第2章 完璧な肌

「ん~・・・」

私はノートパソコンに最後の数字を入力し、エンターキーを押して、大きく伸びをした。

肩や腰のコリが今日一日の業務量の多さを実感させる。

私が税理士として働く、みなと総合税務事務所ではいつもの光景だった。

春先は毎年のように中小企業の年度末決算が集中する。帳簿整理や試算表の作成、決算見込み作業がどんどん増えていく。

それに加え、個人の顧客を持たせてもらっているので、税務調査の事前相談や個人事業主の消費税対応も増えてくる。

さらに毎月の業務である月次会計処理やその報告書の作成もこなさなければならない。

デスクの上にはそれらの書類がまだ山積みにはなっているけど、今日のところは、まず一区切りつけられた。とにかく目標は、増えた分以上の仕事を片付けることだ。

デスクの上に広げられたファイルを片付けて、自分のマグカップを持ってコーヒーサーバーのところに行くと、同期の松原さんと橋田さんも同じようにマグカップ片手にやって来る。

「お疲れ~」「お疲れさまです」「お疲れさま」

私たちはそう声を交わす。

もうすぐ退勤時間だけど、このところ私たち三人は事務所に残って、自主的な勉強会をしていた。

もっともそれほど堅苦しいものではなく、お菓子をつまみながらの雑談交じりのものだったけど。

今はその前のコーヒー休憩といったところだ。

「遠野さん、結構な進捗じゃない」

松原さんが、私のデスクを眺めてそう言った。確かに積み上げている書類の山は、朝の三分の一程度には減っている。

「数は多いけど、そこまで複雑な内容じゃないからね。松原さんの方は?」

そう返しながら、マグカップにエスプレッソを注ぐ。最近はこの仕事終わりの濃い目の一杯がお気に入りだ。

「私の方は昨日からやってた一番大きな案件がやっと片付いたとこ。明日からは少しは楽になるはず」

松原さんはブレンドを注ぐ。正統派の香り高い一杯だ。

事務所の中では、私は主に、個人や中小企業の案件を担当しているのに対し、松原さんは中~大企業の案件を担当している。その規模や複雑さ、チェック項目の数は、私の担当する個人案件の比ではない。

「俺は、今日2件、片付けたよ」

そう言いながら橋田さんは甘いカフェラテを注ぐ。

「橋田さんのやってたのって、何だっけ?」

「非上場株式の相続と、医療法人の消費税対応」

「うわぁ・・・」

橋田さんの答えに松原さんは顔をしかめるけど、私も同じ感想だ。ややこしいことをやっていると、糖分が必要になるのだろうか。

そんな複雑な案件を担当できるのは、うちの事務所では橋田さんくらいだ。

税理士としてやっていくには試験科目のうち5種を取るだけでいい。

でも橋田さんは受験勉強に余裕があったのか、それとも勉強自体が好きなのか、税理士としての試験科目全11種、つまり簿記論、財務諸表論、所得税法、法人税法、相続税法、消費税法、酒税法、国税徴収法、住民税、事業税、固定資産税の全てを取得しているという変人だ。

ちなみに私が取得しているのは、簿記論、財務諸表論、所得税法、消費税法、国税徴収法という、一般的な5科目、松原さんも簿記論、財務諸表論、法人税法、消費税法、国税徴収法の5科目だ。

橋田さんは一応、同期だけど4つ年上の30歳。その知識量から、事務所内でも一目置かれている稀代のエースだ。

「いつも思いますけど、よくそんなの対応できますね」

「まぁ、ずっとこんなのばっかり任せられてるからね。逆に青色申告の入力方法とか忘れそうで怖いよ」

橋田さんは、税理士の基本的業務ともいえる内容を挙げて、笑う。

「私の仕事手伝ってくれれば忘れませんよ」

「それもそうだな。じゃあ、遠野さんには代わりに俺の次の案件、株式交換の税務をあげよう」

橋田さんは税理士の中でも高難度の案件を挙げる。法人税と組織再編税制の専門的な知識がなければまともに取り扱えるものではない。

「無理無理、そんなの触ったこともないのに」

「ほんと、事務所の方も、どこからそんな案件拾ってくるんでしょうね」

「まったくねぇ」

そう言って私たちは笑いあう。三人でマグカップ片手に、リラックスできる時間だ。

そんな時、私のスマホが震えた。

また顧客からの急な相談かと画面を見ると、相手は小夜子だった。

内容は短く、『助けて』のみ。

小夜子からの連絡自体珍しいのに、この内容だ。

私はすぐに『どうしたの?』と返信するけど、いつまで待っても既読は付かない。

妙な胸騒ぎがする。

私の様子に気付いた橋田さんが「どうした?」と声を掛けてくる。

「ごめん。急用が入っちゃって。今日の勉強会はキャンセルで!」

「あ、あぁ・・・」

私は急いでデスクに戻ると、つけっぱなしだったノートパソコンを落として、筆記用具や手帳などをバッグに投げ入れる。

「じゃ、お先失礼します!」

「気を付けてね!」

松原さんの声を背後に聞きながら、私は事務所の階段を駆け下りた。


私はSUVに乗り込み、真っ直ぐに小夜子のアトリエへと飛ばす。

赤信号に引っ掛かった時にスマホを確認するけど、まだ既読は付いていないし、追加のメッセージもない。

小夜子は基本的にアトリエから出ないので、出先での事故とかではないだろう。

では、アトリエの中で私に助けを求める事態とは何なのだろうか。強盗が入って来た? それとも棚か何かが倒れてきて押し潰されそうになってる?

いや、そんなのは警察や救急隊の案件だ。流石に小夜子でもそのくらいは分かるだろう。

そんなことを考えながらアトリエに到着する。

そこには小夜子の軽自動車がいつも通りに止められていた。玄関からは明かりも漏れている。

とりあえず、外出中のトラブルではなさそうだ。

インターホンを鳴らすけど反応はない。

「小夜子?」

もう一度インターホンを鳴らし、ドアを叩く。

「小夜子!?」

そうすると、カチャリと玄関のロックが解除される音がした。

私は玄関を開けると、真っ直ぐにアトリエに向かう。

「小夜子? いるの?」

「サッチ~・・・」

アトリエの床はいつも以上に散らかり、空き箱や包装用のビニール袋、何かのチラシまで散乱していた。

そしてその真ん中に、今にも泣き出しそうになった小夜子が立っていた。

それを見て、私は長いため息を洩らした。体中から力が抜けていく感じがした。

「どうしたのよ・・・」

「サッチ~・・・」

小夜子が縋り付くように寄って来る。

「サッチに取っておくように言われた領収書、なくしちゃったよ~・・・」

「はぁ?」

「ごめんね・・・ 探したんだけど・・・」

小夜子は言い訳のように言ってくるけど、もちろん、なくしたことを責める『はぁ?』ではない。

本当に心配させて・・・ 既読が付かなかったのは、単に気が動転しての事なのだろう。

「いや、大丈夫。大丈夫だから。怪我とかしてなきゃ、それでいいから」

「でも大切に取って置けって言われてたのに・・・」

私は軽く言うけど、小夜子は落ち込んだままだ。

確かに小夜子の一回の購入金額を考えたら、領収書の一枚でも、実生活に大きな影響が出てしまうだろう。

最近買った高額商品としては、真空脱泡機が30万、ハイグレードのシリコン樹脂が2缶で45万、ガラス製の眼球制作用の特注色ガラスが1セットで40万などがある。

小夜子は造形作家として5000万近い年収があるけど、そのほとんどは経費で消えてしまう。手元に残る自由資金は月換算で10万ほどしかない。

その中で30万の領収書を紛失したとしたら、その分、経費として引けなくなるので、年収から経費を引いた課税所得が30万増えることになる。税率を20%とすると所得税は年間6万の増額。決して小さな金額ではない。

ここまでを一瞬で計算して、私は頭を抱えそうになる。

小夜子は制作さえやっていれば満足という感じなので、私が止めなければ、収入を際限なく素材費用としてつぎ込んでしまう。その中で何とかまともな生活をさせようと奮闘していたけど、それが台無しだ。

