マリオネット縁起

@dienetta

第1章 支え合うコツ

マリオネット・・・

「小さなマリア」に由来するとされ、中世フランスで行われていた教会の説話劇で用いられた小型の人形を指す。それらは教会で信仰を伝えるために用いられ、敬意をもって扱われていた。



「ではこれで調停成立となります。お二方とも、調書をお持ちください」

私たちが署名捺印すると、職員は事務的に言った。

これで離婚調停が終わり、私は「日向幸枝(ひゅうが さちえ)」から「遠野幸枝(とおの さちえ)」に戻れたわけだ。

私はやっと終わった、と小さくため息をつく。

離婚調停と言っても、別に何かもめていたわけではない。

ただ役所に書類を出せばいいところ、『念のため』とか、『区切りが欲しい』とかいうことで、離婚の決意から成立まで1か月もかかってしまったのだった。

思えば結婚の時もそうだった。

私は書類一枚でいい。せめて身内だけでと言ったのに、盛大な結婚式にされてしまい、その後の気疲れで二日間も寝込んでしまったことが思い出される。

1年にも満たない結婚生活だったけど、最初から最後まで余計なイベント尽くしの毎日だった。

私は調書を手に取り、目を合わせることもなく、足早に家庭裁判所の建物を出た。

今日の準備ために週一で通っていたけど、何となく責められているような気がするこの建物の雰囲気は好きになれない。

外には4月の穏やかな陽気が広がっている。

金曜の午後ということもあり、歩道の向こうで買い物袋を下げている母子も、カフェのテラス席で肩を寄せている男女も、みんな幸せに満ちているように見える。

私だけがその幸せから取り残され、今更ながらに追い付こうともがいているように思えてしまう。

もちろん二人の合意で結婚したのだから、私の方にも非はある。

あの男に、私に対する愛情がないのは知っていたし、それはあの男もはっきりと言っていた。『他人に対して愛情を持てないのだ』と。

でも私はそれでもいいと思った。

むしろ、私はその点に惹かれたのかもしれない。

私は自分で言うのもなんだが、昔から外見は褒められるほうだった。その中で、全く言い寄ってこない、線の細い男臭くない男というのに興味を持ったのだ。男が大手のエリート銀行マンだと知ったのはその後だった。

私たちは知り合って、数か月で結婚。

私の方の理由は、仕事にも慣れて生活に余裕が出てきたのと、両親を安心させるため。つまりは体裁婚だった。

それでもお互いを尊重していればやっていける。そのうちに愛情も湧いてくるかもしれない。そんな期待だけがあった。

でもそれは結婚の現実を知らない、ただの夢想だった。

思えば、あの男とは何から何まで合わなかった。

私は車高の高いSUVが好きだけど、あの男は車高の低いスポーツカータイプが好きだった。

私は優雅なクラシックが好きだけど、あの男は流行りのJ-POPを大音量でかけるのが好きだった。

私は気の合う人間とだけ付き合っていたかったけど、あの男は誰でも仲間扱いして、いつも大騒ぎしていた。

そんな男の高そうなスポーツカーに乗せられて、自慢気に仲間たちのもとに連れていかれた時は、戸惑いというよりも自分が飾り物にされているという、一種の屈辱を感じたものだった。

そんなことまで思い出してしまい、私は首を振って頭の中からあの男の姿を追い出した。

深呼吸をすれば、敷地内の柔らかい土と草の香りが感じられる。商店街の有線放送からかすかに聞こえてくるのは、シベリウスの『トゥオネラの白鳥』だった。

その静かな弦の響きに耳を澄ませていると、胸の熱が徐々に冷めていった。

今日は一日休みを貰って来たのだ。あんな男のために無駄にするのはもったいない。

私は気を取り直してSUVに乗り込み、エンジンを掛けた。


午後からは親友の水原小夜子(みずはら さよこ)のアトリエに行くと連絡してある。もちろんお泊りのつもりだ。

その前に一旦新しい自宅マンションに寄って行かなければならない。

そのマンションは郊外にあり、仕事場からは遠くなるけど、広い地下駐車場があるという点が決め手となって選んだ物件だった。

外見は年季が入っているけど、清掃はきちんとされているし、落ち着いた雰囲気と言えなくもない。

中古ではあるけど、ずっと乗りたかったこのSUVを大事にしていきたかったので、ぴったりに思えたのだ。駐車場の蛍光灯は何本か切れたまま放置されていたけど、暗闇というほどではなく、それほど気にならなかった。

