちゃったの。
デザインを考えるのはもちろん楽しかったよ。好きなアニメの登場人物の絵を描いたの。あたし昔からアニメの絵が上手いの。アニメーターの手癖を完璧にトレースできるっていうか。ま、アニメに関わる仕事に就くことはないだろうけどね。だって激務っていう聞くし。あたし根性ないから。徹夜なんてしてられない。今回描いたザナロクのレイナのイラストなんて自分でも本当よく出来てるって思った。夢乃も褒めてくれたしね。ま、拝島水道にはなんの関係もないんだけど。でもさ、情報弱者の客にはさ「お、ここの水道屋さんは有名アニメとコラボできるくらいメジャーな店なのか。それなら安心、安全」って考えると思うのよ。
仕事をするのはすっかりと飽きてはいたけど、いつもみたいに放り出すわけにもいかなかった。うちの家計を盛り上げなくちゃ、美大進学もままならないはずだし。そうじゃなくてもなんか学費の心配をするなんて、いかにもしみったれてるじゃん。そんなことをしなくても良いようになるくらいまでは頑張る必要があった。既に当初五万円だったはずの予算はオーバーしてたしね。テコ入れが必要だったわけ。
で、両親に相談。新たな対策としてアルバイト募集を提案した。バイトに細々した仕事を押し付ければ、少しはやる気も蘇るはずだって思った。やめられないんだから楽をする必要があった。二人共度肝を抜かれてたね。既に家庭用プリンターをフル回転させてレイナを印刷した百枚単位のシールを見てさらに魂を震わせてた。あたしとしてはさ、少しは働いた実績を残しておきたかったから、頑張ってプリントしたんだよ。でもそれが仇になった。ザナクロのことを知っていたママが「こんなことをしたら、著作権侵害で訴えられるわよ」だって。知ったことじゃないじゃん。自分で描いたんだからちょっとくらいデザインを拝借してもいいでしょ。「それにバイトなんて絶対に雇えないわよ」って続けてた。「根性出して、自分で責任を取りなさい」ときた。
だからさ、あたしに根性を期待しないでよ。ないんだから。途方に暮れかけた。なにせ、あたし達のオフィスであるところの倉庫には、真っ白のマグネットとシールが束になって放置されているんだから。あたしにはマグネット広告制作なんていうちまちました作業出来っこないし、夢乃もその辺の作業にはなんか興味を示していないし。でも、いつもみたいにパパが助け舟を出してくれた。ナイス親父って思った。
「まあまあ。せっかくここまで夏鈴が頑張ってくれたんだからさ。それに想定の十倍くらい多くの家庭にマグネットが届くわけだろ? それってすごい経済効果をもたらすんじゃないか? ねえママ。アルバイト雇おうよ。きっとすぐに元が取れるよ」
「なに言ってるの? パパは夏鈴に甘すぎるんだって。大体どこにバイトを雇うお金があるのよ? 信じらんない」
自分で言っておきながら、あたしだって信じられなかった。パパはあたしに甘すぎる。ママの言う通りだった。だって、お金がないって嘆く両親を救うためにやっている作戦なんだから。毟り取る作戦じゃない。でもそこであたしは考え直した。これは投資ってやつなのかもしれないなって。勇気でもって背負ったマイナスをいつかプラスにするギャンブル。一端のビジネスマンが取るリスクってやつだ。遂にあたしもそんな博打に打って出る年頃になったんだなって感動した。やっぱりナイス親父だった。
「俺の小遣い減らしていいよ。なにも夏鈴の仕事だけを手伝ってもらうわけじゃない。俺だってずっとアシスタントが欲しかったんだ。だからちょうどいいんだよ」
「減らすっていうか、なくなっちゃうけどそれでもいいの?」
パパは一瞬あたしの表情を確認した。後には引けなくなった後悔の念が浮かんでいたことをあたしは見逃さなかった。生唾を飲み込んでから「ああ、もちろん」って格好つけた低い声で言った。
「呆れた。もう勝手にして」
ママが折れた。パパとの夫婦関係、あたしとの親子関係、全体での家族関係に妥協点を見い出したって意味じゃない。多分、気持ちが折れていた。言う事を聞かないわからんちんの家族を諦めたんだろう。
とにかく、そんな感じでママは家族を二分するアルバイト募集反対派の急先鋒だったんだ。それなのに、せめて人選は私がするって言い出してからは、篤郎を面接して即採用。その後も、バイト追い出し派に鞍替えしたあたしをよそに篤郎の保護を続けている。生まれつき備わっている家族の危機アラームが激しい警報音を立てていた。これはなにかりますね。二人の関係性は警戒しなければなりませんね。実際、ママと篤郎の間になにがあるのかは分からない。ママの熟れた恋心に火が灯ったのか、それとも篤郎に弱みを握られて言う事を聞かざる得ないのか。大体なに? 篤郎のあの傷だらけの体。ケンシロウじゃないんだから。訳ありを服で隠そうったってそうはいかないよ。このあたしは欺けない。
「それで、新しいデザイン案は決まったの? 早く決めないと、あの人の仕事が滞っちゃうよ。遊ばせとくわけにはいかないし」
物思いに耽っていたあたしの心を夢乃が現実に戻した。そう、あたしは早急にシールに印刷する新しいデザイン案を考えなければならなかったんだ。自分から言い出した。新たな仕事は自分で見つける。それが成功への鍵だって聞いたことがあるから。本当かどうかは疑問だけど。でもさ、あたしの仕事はマグネットのデザインを考えることでしょ? あとはこの部門のトップっていう大仕事もあるけど、それはまあなにやって良いかも分からない雲を掴むような肩書だし。だから、せめて手を動かしてないと飽きちゃうんだよね。そういう意味で第二弾のマグネットを制作しようと思ったわけ。デザインの違うマグネットが各家庭の冷蔵庫に貼られるなんて、なんか面白いしレア感も出て人気になるかもしれないでしょ。
夢乃はあたしが無から有を生み出しているって想像しているのかもしれないけど、実際のところはそうでもない。もうピカトロのマガのイラストを描こうって決めてるから。後はどこからかやる気が降ってきて、あたしをタブレットの前に立たせるだけ。なかなか難しいんだけどね、アーティスは気まぐれだから。
「あたしさ、手が動き出せば早いから。もうちょっと待って」
「それは分かってるけど、私、アルバイトがやることなくてぼうっとしているの見ると、なんだか落ち着かなくて。目の前で財布から小銭を抜かれているような気分になるの」
「大丈夫だって、そんなことにはならないから。でも、あたしのために真剣になってくれてありがとうね。無理言って手伝わせちゃったのに、こんなに真剣になってくれるなんて嬉しいよ。本当感謝してる」
これは愛しているよってことを遠回しに表現した言葉だった。毎回単純に愛しているよって言うのも野暮だと思うから。世間の恋人や夫婦はそんな野暮さに耐えきれず、次第に言葉が少なくなっていくんだろうけどあたしは違う。手を変え品を変え別の表現をしていくんだ。
「え? ああ、うん。大丈夫。楽しいよ」
でもそんな時、夢乃は必ずこんな微妙な反応をする。恥ずかしいのかな? それとも本当はこの仕事に飽き飽きしているとか。不安になる。でもま、すぐに元の夢乃に戻るから気にしないけどね。あたしたちの友情は永遠だから。
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