もっとも小夜子の落ち込みようは、そんな数字や金額を理解しての事ではないだろうけど。

その時、アトリエの隅に大きなごみ袋が二つ置いてあるのが目に入った。

何かとずぼらな小夜子は小まめにごみを出すことなどしないし、シュレッダーなどもここにはない。

アトリエの奥、裏口の前室には産業廃棄物用の密閉容器が並べられているけど、紙の領収書を混ぜて入れたりはしないだろう。日常生活はずぼらだけど、こと、制作の素材となると、廃棄の際も含めて、異様なほど気を遣うからだ。

つまり領収書はまだ、このアトリエのどこかにはあるはずだ。

「領収書はなくしただけで、消えたわけじゃないから、大丈夫。私も一緒に探すから」

「うん・・・」

私はまず、床の片付けから始めた。

あちこちに散らばっている空き箱を集めて、中身を確認してから切り開いていく。これはあとでまとめて資源ごみとして出しておこう。

同様に、購入物品と一緒に入って来たチラシの類も集めて束ねていく。一枚一枚広げて確認するけど、領収書は挟まっていなかった。

包装用のビニール袋もプラスチック資源ごみとしてまとめておく。

その間に小夜子には作業台の上を確認してもらった。

一見散らかっているように見えても、それは小夜子が使いやすさを追求した結果かもしれないので、私は作業台の上については、道具の一つだって動かすことはしない。

「あった?」

「ない~」

だとすれば、後はあのゴミ袋の中か。

小夜子の生活では生ごみはほとんど出ないし、部屋の隅にでも広げて確認するか。

そう思ってゴミ袋の一つを持ち上げた時、ごみ袋の間に、しわくちゃになった紙切れが落ちていた。

広げてみると、『業務用ふんわりロールパン(冷凍) 50個入り1250円』と印字されてある・・・

「なくした領収書って、もしかして、これ?」

小夜子はいつの間にか領収書探しではなく、ルーターの先端のビットを外して、張り付いた切削屑を磨き落していた。

確かに小夜子にとってはお金の事より、道具の手入れの方が重要なんだろうけど、そういう感覚でいるから領収書をなくしてしまうんだろう。今回はこんなのだからよかったけど。

「そう、それ! よかった~ どこにあったの?」

小夜子は嬉しそうに言うけど、ビットと紙やすりを持ったままなので、わざとらしさもある。

「ゴミ袋のところ。あとこれ、自分で食べる分だから、経費では落ちないよ」

「?」

「領収書は全部取って置いてって言ったけど、これはなくても困らないやつ」

「そう、なの? ・・・ごめん」

小夜子は申し訳なさそうに言う。

「いいよ」

『全部』って言ったのは私だし、最初に『何の領収書か覚えてる?』って聞けばよかったんだ。ちょっとアトリエの掃除をしたと思えば、それでいい。


「晩ご飯は食べた?」

私は話題を変えるために、そう尋ねた。

「これから」と言って、小夜子はキッチンに向かう。例のよく分からない冷凍ロールパンを食べるつもりなのだろう。

「私が買ってくるよ。何食べたい?」

「・・・サッチが買ってくれたもの」

それを『何でもいい』と解釈して、近くのコンビニに向かう。

その途中で、小夜子に余計なストレスを与えてしまったなと、反省する。

どうせ細かい事には無頓着なのだからと、理由も説明せずに、行動だけを指示した結果が、今回のトラブルだ。理解するかどうか、それで行動が変わるかどうかに関わらず、きちんと説明はするべきだったんだ。