その駐車場に車を停めて、自動ドアを通ってエントランスに入る。

「おや、今日は早いですね」

「えぇ、今日は休みなんです。またすぐに出かけますけどね」

「そうですか」

そんな挨拶を交わし、部屋でパジャマをカバンに詰める。

出る時にはまた別の住人とすれ違う。

「行ってらっしゃい」

「はい。行ってきます」

そんな挨拶が自然に交わされるアットホームなマンションだった。


そこから30分程走らせると、昔ながらの住宅地に入って行く。

私はその手前でコンビニに入り、お弁当やお酒を買い込んでから、小夜子のアトリエに向かう。

そうして住宅地を進んでいくと、そのはずれにモダンな立方体のアトリエが見えてくる。

全体的には大きな倉庫のような建物で、周囲は高い塀に囲まれている。外部からの訪問を遮断している様子は、他者との無用な交わりを避けてきた小夜子の生き方をどこか思わせた。

外壁はやや色あせたコンクリート打ちっぱなしで、飾り気は一切ない。実用性を優先したその佇まいは、やはり小夜子本人の性格そのものだ。

四角いアトリエの、庭に面した東側は大きなガラス張りになっているけれど、そこには分厚い防音・遮光カーテンが常に引かれている。外から中の様子をうかがうことは、まず不可能だ。

そこは、元は名の知られた芸術家が使用していたアトリエ兼作品倉庫だったのを、小夜子が買い取って、アトリエ兼住居として使っているものだ。

作品保管用の広い空間はそのまま引き継がれ、元からあった小さな応接室やトイレに加え、小夜子がリフォームしてシステムキッチンやユニットバスを追加した。でもそれらは『生活の体裁のために一応備えた』という程度で、実際にはほとんど使われていなかった。リフォームの時に私に相談してくれたらと、悔やんだものだった。

私は道路に面した駐車スペースにある小夜子の軽自動車の横にSUVを滑りこませ、コンビニで買った荷物を下げてインターホンを押す。

『いらっしゃい』

すぐに返事があり、オートロックのドアが開かれる。

私は申し訳程度の住居部分を通り過ぎ、アトリエ部分に入る。

相変わらず中は雑然としていて、床には国の内外から取り寄せたと思われる材料の箱が散乱している。

パソコンデスク脇の棚には海外のものを含めた医学系の専門書が無造作に詰め込まれ、対面の棚には塗料や溶剤の類が無数に並んでいる。

複数の作業台には型取り途中のシリコンが半乾きのまま放置され、工具はその瞬間の手の位置のまま置かれている。

奥の塗装ブースでは大型換気扇が唸り、空気が一定方向へ引かれていくせいで、作業途中にもかかわらず、室内の匂いは意外なほど薄い。

そこはまさに制作のためだけの空間だった。

そして映像作品向けの造形作家として活躍している小夜子の生活は、ほぼこのアトリエ内だけで完結していた。

「いらっしゃい、サッチ」

作業台の前で顔を挙げて、小夜子が声だけで迎えてくれる。丁度手が離せないところなのだろう。

「ちょっと待っててくれる?」

「はいは~い」

私は勝手知ったる小夜子のアトリエで、部屋の隅に置いてある椅子を引き出してきて、そこに荷物を載せる。

小夜子は髪を無造作に黒いゴムでまとめて、よれよれのTシャツの上から、黒いアームカバーと、もう元の色が何色だったのか分からないくらいに汚れた防水エプロンを付けている。右手にはぴったりとしたニトリル製の手袋をはめているけど、左手は素手のままだ。そして額には跳ね上げ式の透明なフェイスシールドを乗せ、首からは大きな黒い防塵マスクをぶら下げている。