コンビニでは小夜子にカルボナーラとツナサラダと野菜スープ、自分用にミックスサンドを選ぶ。そして、ふと思いついて、お高めのカップアイスも二つ買った。

アトリエに戻ると、小夜子は作業台の一つを片付けて、食事の準備をしてくれていた。珍しく食欲はあるようだ。

「スープはまだ熱いから気を付けてね」と注意して、小夜子の前に並べてやる。

「いただきます」と小夜子はフォークを手に取って、もそもそと食べ始める。

いつ見てもいい光景だ。

そうして眺めていると、小夜子がふと視線を挙げた。

「・・・サッチって人の食べるところ見るのが好きなの?」

「別にそんなことないけど、どうして?」

小夜子もいきなりおかしなことを聞くものだ。

でも小夜子も『あれ?』というような顔をする。

「何か嬉しそうな顔してるから」

「そりゃ、小夜子の食べるところ見れば嬉しくもなるよ」

「・・・そう」

小夜子はよく分からないような顔をしていたけど、結局、その疑問は飲み込んだようだ。

「それより、食べ終わったらお風呂入らない? 髪洗ってあげるし、お風呂上がりのアイスもあるよ」

余計な心配をかけさせたお詫びにと、そう提案する。

「うちのお風呂、狭いよ?」

「私は入らないよ。小夜子が入るの。ずっと入ってないでしょ?」

そう言われて小夜子は自分の体の匂いを嗅ぐような仕草をする。

もちろん、体臭が気になったわけではない。気になったのは、癖がついて絡まった髪だ。

せっかくの黒髪ロングがもったいない。小夜子は『勝手に伸びただけ』と言うだろうけど。

「じゃあ、入る」

小夜子がそう答えたので、私は早速、お風呂のスイッチを入れた。

小夜子は食べるのが遅いので、食後に少し休んだ頃に、丁度入れるだろう。


そうして小夜子が食べ終わると、私は皿やカップをキッチンへと片づける。

小夜子は洗面所に置いたプラケースから着替えを出すと、さっさと服を脱いで浴室に入る。ざぶんと湯船に入る音が聞こえる。

小夜子の脱いだ服を洗濯機に入れると、私も濡れてもいいように下着姿になって、浴室に入った。

別に初めての事ではないので、お互いに慣れたものだ。

小夜子は小さな浴槽の中で膝を立てて座り、私は狭い洗い場でしゃがみ込んでいる。

こんな狭い空間に二人でいると思うと、なぜかおかしくなってくる。

それは小夜子も同じようで、意味もなくにこにこしていた。

「髪、洗ってくれるの?」

小夜子がそう確かめてくる。

「あったまった?」

「うん」

そうして小夜子が浴槽から上がって来たので、シャワーでお湯をかけてやる。

シャンプーを手に取って洗い始めるけど、どのくらい入っていなかったのか、全然泡立たない。

とりあえず、最初は洗うというより、絡んだ髪をほぐす作業だ。

太くてコシのある髪質なのにもったいない。そう思いながら、シャンプーを塗りたくって、毛先の方から少しずつほぐしていく。

そうして手櫛がスムースに通るようになってから、シャワーで流し、もう一度シャンプーをする。今度はきれいに泡立ってくれた。

こうなると、小夜子の毛量のある髪は洗い応えがある。

指の腹で頭皮をマッサージするようにしながら、根元から泡立てていく。

「お痒いところはございませんか~?」

「ん~、ない」

小夜子も上機嫌で応える。

その泡をシャワーで流すと、大量のお湯を含んだ髪の束がズシリと重くなる。両手で絞ると、信じられないくらいのお湯がしたたり落ちた。

そしてトリートメントをなじませると、今までの癖がなくなり、髪は真っ直ぐに流れるようになった。

その髪をタオルでまとめると、今度は体を洗ってあげる。

「はい、手」

ボディソープを泡立てながら言うと、小夜子は「ん」と細い腕を、子どものように突き出す。

私はその色白な腕を優しく洗ってやる。

「高校の頃はこんな風に同級生の介護することになるなんて思わなかったよ。はい、立って。背中」

小夜子は立ち上がって、背中を向ける。

「そう? 私はサッチにお世話してもらえるって思ってたよ」

「何それ。はい、前」

小夜子はくるりと私の方に向き直り、両手を横に伸ばす。私はその薄い胸も洗ってやる。小夜子はくすぐったそうにしていた。

「はい、おしまい」

私が切り上げようとすると、小夜子は更なる要求をしてくる。

「お股も洗って」

「えぇ? 自分で洗いなさいよ」

「全部サッチに洗ってもらったっていうのがいいの」

「もう・・・」

胸までなら何とかなるけど、流石に下までとなると、こちらが恥ずかしくなる。

私はさっと撫でる程度にしておしまいにする。

そうしてスポンジをすすいでいると、全身泡だらけの小夜子が私の肩に手を掛けてくる。

どうしたのかと思って顔を上げると、小夜子は私の頬にキスをした。

「洗ってくれたお礼」

「ちょっと、泡ついちゃうでしょ」

私はそう言ったけど、悪い気はしなかった。小夜子もいたずらっぽく笑っている。

全身をシャワーで流し、もう一度湯船に浸かると、肌の色艶も変わったように思える。

そしてお風呂上がりの仕上げは私が買っておいたヘアオイルだ。濡れた髪になじませて、丁寧にドライヤーをかければ、見事なつやつやのストレートヘアに復活する。

「ほら、かわいい~」

私は小夜子を鏡の前に立たせるけど、本人はピンと来ていない様子だ。もっと自分の魅力を自覚してほしいところだけど・・・

そして私は小夜子が下着をつける様子を見ながら、『少しよれてきたから、また新しいの買ってこよう』と思っていた。


その後、私たちは服を着て、火照った体でカップアイスを食べる。私はオレンジシャーベットで、小夜子はいつものラムレーズン。

まだ春先で肌寒い時もあるけど、お風呂上がりのアイスは格別だ。

「それで匂いは取れた?」

アイスを食べながら、小夜子はそう尋ねてきた。

「何の?」

「? 匂いがしてたから洗ってくれたんじゃないの?」

何か小夜子は勘違いをしているようだ。

「別に匂いなんてしなかったよ。まだ汗かくような季節じゃないでしょ?」

「そうなの? 男の匂いがしてたのかと思った」

小夜子のその言葉に、私はギシリと固まってしまった。

「・・・は?」

小夜子は何事もなかったかのようにアイスをつついている。

「・・・男の匂いって、なにそれ?」

「ん? 昨日、セックスしたの。それで匂いが付いちゃったのかと思って」

小夜子は何の恥じらいもなく、淡々と言う。実際、何とも思っていないからそういう反応になるんだろうけど、私にとっては一大事だ。

「・・・それ彼氏、とかじゃないんでしょ?」

「全然」

小夜子は平然と答える。

「どういうこと? 何があったの?」

「何がって・・・」

私に問い詰められ、小夜子は『どうしてそんなこと聞くんだろう』という感じで話し始めた。


それは昨日のお昼前の事だった。

すでに何回かのメールのやり取りで今回の契約内容はまとまっていたが、高額の契約でもあるので、対面での最終確認がしたいとのことで、私は嫌々ながら、映画制作会社の本社ビルへと足を運んだのだった。

相手側のプロデューサーや制作担当、事務スタッフは当然、ピシッとしたスーツ姿だった。

対する私はいつもの服装。よれよれのワンピースと、10年以上前の春物のコート、癖だらけでぼさぼさの髪、隈の浮いた化粧っ気のない顔という姿だった。

プロデューサーは個人で何百万もの契約を請け負う女性造形作家とはどんな人物なのかと思っていたのだろうが、私の姿を見て、ある意味、納得したようだ。

「えっと、本日はお時間いただき、ありがとうございます。水原小夜子と申します」

以前、サッチに教わった通りに挨拶し、サッチに作ってもらった名刺を差し出す。どうも初対面の人間と話す時には、声が籠ってぼそぼそとした話し方になってしまう。

そうして名刺交換が済むと、その後は契約自体の追加や変更もなく、署名押印してその場はお開きになる。

そして今度は、近くにある制作スタジオに案内される。

そこでは監督、美術監督、撮影監督、助監督、美術スタッフらが待っていた。

「君の作品がこの映画のキモとも言えるんだ!」

監督は広げっぱなしで癖の付いた台本を叩きながら力説した。

「このシーン、映画の核となるこのシーンで、君の作品がアップになる。その質感が一番重要なんだ。観客の視線は全てそこに集中する。これが嘘なら役者の演技もセリフも脚本も、全部嘘になる。君の作品がこの映画全体の雰囲気まで決めてしまうんだ。そこのところ、しっかり頼むよ!」

そんな風に監督は熱弁をふるっていたが、私にとっては、そんなことは当たり前のことだった。

言われるまでもなく、造形のリアルさに手を抜くつもりなどない。問題はそのリアルさのために、どれだけの時間と資材を注ぎ込めるかだ。

私としてはもっとリアルなものを作りたいのに、制作側の制約、主に金銭的な内容で妥協せざるを得ないというのが常だった。

結局、当たり前のことを言われただけで、スタジオでの顔合わせもすぐに終わった。

その帰り際に「水原さん」と声を掛けられたのだった。

その男は確か美術スタッフとして、最後に挨拶をしていたはずだ。

「えっと・・・」

「あ、美術担当の久我(くが)です」

その男は30歳手前くらいで、人当たりのよさそうな笑みを浮かべていた。

「時間があるようだったら、これから何か食べに行かない?」

「別にお腹空いていないので・・・」

いつもならまだ寝ている時間だったので、食欲がないのは本当だった。

「じゃあ、そこのカフェでも・・・」

久我の指差す先には、有名チェーン店があった。外から見えるだけでも、結構な客入りだ。

「人混みは嫌いなので」

そう断るが、久我はなおも食い下がる。

「じゃ、じゃあ、どこか二人になれる場所で、造形の話でもしない? 前から水原さんの作品に興味あってさ。一回でいいからお話してみたいって思ってたんだよね」

「二人になれる場所って?」

「え~と・・・ その、ホテル、とか? ダメかな?」

久我はあいまいな笑みを浮かべている。ここで断ってもどうせ別の場所を挙げてくるだけだろう。

めんどくさい。

それに、そういう場所に行ったからと言って、そういうことをしなければならないわけではない。

「いいよ」

「ホント? じゃあ、ここで待ってて。今、車持ってくるから」

そうして私は男の車で、近くのラブホテルに入った。

久我は使い慣れた様子で、部屋を指定すると、先導するように歩いていく。

「何か、こんな所でごめんね。スタジオだと、どこに行っても人目があるからさ」

大きなベッドにカバンを放り投げると、久我は部屋の照明をいっぱいに明るくして、ベッドの端に腰を下ろした。

私も、とりあえずソファに腰を下ろして、久我と向かい合う形になる。

初めて入ったその部屋は、妙に圧迫感があって、かすかにタバコの匂いがした。

「人目があるとダメなの?」

「何か俺だけ浮いちゃっててね・・・ あのスタジオの連中は危機感がないんだよ。何もしなくても、ずっと自分の仕事があると思ってる」

下心だけかと思っていたが、久我は思いのほか熱く語りだした。

「今はもうCGで何でもできちゃうだろ? 俺たちはCGじゃ再現できない、役者が手で触れられるリアルな表現を追求しなきゃいけないんだよ。それなのに連中は何も勉強しようとしない。ずっと昔の通りにやるだけだ。新しいことに挑戦したくないだけなのに、それを効率とか言って誤魔化している。でも水原さんは違うだろ? 俺はあんな作品は初めて見たよ。同じことを考えてる人がいるって、嬉しくなったよ」

久我はさらに話を続けていたが、私が聞いていたのは最初だけで、後は全部聞き流していた。

自分の作品が他人にどう評価されようがどうでもいい。まして業界の盛衰など全く興味もない。

私にとって重要なのは、自分で満足できるものが作れるかどうかだけだからだ。

『あなたと一緒にしないで』

それだけが私の答えだ。

それに久我の話も本心とは思えなかった。本当にそう考えているのなら、行動すればいいのに、何もしていないからだ。

私は相槌を打つこともせずに、ただ話が終わるのを待った。

やがて久我はソファに座っていた私の横に座って来た。話は終わったらしい。

「折角こんな所に来たんだからさ・・・ 俺、そっちの方でも水原さんに興味あったんだよね」

やっと本心を出したかと、ため息をつく。

「そんなことのために来たんじゃない」

そう言って立ち上がって出て行こうとするけど、ドアが開かない。

「清算してないから開かないだけだよ。別に俺が閉じ込めたわけじゃないからね」

ドアノブをガチャガチャやっていると、久我が笑いながら声を掛けてくる。

「もしかして彼氏、いたりとか? それなら遠慮しておくけど」

「いない」

「じゃあ、一回くらい、いいじゃない。ちゃんとゴムも使うよ」

久我の目的な単純な下心で、何か騙そうとしているようには見えない。

少し考えた後、私は久我との行為を了承した。

それは10分くらいの行為だっただろうか。

結果的にそれは大したことではなかった。

何の感想も出てこない。

皆がどうしてあんなことに夢中になっているんだろうかと、多少興味もあったが、それも分からないままだった。

多分、久我もそうだったのだろう。

久我は行為が終わった後で、「ラブドールとやってた方がましだったな」と言って、テーブルの上に万札を6枚置いた。

そしてドアのところで清算すると「タクシー代もそこから出してね」と言って先に帰ったのだった。

私はそんなお金を貰ういわれはないから、そのままにして、タクシーでスタジオに戻り、そこから自分の車で帰って来たのだった。

これがその男との顛末だった。


「何なのソイツは!! 小夜子、プロデューサーの名刺は!? 抗議してクビにしてやる!!」

私は小夜子の話を聞いて、はらわたが煮えくり返る思いだったけど、小夜子は平然としていた。

「何怒ってるの、サッチ。別に私も同意したし、減るものじゃないでしょ。人生の中で一度くらいは経験してみてもいいかなって思っただけだし」

「初めてだったんでしょ!? 減ってるでしょうが!!」

私は思わず小夜子に対して声を荒げてしまう。

「だから、何でサッチが怒ってるの・・・」

「怒るに決まってるでしょう!? こんなかわいい子の初めて奪っておいてラブドール扱いとは何なのよ! 監督の名刺は!? 同じ目に合わせてやる!」

「どうやってよ・・・ 落ち着きなって・・・」

小夜子は呆れながら自分の使っていたスプーンで、アイスを私の口に入れてくる。

それによって、体の熱と共に心の熱も冷めてくる。

『こんなことなら私が先に・・・』とわずかながら、後悔の念も浮かんでくる。

「別にヤッたこと自体には何の興味も感想もないんだけどさ。最後の言葉は、妙に納得できたよ。確かに男はラブドールとヤッてればいいんだなって。女が男の相手をしなきゃいけないことはないと思ってたけど、その回答を貰った気分だよ」

小夜子は妙に晴れやかな顔で言う。

そう言われると、私にも男にはいい思い出はない。

「確かに男なんて最低の生き物だから、そんなんで十分だろうけどさ・・・」

それを聞いて、小夜子はにっこりと笑う。

私はそこに微かな違和感を感じた。


私は月に何度か小夜子のアトリエに遊びに行ってるけど、その日はついでに税理士としての仕事も済ませてしまおうと訪問した。

「小夜子~、来たよ~」

私は一応、インターホンを押してから、ドアを開ける。あらかじめ訪問の時刻も告げてあるので鍵は開いている。

「お疲れさま」

出迎えてくれた小夜子は、フェイスシールドと防塵マスク、防水エプロンとアームカバーといういつもの格好だ。

ぼさぼさの髪を見るに、せっかく洗ってあげたのに、あれからお風呂には入っていないようだ。

「今忙しい?」

そう尋ねながら、私は手にした紙袋を掲げて見せる。中には駅前で買ったシュークリームが入っている。

「休憩にする」

そう言って小夜子はフェイスシールドと防塵マスクを外して、手袋もゴミ箱に入れる。

「手も洗ってね」

「は~い」

私はその様子を見ながら、紅茶を淹れる。

「いただきます」

私たちは片付けた作業台の角に斜めに座って、シュークリームを食べる。

小夜子は本当にシュークリームを食べるのが下手だ。すぐに手がクリームまみれになるし、口元もクリームで真っ白になる。

もっとも、その様子が見たくて、『クリームたっぷり、特大薄皮シュークリーム』を買って来たんだけど。

私はシュークリームに悪戦苦闘する様子を眺めながら、横から紙ナプキンで口元を拭いてやる。

食べ終わると、小夜子は食べ始める時の何倍もの丁寧さで、手を洗う。

作品の状態を確認するために、素手で触れる必要もあるからだ。そういったちょっとした違いからでも、小夜子の生活が作品制作を中心に回っているのが分かる。

「領収書、集めておいてくれた?」

私は紅茶で一息ついてから、仕事に入る。

まずは一か月分の領収書の確認作業からだ。

「これ」と小夜子はレターケースごと持ってくる。

私はその内容を見ながら、経費として落とせるものとそうでないものを仕分けしていく。

専門の業者からの領収書はすぐに分かるので簡単だけど、一般の通販の領収書は一枚ずつ内容を確認しなければならない。

「ここにある『衣類』ってどれ?」

「これ」と小夜子は今着ている長袖のブラウスを摘まむ。それにはすでに塗料がべったりと付いていた。

本来は普通の部屋着のようだけど、ここまで汚れれば作業着扱いということで、経費の方に入れる。

掃除用具の領収書は、住居兼アトリエでの使用ということで、半分だけ経費に回せる。

そして次の領収書には『図書』や『DVD』がいくつも並んでいたけど、そのタイトルにはもれなく煽情的な言葉が含まれていた。どう考えてもヌード写真集や、AVとしか思えない。

「こ、これは?」

「資料」

遠慮がちに尋ねると、小夜子は平然と返してくる。

「あ、そう。資料ね・・・」

「確認する? 持ってこようか?」

「別にいいよ」

小夜子の感覚との隔たりを感じながら、その領収書は経費の方に入れた。

こうして領収書の仕分けだけやっておけば、あとは事務所に行ったときにまとめて入力するだけでいい。

「あと、お仕事の方の契約内容変えた? 今月分、まだ入金されてなかったけど」

今日やって来たのは、実はそれを確認するためだ。

「入金期日が変わるんだったら、先に言ってもらいたいんだよね。帳簿処理とかも変わって来るから」

そうぼやくと、意外な答えが返って来る。

「依頼は全部断ったから、入金はないよ」

「・・・は?」

今、なんて・・・?

「この間から、依頼は全部断ってる」

「どうして・・・」と聞きかけて、あることが頭に浮かんだ。

「その、あんなことがあったから?」

それは小夜子が美術スタッフの男に弄ばれた件だ。そんなことがあれば、映画会社自体を信用できなくなっても当然だ。

でも小夜子の答えは少し違った。

「ん? まぁ、そう。そのせいだよ。でも、私の初体験の方は関係なくて、男の言葉の方。それで今はラブドールを作ってる」

「ラブドールって・・・ その、撮影用の等身大人形とかじゃなくて、ほんとに使えるヤツ?」

「そう。まだ練習段階だけどね」

さっきのヌード写真集やAVはそのための資料というわけか。

そう思ってアトリエを見回せば、確かに以前とは少し違っている。あちこちに作りかけの人体パーツのようなものがあるのは同じだけど、それが血まみれのグロテスクなものじゃなくて、綺麗な女性のパーツだけになっている。

「どうしていきなり?」

「『全ての男がラブドールに魅了されれば、女は性から解放される』。これが私の辿り着いた結論。だからそのためにラブドールを作るの。サッチも同意してくれたじゃない」

『そうだっけ?』と思いながらも、私は現実的なことを確認していく。

「じゃあ、これからはその、ラブドール制作でいくの?」

「うん。これ一本でいく。映画とかの依頼はやってる暇ないから、全部断る」

「そう・・・」

小夜子はそう断言するけど、ラブドール制作って、その分野の規模とかはどうなんだろう。映画関係と比べれば依頼元の数も資金量も桁違いなのではないだろうか。

それでも小夜子の作るものならば、確かに需要はあると思うけど。

「発注元の目途は付いてるの? どこかの専属ってわけじゃないでしょ?」

小夜子は『自分のやりたいことができなくなるから』と言って、映画会社の専属になることは断り続けてきた。これからも今まで通りのフリーランスで行くだろう。

そう思って聞いたのだけど、それに対する答えも意外なものだった。

「依頼は受けない」

「は?」

「依頼で作るんじゃなくて、私が作りたいように作るだけ。それを売っていく」

小夜子のやろうとしていることは、どんどんハードルが高くなっていく。

言っていることは芸術家の自由制作と同じだけど、『ラブドール』というジャンルが決定的に違う。

「簡単に言うけど、その買ってくれる人はどうやって見つけるの? 作品が作品だから、大々的に広告出すこともできないし、展示会もできないよ」

「口コミとかから探して来る人はいるはず。それだけの物は作る」

小夜子は自信たっぷりに言う。その自信には私も一部、同意できる。

「私は小夜子の作品が、他の物とは段違いにいいものだって分かってるよ。でも他の人はそこにいいものがあるって知らないの。知らなければ話題にもならないでしょ? こちらから、誰がラブドールが好きかを見つけることもできないし」