その無骨すぎる格好では、せっかくの美人が台無しだ。

そして小夜子は作業台に据え付けられた集塵機のスイッチを入れて、防塵マスクを付けて、フェイスシールドを下ろした。

作業台の上にはFRP(繊維強化プラスチック)製の精巧な頭蓋骨と5本のルーターがあった。

小夜子はそのうちの三本を指の間に挟むと、器用に持ち替えながら、その頭蓋骨を整形していく。

低い集塵機のうなりと甲高いルーターの切削音は、まるで音楽を奏でるかのように絡み合っていく。

隣に立てられているホワイトボードには、モデルとなる俳優の様々な方向からの顔写真が何枚も張り付けられている。おそらく小夜子はそこから俳優の骨格を見通しているのだろう。

俳優の頭部の造形を依頼された時、その頭蓋骨から作っていくというのは、小夜子のいつもの作業風景だ。

写真と見比べながら、眼窩を、頬骨の稜線を、眉間の窪みを慎重に削っていく。

粉塵がほとんど出ないことから、すでに最終的な微調整という段階だと分かる。

手袋をしていない左手の指先で頭蓋骨を撫でては、ルーターを当てるという作業を繰り返している。

いつもの作業工程であれば、こうして頭蓋骨を完成させた後、内部に仕込んだ金属製のソケットに自作のガラス製の眼球を入れ、複数のシリコン樹脂で、筋層、皮下組織、真皮、表皮と順に張り付けていく。その様子は正しく、骨格から人体を創造していくかのようだった。

私は作業の邪魔にならないように、別の作業台に広げられたファイルを覗き込んだ。

それは映画製作会社からの発注の仕様書で、材質や重量、重心位置、断面や血液の表現方法、耐久性、耐摩擦性、落下による耐衝撃性、照明による耐熱性、どのようなシーンでどのくらいまで接近して撮影するかなどの、見た目以外の条件も細かに記載されていた。

ラストシーン近くで、主人公の仲間の一人が斬首された後のシーンに使うらしい。

そしてその隣には英文の分厚い法医学書が広げられていた。内容は読めないけどdecay(腐敗)やneglect(放置)という単語から、遺体を放置した場合の変化を解説したページだとは想像できる。

小夜子は一度ルーターを置き、照明の角度を数度だけ変えた。

影の落ち方を確認してから、眼窩の縁に再び刃を当てる。

削る量は肉眼では判別できないほどわずかで、むしろ触覚だけが頼りの作業なのだろう。

アトリエ内を見回すと、発送用と思われるきれいな段ボール箱が作業台の上に積んであった。まだ封はされていない。

「あれ、見ていい?」

「いいよ」

小夜子がルーターを置いた隙に声を掛けると、小夜子はろくに見もせずに答える。

大体どんなものかは予想できるので、私は心の準備をしてから、慎重に段ボール箱を開ける。

中には半透明のビニール袋があった。

それをさらに広げる。

「!!」

途端に私の心臓は跳ね上がった。

そこにあったのは、有名女優の血まみれの生首だったからだ。

たるみ始めた皮膚の張り、唇の中途半端な湿り気、力の抜けた瞳。するはずのない血生臭さまで錯覚してしまうほどのリアルなものだった。

覚悟はしていたつもりだったけど、このリアルさには、慣れそうもない。

小夜子の仕事は造形作家ということになるけど、その中でも特にこういった人体に関する小物や、特撮用のマスクを専門に請け負っている。

その圧倒的なリアルさはどんな接写にも耐えうるほどで、女優の顔を作ればCGかと思われるほどだそうだ。

小夜子はこの仕事を始めてからまだ4年目だけど、すでに映画・特撮業界では有名になっている。

もっとも、そうなるだけの造形に関する素養は、学生時代からすでに備えていた。

小夜子がその才能を世間に対して初めて見せたのは、高校一年の時だった。


私と小夜子は中学から同じ高校に進み、二人で美術部に入った。

その高校では美術部は不人気で、部員は私たち二人だけ。しかも私は美術室で小夜子とおしゃべりしたり、気が向いたときに作品を作る小夜子をスケッチする程度で、実際に制作活動をしているのは小夜子だけ、というありさまだった。