どこに需要があるか分からなければ、火の付けようがないということだ。

「それに話題になったらなったで、性的商品ってことで拒否反応を起こす人間が必ず出てくるし」

「そういった人間は最初から相手にしない」

小夜子は冷淡に言う。

こういうアンダーグラウンドな商品でやって行こうとするには、そのくらい冷淡なほうがいいかもしれないと、思わず笑ってしまう。

「とにかく、ビジネスとして見たら、最悪だよ? 宣伝も販売もかなりきつい制約があるし、顧客の予定は立たないし、材料費は何百万とかかるわけでしょう?」

「でも作りたいんだもん」

小夜子は私の長々とした反論を、たったその一言で砕いてくる。

「・・・じゃあ、それでいこう」

私は長考の挙句、ため息交じりに同意する。

不安要素は何一つ解決されていないけど、私は小夜子を信じる。

とりあえず、今は目の前のことだ。

「今まで通りのペースで材料を買い込んでいくんだったら、今まで通りのペースで収入を得なければならない。それくらいは分かるでしょ? 今までは先払いだったからまだよかったけど、これからは後払いになるんだから。思ったように売れるとも限らないし。当面の間はどうするつもり?」

「?」

小夜子はかわいく首をかしげる。やっぱり何も考えていなかったな・・・

「ちなみに、販売可能な作品ってある?」

「まだない。ラブドールが売り出せるのは2か月後くらい」

私の目からすれば、アトリエ内にはすでに完成状態の女性の頭部がいくつもあるんだけど、それは小夜子からすれば、売り物になるレベルではない、ということなんだろう。

確かに、今焦って中途半端なものを出して、前評判を下げるのは悪手だけど・・・

「銀行の融資の審査が通れば一番簡単なんだけどね・・・」

「通らないの?」

「多分無理」

私は税理士として、その辺の知識も一応はある。

一瞬、銀行マンの元夫の顔がよぎるけど、無理なものは無理だろう。

「映画業界での実績は評価されるだろうけど、今は仕事受けてないわけだから、無職扱いなんだよね。以前どれだけ稼いでたかも重要だけど、やっぱり一番重要なのは、現在どうなのか、だから。銀行によっては文化振興枠とか言って芸術家への融資をやってるとこもあるけど、『ラブドール作ります』じゃ、まず通らないでしょうね」

「そうなんだ・・・」

「でも、まぁ、小夜子は作品作ってて。お金の方は考えてみるから」

「うん、お願い」

流石に小夜子も少し不安そうな顔をした。

でも小夜子には実力はあるんだ。最初の一歩さえ踏み出せれば、後はどうにでもなるはずなんだ。

その最初をどうするか・・・ 手堅く無名の仕事で現金を稼ぐのか、採算度外視で知名度を上げるのか。

私が小夜子のためにしてやれることは何だろう・・・


そしてその第一歩は意外にも近くに転がっていた。

数日後、私はアトリエで小夜子にノートパソコンの画面を見せていた。

「こういうのって、小夜子的にはなし?」

そこには『現代造形美術アワード』の出展作品募集の要綱があった。

新素材や現代的造形技術を活用した立体作品を対象とした、国内最大規模の現代造形コンテストで、スポンサーには大手の素材メーカーや美術系雑誌社なども加わっている。

審査対象は「造形技術」「コンセプト性」「現代社会との接続性」「審美性」の4項目。

そして、最優秀賞には賞金300万とスポンサーとの共同制作権。

審査委員には美術評論家などの他、美術雑誌の編集者もいるため、受賞時の雑誌掲載も広告効果が高いだろう。

つまり、現金と知名度を一気に稼げる手法というわけだ。

問題は、小夜子はあくまで自分の信念、情熱のために作品を作るのであって、このような他者の評価を望んでいるわけではないというところだけど・・・

「・・・いいんじゃない?」

以外にも小夜子はあっさりと出展を了承した。

「お金のことはよく分かんないけど、サッチが考えてくれたんだったら、それでやってみる」

「ありがと」

小夜子は何も聞く前から信頼してくれている。私はその期待に応えなければ・・・

「そのコンテストにはラブドールも出せるの?」

「流石に全裸のものをラブドールとして出すことはできないから、そういう実用性のない、鑑賞用のものとして出すことになるけどいい? 素肌の美しさは出したいから、薄いブラウスでも羽織らせたりして、大事なとこを隠せば行けると思う」

「うん、いいよ」

「じゃあ、作品はそういう方向で。今月中に作品を完成させて、写真を添えて出展申し込みをするでしょ。で、来月に予備審査があって、通過すれば、再来月中に作品を国際デザインフォーラムってとこに搬入、設営して、その翌月、7月に本審査と、一般公開って流れ。その最終日に表彰式があるから、賞金は受け取れたとしても、7月下旬になっちゃうね」

「え、じゃあそれまでの3か月はどうするの?」

そう、そこが一番のネックだ。

「銀行に融資してもらう」

「え、銀行からは借りれないんじゃなかったの?」

「『ラブドール制作』じゃ無理だけど、『現代美術造形アワード』の出展作を作るためだったら、通せると思う」

「へぇ~・・・」

小夜子は『何が違うんだ』と言いたげな、気のない返事をする。

「銀行なんて、イメージ重視の保守的な業界ってこと。ラブドールはまだまだアンダーグラウンドな存在だしね」

私だって、この数日でラブドールのことは結構調べた。『ラブドール=性の道具』という図式は崩れつつあるようだけど、まだまだ大っぴらに話せる単語ではない。

だからこそ、同じ作品を作るのでも『現代美術造形アワード』という大看板が効いてくる。

「とりあえず、銀行から借りたお金は、出展作品以外の制作には使わないこと。7月に賞金が入れば、それは好きに使えるんだから、それまではその他の制作は控えてね」

「・・・サッチが言うなら」

小夜子は渋々承諾する。今月は出展作を作れるからいいけど、その先2か月以上も大きな制作ができないというのは、かなりのストレスになるだろう。

でも銀行だって無条件で貸してくれるわけじゃないんだから、仕方ない。

「じゃあ、私の方で書類の準備するから、でき次第、銀行行く?」

「うん、お願い」


私はすぐに資料を作成して、数日後には小夜子と一緒に銀行を訪ねた。

小夜子は何が始まるのかと、緊張している様子だったけど、私は別の意味で少し緊張していた。

顧客に同行して個人向け融資について銀行と交渉するのは税理士の仕事のうちなので、慣れたものだ。資料も揃っているし、これなら確実に融資を取れるという確信もある。

問題は、その過程だった。

「個人融資の面談を予約していた水原です」

私が窓口でそう告げると、窓口の担当者がちらりとカウンター下に目をやる。

「本日14時からご予約の水原様でいらっしゃいますね。担当の日向がご案内いたしますので、少々お待ちください」

私の横で、小夜子の表情がすっと固まった。

そうしてすらりとしたスーツの男が出てくる。

「お越しいただきありがとうございます。こちらの応接室へどうぞ」

久しぶりに見た元夫、日向誠(ひゅうが まこと)は相変わらず、腹が立つほど自信たっぷりでスマートな表情をしていた。

陽の入る応接室には大きなテーブルと革張りのソファがあり、テーブルの上にはすでに関係書類が準備されている。

「本日は『現代美術造形アワード出展にともなく制作費用』のご相談でよろしかったでしょうか」

普通、最初は何かしらの雑談を挟んで場の空気感を和らげるものだけど、この男もそんなことをしても雰囲気が変わらないことは承知しているらしい。いきなり本題に入って来た。

「はい。こちらが計画書と収支見込みになります」

「拝見いたします」

プロの銀行マンとしてにこやかに、あくまで客と行員という関係で対応する男に比べ、私の方はどうしても対応がぎこちなくなってしまう。

男は私の差し出した資料をぱらぱらとめくるが、過去の収入実績の欄に5000万とあるのに、目を止めた。

「かなりの実績ですね。素晴らしいお仕事をなさっていたようですね」

男は軽く目を挙げて言葉を向けるけど、小夜子は黙ったまま、冷たい視線で応える。

自分のやって来たことがお金で評価されて、不機嫌に思っているのかもしれない。でも、ここはそういう場なので、我慢してもらうしかない。

「アワードの要綱も持ってきました。水原さんの作風とも合っているので、受賞の可能性は高いかと・・・」

私は小夜子が突発的に何か言う前に、話題を変えた。

男はその資料にも一通り目を通した。

「返済は受賞後の作品の販売益からとありますが、どのような作品を想定されていますか?」

「関係ないでしょ」

私が口を開く前に、小夜子が冷たく言い放つ。

その一言で場の空気が凍った。

「いえ、書類上の記載項目なので・・・」

「展示作の延長のようなものになります。方向性はすでに固まっています」

私は慌ててフォローする。

「そうですか。ありがとうございます」

その後もいくつか質問があったけど、小夜子はずっと不機嫌そうにしていた。

「では資料も揃っていますので、確認は以上となります。こちらに署名捺印をいただいて融資決定となります。本日中にご入金の手続きを致しますので、明日にはお引き出しいただけます」

「ありがとうございます」

私はそう言ったけど、小夜子は無言のまま署名捺印し、その用紙を突き返すように男の前に滑らせた。

「それでは失礼します」

私は小夜子が何か言う前に、さっさと応接室から連れ出した。


「ふ~・・・」

私は元夫との対面や、当面の資金問題から解放されて、車内でため息をつく。

「とりあえずこれで一段落。300万あれば作品作りに専念できるよね」

私はわざと明るく言う。

小夜子は助手席でずっと窓の外を見ていた。

「・・・ごめんね」

小夜子がぽつりとつぶやく。

私は何のことか分からなかったけど、自然に言葉が出る。

「いいよ」

確かに銀行に行ってからの小夜子の様子は少しいつもとは違ったけど、そんなのは別に謝るようなことじゃない。機嫌が直ればそれでいい。

「作品は、最高の物を作るから」

「うん、期待してる」


そうしてアトリエまで送ると、小夜子はすぐに材料を発注して、制作に入ったようだ。

3週間後には、『本体は完成した』との連絡が入り、出展応募用の写真を撮るためにアトリエを訪れた。

到着時間も伝えてあったので、玄関は開いていた。そんなところも慣れたもので、私は勝手に入って行く。

久しぶりのアトリエは、自分の部屋よりも落ち着く感じがした。

ただ、小夜子は出迎えには来なかった。

「小夜子?」

ラジオがつけっぱなしになっているのか、アトリエの奥の方から、クラシックがかすかに聞こえてくる。ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』だった。

そうしてアトリエに入って行くと、その真ん中に小夜子がいた。

「あ、いらっしゃい」

そう答えて顔を挙げた小夜子の前には、一つだけのソファに全裸で座って眠っている女がいた。小夜子はその女の髪をとかしていたのだった。

「!?」

私は思わず、小夜子に歩み寄る。

「どうしたの?」

小夜子はそんな私の態度に驚くけど、驚いているのは私の方だ。このアトリエに私以外の人間を入れているのは見たことがないからだ。

『この人、誰!?』と口に出しかけて、私は思い止まる。

ソファの女は、私が結構な足音でここまで近付いても微動だにしない。

まさか、これが・・・

「あぁ、これが出展する作品。あくまで試作品だけどね」

小夜子は平然と言うけど、私はその事実に愕然とした。

この近さであっても、これが作品だと言われてもなお、目の前のそれは、ソファでうたたねをする美女にしか見えなかった。

「・・・触っても大丈夫?」

「いいよ。どんなポーズで展示するかも考えないとだし」

私は恐る恐る、その手を握った。しっとりと滑らかな質感の奥に、脂肪や筋肉の柔らかさがあり、そのさらに奥には骨格の硬さがあった。体温が感じられないということが、逆に不自然に思える。

ゆっくりと力を込めると、適度な重みを持って、滑らかに関節が動いた。それはまるで彼女自身が意志を持って押し返してくるようだった。

思えば、今まで小夜子の作品をいくつも間近で見てきたけど、それらはあくまで人体のパーツや小物としての作品だった。

小夜子が人一人分を作ると、こんな風になるということを、私は思い知らされた。

「サッチの言ってた通りに、薄手のブラウスも買ったんだけど、どっちがいいかな」

小夜子がそう言って、浴室の方に行った隙に、こっそりと下腹部を観察したけど、性器も精密に作りこまれていた。この分だと、内性器も徹底的に作り込まれているに違いない。

私はネットでラブドールの画像をいくつも見たけど、この『人間そのもの』といった小夜子の作品に比べれば、それらは『ただの等身大の人形』にしか見えなくなる。

「これって、展示は座らせた状態でするの?」

「それが一番安定するからね。立たせて、足裏で台座に固定することもできるけど、できるだけ傷は付けたくないから」

ブラウスを2着持ってきながら、小夜子が答える。

まぁ、それならある程度、はだけさせても大丈夫か。

そう考えながら、二人でブラウスを着せて、ポーズを考えていく。小夜子が後頭部の髪の中に手を入れると、ラブドールは瞼を上げ、微笑みを浮かべた。

そこには生命の光があった。

「表情はこんなものでどうかな」

「あ、うん・・・ いいと思う・・・」

私は持ってきたデジカメで、出展応募用の写真を撮るけど、それはどんなに拡大してもモデルのスナップショットにしか見えなかった。至近距離で肉眼で見ても人間としか思えないのだから、当然だけど。

これが一から作った立体作品だと信じてもらえるか不安になるくらいだ。でもこれが小夜子の作品なのだから、そう提出するしかない。

「この作品のタイトルは?」

私はノートパソコンで応募の入力フォームを開いて、ポーズの微調整をしている小夜子に尋ねる。

「何か、高校の時みたいだね」

小夜子はそう言って笑う。

高校1年の時、私が強引に展覧会への出品を勧めて、そのせいで大騒ぎになった時のことだ。あの時も、こんな風に私が申込書を代筆したのだった。

「あれはほんとにごめん」

「ううん。あれ、ほんとはうれしかったんだ。賞を取ったことじゃなくて、サッチにすごいねって言ってもらえたことが」

「そうなの?」

「うん。だから今回もサッチが書いて」と小夜子は面白そうに言う。

「じゃあ、タイトルは?」

「ん~、X-01かな?」と、小夜子は本気とも冗談ともつかない口調で言う。

私はじっとそのラブドールを見詰めた。

「タイトルは『完璧な肌』」

「いいね」

「コンセプトは?」

「練習」

「分かってて言ってるよね」

私たちは笑いあった。無邪気に造形を追求していたあの頃に戻ったようだった。

でも、今はそうも言っていられない。

私はノートパソコンの前で頭をひねった。


私たちは日々、人の存在を、視覚を主として判断しているが、実際にはその輪郭の外側に、感情や記憶の層が「見えない気配」として漂っているように思う。

本作では、そうした「触れられない輪郭」を可視化しようとした。

表面は無表情でも、わずかな姿勢の傾きや、光の反射の仕方によって、そこに何かが息づいているように見える瞬間がある。

それは、素材が人間を模したからではなく、むしろ「人がものを見つめる眼差し」そのものが形を作ってしまうのだと感じている。

本作はその現象を静かに確かめるための、ひとつの実験である。


そんな、どのようにも捉えられるような文章を入力した。

「制作者はどうする?」

「こちらの情報は出したくない」

「だよね。『制作者M』とでもしておく?」

「じゃあ、それで」

「連絡先は? 代理人でもいいみたいだから私にしておく?」

「いいの?」

「いいよいいよ」

「あと要望はある?」

「展示期間が終わったら、返却してほしい」

小夜子は真面目な口調で言う。

「受賞作はそのまま全国巡回展に出されるみたいだよ。そっちの方がCM効果あると思うけど」

「うん。でも考えてることあるから」

「そう? じゃあ、要望として入れておくね」

そうして私は入力内容とデジカメの画像を小夜子にも確認してもらってから、エンターキーを押した。


そうして応募された小夜子の『完璧な肌』は、200点以上の応募作の中から予備審査を通過する40点の一つに選ばれ、本審査として、7月には国際デザインフォーラムのメインホールに展示されることになった。

ここまでははっきり言って、順当な流れだった。小夜子の作るものに対しては、それだけの自信があった。

でも実際に展示された後の反応は予想外のものだった。

展示前半の審査員、報道関係者向けの非公開展示の段階ですでに、異様な存在感として話題になっていたという。制作者自身が半裸で台座の上に座るという、パフォーマンス作品だと誤解した人も多かったらしい。

また、夜間警備の職員が「あの作品に見られている気がする」といって交代を申し出たことも、記録として残っている。主催事務局は、四人の警備員の『精神的ストレスによる交代』があったことを認めている。

そして開催期間の後半、一般公開が始まると、『完璧な肌』は瞬く間にSNS上の話題を席巻した。



【芸術】 完璧な肌 【リアルすぎ】

1名前:名無しさん@芸術祭り開催中

 アワードに出てる完璧な肌っていう、ブラウス羽織った女、見た奴いる?