当然、顧問も他の部活と掛け持ちで、美術室に顔を出すことは少なかった。

でも、小夜子はその中で黙々と粘土をいじっていた。

T字型の木の芯に太い針金を巻き付けて、そこにさらに細い針金を絡ませていくと、あっという間に人の顔のシルエットになる。

そこに薄く伸ばした粘土を何層にも張り付けていく。

その様子はまるで骨格から人の顔を再生しようとしているようだった。

「それって、誰の顔?」

ある時、迷いもなく顔を再生していく小夜子に、そう尋ねた。

「・・・誰だろう」

小夜子自身も不思議そうに答えた。

「モデルとかはいないの?」

「いない。ただ綺麗な顔を作りたいだけ」

「じゃあ、あの女優の顔なんていいんじゃない? すっごい綺麗だし」

私は当時、活躍中の女優の名前を挙げた。男女問わず大人気で、この前はその女優が表紙になった雑誌を一緒に見たから、小夜子も知っているはずだ。

「・・・確かに綺麗だけど、そういうんじゃないの。あれは人間の綺麗さ。私はそれを越えたいの」

「ふ~ん・・・」

私にはよく分からなかったけど、確かに小夜子が「普通の綺麗さ」では満足していないことは明らかだった。

小夜子は美術部に入ってからまだ2か月くらいだというのに、顔や手、足などの人体パーツの石膏像をいくつも完成させている。

私はその本物のような質感に驚いたけど、小夜子自身の評価は「ダメ」の一言だったからだ。

一体、小夜子は何を目指しているのだろうか。

「ごめん、サッチ、そっちの粘土も封、開けて」

「はいは~い」

私は油粘土のビニール包装をカッターで開けると、小夜子が使いやすいように、少し揉んでから渡す。

「ありがと」

たったそれだけの事だけど、私は小夜子の助手になったつもりでいた。小夜子を手伝い、小夜子の作品を最初に見ることができることをうれしく思っていた。

そしてその思いが強くなっていくにつれて、『小夜子はもっと評価されるべき』という思いも強くなっていった。


そんな時、私はたまたま行った図書館で、『美術部のインターハイ』という煽り文句の、1枚のポスターが目に留まった。『県 高文連 美術工芸展』の作品募集のポスターだった。

へぇ~、こんなのあるんだ・・・

そう思って呑気に眺めていたけど、最後の欄を見てびっくりする。

『出展申し込み締め切り 7月10日』

あと2週間もないじゃん!

私は翌日すぐに顧問のところに行って、ポスターと出展申込書をもらってきた。顧問はそんな大会のことはすっかり忘れていたらしい。

「小夜子、これ知ってる!? あと2週間もないけど、私も手伝うから、何か出せるんじゃない?」

私はいつものように美術室で粘土をいじっていた小夜子に、県大会のポスターを突き付けた。

小夜子は手を止めて、まじまじとポスターを見るけど、すぐにまた手を動かし始めた。

「興味ない」

「えぇ? どうして? まだ間に合うって!」

「そんな他人に評価されるために作ってるわけじゃないから」

小夜子はそう冷淡に言った。でも作っている本人が出さないというんだから仕方ない。

「そっか・・・ でも小夜子の作品はみんなに見て欲しいな・・・ こんなにうまいのに・・・」

私は小夜子の手元の粘土が少なくなったのを見て、油粘土を差し出す。

その様子を見て、小夜子はため息をついた。

「じゃあ、それとそれ、出しておいて。申込書はサッチが書いてね」

そう言ってすでに完成されていた、目を閉じた女性の顔としなやかな手の石膏像を指差した。

「分かった!」

私は粘土をいじり続ける小夜子の隣で、喜び勇んで申込書を書き始めるけど、思ったより項目が多く、学校や顧問に記入してもらう欄もあった。

とりあえずそこは後で顧問に書いてもらうとして、埋められるところから埋めていく。

学校名、氏名、学年、素材、サイズはそのまま書けるし、制作期間は適当に1か月としておく。

「小夜子、この作品のタイトルは?」

「そんなものないよ。作品じゃなくて習作だもん」

タイトルが『習作』じゃ選考外になるかもしれないじゃない。

タイトルは『夢』

「制作のねらいは?」

「練習」

だからそれじゃ選考外になるかもしれないでしょ?

『静かに眠る女性の頭部としなやかに躍動する手を対比させ、精神の内向的、外向的な働きを表現しました』っと・・・

「あと何か作品とか展示についての要望とかはある?」

「目立たせないでほしい」

出展するのに、それはないでしょ? 分かってて言ってるな?