2名前:名無しさん@芸術祭り開催中

 見た。あれマジでやばい。照明の熱で汗ばんでるように見えたし、角度によっては呼吸してるようにも見える。


3名前:名無しさん@芸術祭り開催中

 監視員が何度も交代してるってマジ? 「見られてる」とか言って交代した人間が三人も出たとか。


4名前:名無しさん@芸術祭り開催中

 3

 マジっぽい。俺は4人辞めたって聞いた。搬入の段階から「目が合う」とは言われてたらしい。


5名前:名無しさん@芸術祭り開催中

 初日と最終日で腕の角度違ってるの気付いた人いる? 比較画像出ててゾッとしたんだが。


6名前:名無しさん@芸術祭り開催中

 5

 見たw 肩のラインから微妙に動いてる。でも誰も触れないはずだろ? 監視カメラにも異常は無かったって。


7名前:名無しさん@芸術祭り開催中

 中身がラブドールなんじゃないかって噂もある。元々関節が動くようにできてるから、気温の変化で微妙に変化するとか。


8名前:名無しさん@芸術祭り開催中

 非公開期間中に警察関係者が行方不明者と照会しに来てたっていうのは?


9名前:名無しさん@芸術祭り開催中

 8

 それはソースもないし、ガセっぽい。該当者が出て来てもおかしくはないが。


10名前:名無しさん@芸術祭り開催中

 作者は「素材研究の一環」って言ってるみたいだけど、あんなの個人で作れるもの?


11名前:名無しさん@芸術祭り開催中

 10

 医療用の人工皮膚見たことあるけど、それの100倍すごい。寄れるギリギリまで寄って見たけど、人間そのもの。


12名前:名無しさん@芸術祭り開催中

 アートというよりオカルトに踏み込んでる。


13名前:名無しさん@芸術祭り開催中

 あれはまさに人間を越えた完璧さを表現してる。



そんな中で、作品だけでなく「制作者M」の経歴に言及したコメントもあった。



『完璧な肌』を初めて見たとき、私は既視感を覚えた。11年前、高文連美術工芸展に出品されていた『夢』という作品だ。

私は審査員としてあの場にいたのだが、技術的完成度と、見る者を不安にさせるほどの「生命感」が話題になった作品であった。

素材もテーマも異なるが、肉体の描き方、表面の「温度」のようなもの、そして何より「人間を写し取っている」というより、「人間を創造している」という感覚が共通している。

あの『夢』という作品を徹底的に突き詰めれば、『完璧な肌』のような作品に到達するのではないだろうか。

私はこの二作の作者は同一人物だと考えている。

(美術評論家:桐野正人)


高校で美術教師をしているものです。私は『完璧な肌』も『夢』も実物を見ましたが、桐野氏のご意見に、完全に賛同します。その理由は桐野氏が語っている通りなのですが、言葉を飾らず、端的に言えば、「あんなものを作れる人間がこの世に二人もいるはずがない」。これに尽きます。

(県立高校美術教師:匿名)



これだけ話題になれば、アワードで最優秀賞とされたのも、当然という雰囲気だった。それだけ他の作品とは一線を画していた。

もちろん展示の最終日の夜に行われた授賞式には、私も小夜子も出席しなかった。そして小夜子はスポンサーとの共同制作権も、当然のごとく辞退した。

作品自体は翌朝、私が自分のSUVで引き取ってきたんだけど、それがさらに「作品が消えた」「運搬業者の記録にもない」「主催事務局でも追跡不能」といった誇張ニュースとなっていった。

その後もネットニュースまとめサイトも作られ、美術誌でも『完璧な肌』の素材は何か、どこに消えたのか、『制作者M』とは誰か、をテーマにした調査記事や座談会特集が組まれるなどの反応が続いた。

それらに対する小夜子の反応は「ふ~ん・・・」というものだった。


そして今、アトリエには一連の騒動の原因となった『完璧な肌』がソファに眠るように横たえられている。

「で、これ、どうするの? 置いておく? それともすぐに販売する?」

普通だったらどこかの美術館に委託展示をするような代物だろうけど、小夜子にそういった思い入れがないのは分かっている。こんな社会的に話題となり、評価されるようなものでも、小夜子の中ではただの試作品に過ぎないのだ。

「これは売らない。何て言ったっけ、あの私の初体験の男。そいつにプレゼントする」

「は? どうして!?」

私の中で、あの時の悪夢のような衝撃が蘇る。

「あの男が最初に私の中の理念に気付かせてくれたから。これはそのお礼にする」

小夜子の言う理念とは『全ての男がラブドールに魅了されれば、女は性から解放される』というものだ。それは男の口走った暴言から生まれたのだけど、とにかく小夜子はその理念に基づいてラブドールの制作をしているらしい。

「だからって、あんな男にこっちから関わることないよ! 調子づいて小夜子の方に好意があるとか思われたらどうするのよ!」

あんなことがあった後に、二度も小夜子を汚されるわけにはいかない。

「でもあの男は映画会社専属の美術スタッフだよ。興味のない人間が離れたところから見るよりも、造形のプロが実際に触ってみたほうが、宣伝効果は高いんじゃない?」

「それは・・・」

そう言われれば、確かにそうだ。

小夜子がこれからやって行こうとしているのは、美術品の制作ではなく、実用性のあるラブドールの制作だ。

発売前に使用感が口コミで出るのは効果的だろうし、職業や立場的にも好条件と言える。

「・・・分かった」

私は反論を諦めた。

「あの映画会社の専属美術スタッフだったよね。名前は覚えてる?」

その男に送るとなれば、住所氏名から調べなければならない。

「名刺は全部サッチに渡したよね?」

「名刺なんか燃やしたよ」

これは本当だ。私は小夜子の話を聞いてすぐに、憎しみを込めて、その男の名刺に火をつけたのだった。

「まぁ、映画会社に問い合わせれば教えてくれるかな・・・」

何回か仕事は受けてるわけだし、向こうにも恩はあるはずだから、多分大丈夫だろう。

「それで、何かメッセージは付けるの?」

「別に。私からだと分かればいい」

「そう。じゃあ、さっそく包装材料、取り寄せないと。ここからの発送でいい?」

「うん」


そうして私たちは等身大の重量物用段ボール箱を用意すると、そこに緩衝材を敷き詰め、シルクとビニールで二重に包んだ作品を横たえた。上からも緩衝材をかぶせて、取扱説明書とメンテナンスキットを同梱して封をした。

送り先は『久我大和(くが やまと)』。住んでいるのはマンションの上層階だった。

重量物、精密機器扱い、複数人搬送、手渡し必須などの条件を付けて単独配送のチャーター便を使うと、運送時の保険も含めて運送費用は5万以上になった。

「それではお預かりします」

そう言って、40キロ近い段ボール箱を慎重にワゴン車の乗せていく様子を、小夜子は嬉しそうに見守っていた。

「いってらっしゃい」

小夜子の呟きには何か期待が込められているように感じられた。


そして小夜子は現代美術造形アワードの賞金300万を元に、今度こそ販売用のラブドールの制作を開始した。

もちろん前回の作品を試作品と言っていただけに、その量産ではなく、細かい改修を加えているらしかった。私には何が違うのか、分からなかったけど。

『制作者M』名義のラブドール販売用のサイトも体裁だけは整え、『詳細未定』とだけ乗せておいた。

もちろん、アワードのおかげで『制作者M』の知名度は(批判的なものも含めて)抜群だった。

何の情報もないにもかかわらず、1日のアクセス数は1万前後に達していた。

そんな中で、のちに『K事件』と呼ばれることになる事件が起きた。



事の起こりは、ただの長期休暇届けだった。

「次回作の企画会議は9月からなので、その前に休んでおきたいのですが」

「あぁ、いいよ。今回はかなり無理させちゃったからね。しっかりリフレッシュして、また次回作も頼むよ」

「はい、ありがとうございます」

久我と上司の間でそんな会話が交わされたのは8月になったばかりの頃だった。

申請期間は3週間。

クランクアップから次の制作期間までの間であれば、問題なく取れる日数だ。実際、同僚たちも撮影の間は休みが取れないこともあり、そのような方法でまとめて休みを取るのが常だった。

だからその上司にしても、休暇に入ると聞いた同僚たちも、何も不審には思わなかった。せいぜい、「最近、やけに明るかったけど、疲労のせいでハイになってたのかもな」などと笑うくらいだった。

実際、久我が望んだのはリフレッシュだった。現実から離れ、ラブドールと一緒に過ごすための。


最初にそのラブドールを見た時には我が目を疑った。造形関係者なら知らない者はいない、あの『完璧な肌』が送られてきたのだ。しかも自分がヤリ捨てた水原小夜子から。

『制作者M』の正体が水原であることは直感できた。驚異的な技術を持っているのは知っていたが、まさかここまでの天才だとは思わなかった。

その水原が、アワードで最優秀賞を獲得した作品を、なぜか自分に送って来た。

そこにどういった意図があるのかは全く分からなかったが、これは秘密にしなければと思った。

世間がどう騒ごうと、このラブドールは造形界の、美術界全体の至宝に間違いない。本来なら、個人で所有することなど許されるものではないのだ。

夜になってから、久我はその梱包を解くと、展示会で見た時のようにソファに座らせた。その時と違うのは、今は全裸であるというところだ。

完璧な造形に、手が吸い寄せられるように動いた。

そっとその頬に触れると、柔らかい感触が心を満たしてくれるようだった。

「ミコ・・・」

久我は、ふと思いついた名前で呼びかける。

ラブドールは何も答えない。

それは拒絶ではなく、肯定の沈黙だった。

「ミコ・・・」

久我はゆっくりと肩を、髪を、そして胸を触るが、ラブドールは微笑んだまま、全てを受け入れてくれた。

やがて久我はラブドールを抱きしめた。自分の体温がラブドールの肌に伝わり、それが相手の体温のように感じられた。

久我はその夜、ラブドールを抱いて眠った。

そして翌朝には腕の中のラブドールに「ミコ、ありがとう。すごくよかったよ」と語りかけた。

それからは毎日が楽しくなった。どんな嫌なことや詰まらないことがあっても、家に帰ればミコが待っていてくれる。ミコは俺の全てを受け入れてくれる。

「ミコ、行ってきます」「ただいま、ミコ」

そんな挨拶が当たり前になり、「今日はスイーツを二つ買ってきたよ。ミコはどっちが好きかな」と問いかけるようになった。

家ではテレビも見なくなったし、スマホも最低限しか触らなくなった。ミコが『自分だけを見て』と拗ねるからだ。

その時点で久我は会社に長期休暇の申請を出した。

「これで一日中、ミコと一緒にいられるよ」

そう言うと、ミコもうれしそうに笑った。

弁当などを買うために近くのコンビニに行くこともあったが、ミコが寂しそうにするので、急いで帰るようにした。

もっとも、フードデリバリーや宅配サービスを使えば済むと気付いてからは、家から出ることもなくなり、ミコの機嫌もよくなった。

ミコは俺に全てを与えてくれる。だから俺もミコの愛情に全力で応えなければならない。

これは二人の間の神聖な誓いだった。

だが、二人の愛は突然、破られることになる。


「大和(やまと)~。いるんでしょ~? 大和~」

高級マンションのドアの前で、久我の両親とマンションの管理人が顔を見合わせる。

「ねぇ、大和~」

母親がインターホンを鳴らしながら呼びかけるが、中からは物音一つしない。

久我の両親に映画会社から連絡が行ったのは一昨日のことだった。

長期休暇が終わっても出社せず、連絡も取れない状態だということだった。もちろん、両親からの電話にも出ず、メールにも反応はない。

仕方なく、二人で上京して来て、マンションの管理人を連れて、部屋を訪れたのだった。

「もう、開けるよ~」

仕方なく、マンションの管理人が合鍵でドアを開ける。

中は明かりもなく、ごみ袋が散乱し、空気は淀んでいた。

「大和~」

そうして三人は無人のリビングを通り、寝室のドアを開ける。

「うぉ!!」

父親が、思わず声を出す。

カーテンを閉め切った真っ暗な部屋の中、ベッドの上で全裸の女性が座っているのが、小さなおもちゃのイルミネーションで照らし出されていたからだ。

それと向き合う形で久我が床の上に座り込み、何かつぶやいている。

「あんた、いったい・・・ いや、これ、人形か?」

父親は部屋の照明を付けて、ベッドの上の女性をまじまじと覗き込む。

「どうしたのよ、大和。返事くらいしなさいよ」

母親が座り込む久我を揺するが、久我はそのままがくがくと揺すられている。

「何をやってるんだ、お前は・・・」

とりあえずの無事が分かり、ほっとした父親が呟く。ここに来るまでの間に、最悪の事態も想定していたからだ。

だが父親がベッド上の人形をどかそうとした時、突如、久我が立ち上がって掴みかかって来た。

「ミコに触るなぁぁ!!」

だがその力はか弱く、簡単に振りほどかれる。見れば体は不自然なほどにやせ衰え、表情も一見してまともではない。

床に倒れてからも久我は「俺のミコに・・・!! ミコが泣いてる・・・!!」などと意味不明なことを叫んで暴れようとした。だが、衰弱しきった久我を取り押さえることは簡単だった。

仕方なく救急隊が呼ばれ、母親が付き添って、精神科のある病院へと搬送されていった。

その間も久我は「ミコ!! ミコ!!」と叫び続けていた。

ようやく静かになった室内で、改めて父親はベッドの上の、人間にしか見えない人形を見詰める。

「いったいこれは何なんだ・・・」

「・・・もしかして、何かの展示会に出てた人形じゃないですか?」

途惑う父親に対して、管理人がスマホを操作しながら言う。

「ほら、これじゃないですか?」

管理人はニュースサイトの画像を父親に見せた。そこにはアワードで最優秀賞を受賞した『完璧な肌』の写真が乗っていた。

「なんでそんなものがここに・・・」

「さぁ・・・」

「・・・とにかく、そこに連絡して返さないと。あいつが盗んで来たとかじゃなきゃいいけど・・・」

父親はすぐに主催事務局に連絡を取った。



男が何事か喚きながらストレッチャーに拘束され、搬送されていく様子を、誰かがスマホで撮影したのだろう。

それだけならば、ちょっとしたネタで済んだのだろうけど、同じ部屋から異様にリアルな人形が運び出されたという追加情報がでると、途端にSNSは行方不明になっている『完璧な肌』との関連で大騒ぎになった。

主な論調は、小夜子のラブドールの危険性と、そんなものを販売するのかという倫理性を非難するものだった。

「こんなことになってるけど・・・」

私はスマホに流れてきたSNSを小夜子に見せるけど、「ふーん・・・」と言っただけで、興味はないようだった。

ただ、一瞬、小夜子の口角が上がったようにも見えた。


その数日後、私のもとに現代美術造形アワードの主催事務局から連絡があった。

「えっと、その・・・ 私どもの手元にあの作品『完璧な肌』があるのですが、もし可能であれば、引き取っていただくことは、できますでしょうか・・・」

電話口の向こうで、担当者はやけに下手に出ていた。

SNSにちらっと出ていた、作品が事務局に寄贈されたというのは本当だったらしい。

ただ、事務局としてもいわくつきの作品ゆえに、展示はもちろん、保管しておくことも難しかった。

ここにあると知られれば、必ず展示の要望は来るだろうし、展示すれば社会的、倫理的な批判が巻き起こるだろう。どちらの批判もかわすには、正当な権利者の元への返却が最も安全であるという結論に達したのだろう。

私はすぐに了承し、その内容を小夜子に伝えた。


そして、小夜子の元には厳重に梱包された『完璧な肌』が帰って来た。

梱包を解くと、箱の中ではラブドールが満足げな表情を浮かべているように見えた。

「おかえりなさい」

小夜子はその頬をそっと撫でる。

それは何か使命を果たした者へのささやかなねぎらいの様でもあった。

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マリオネット縁起 @dienetta

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