「渾身の作ですので、ぜひ、評価をお願いします、っと・・・」

「ちょっと、止めてよ」

「うそうそ。こういうのって匿名でも出せるのかな?」

「さぁ・・・」

「一応、書いておくか。『展示の際は、匿名でお願いします』っと・・・ これでいい?」

私は記入した申込書を小夜子に見せる。

「まぁ、いいんじゃない?」

「よっし、後は顧問に忘れないように運ばせないとね」


そうして2週間後。

顧問には、忘れずに出展してきたことは確認済みだ。

あとは小夜子の作品がどう評価されるかだ。もしかしたら県の代表に選ばれて、全国大会へと出展されるかもしれない。

私はそんなことまで考えていたけど、当の小夜子はそんなことは全く眼中にないようだった。

そんな時に、珍しく顧問が美術室にやって来た。

「水原~、いるか~?」

私たちがおしゃべりを止めてドアの方を見ると、顧問の後ろからスーツ姿の偉そうなおじさんが二人、入って来た。

「こちら、高文連の方なんだが、水原に聞きたいことがあるそうだ」

「・・・なんでしょう」

人慣れしていない小夜子はもちろん、隣にいる私まで緊張してしまう。

でもそんな様子を察することもなく、おじさんは小夜子と私をじろじろと品定めのように見回した。

「君が今回出展した『夢』だがね・・・ あれを作ったのは、君かな?」

私たちは、その言葉の意味が分からなかった。特に小夜子は、勝手につけられた作品タイトルを言われても覚えていないに違いなかった。

「あれを作ったのはさよ・・・、水原さんです」

私は小夜子の代わりに答えた。

「そうは言ってもねぇ・・・」

おじさんたちはなぜか納得しかねるような渋い表情をする。

何なんだ、と思っていると、おじさんたちの一人が「おい」ともう一人の肩を叩き、制作途中の小夜子の作品に目を向ける。

「これは・・・」と言ったきり、二人はしばらく黙っていた。

「いや、失礼しました」

ようやく口を開いたと思ったら、今度はやけに低姿勢になっている。

「いや、今回の『夢』ですがね。あまりに出来が良すぎるもので、一部では、誰か外部の人間、それもプロが作ったのではないかという疑念を持つものがいましてね。もちろん、我々はそんなことはないだろうと思ったのですが、念のためにと、確認してくるように言われたもので・・・」

なるほど・・・ 小夜子の作品は、とても高校生の作ったものとは思えなかったというわけだ。この二人にとっても。

「それで・・・ 出展はどうなりますか?」

私は小夜子の代わりに尋ねる。

「もちろん、ぜひ出展させてください。それで、確認ですけど、備考欄に書いてあった要望の通り、展示は匿名ということでよろしいですか? 実名で出されるということになると、高文連の方では、マスコミの対応に責任は持てませんので・・・」

小夜子の作品はプロの作品と見間違うほどで、マスコミが殺到することまで予測できるレベルということだろうか・・・

私は小夜子に『いいよね』と確認してから、「はい、それでお願いします」と答えた。

「ありがとうございます。ではそのように手続きを進めさせていただきます。あ、申し遅れましたが、私はこういう者です」

そういって偉そうなおじさんたちは小夜子に名刺を差し出し、ついでに私にもくれた。

二人は県内の彫刻家と、美術大学の講師だった。

その二人の対応の変化を見て、『小夜子はこんなにすごい!』という思いもあったけど、一番は『大人の世界は嫌だなぁ』というものだった。

その後の経過は、私にとってはあっという間だった。

県大会、全国大会、最優秀賞。

氏名、学校名共に匿名だったこともあり、いつの間にか『現代のミケランジェロ』と呼ばれ、過熱報道されるに至った。

それに対する小夜子の反応は「ふーん」というもので、その巨大な賞状は美術室の片隅で丸まったまま、見返されることはなかった。

「あの、こんなことになって、ごめんね」

元はと言えば、私が小夜子の才能を見せびらかそうとしたのがいけなかったのだ。

ようやく騒ぎが落ち着いたころ、私はそう謝った。

小夜子は「別に実害があったわけじゃないし、いいよ」と笑ってくれた。

全国最優秀賞を取っても、小夜子は相変わらず粘土をいじっていた。

「それに世の中の反応も分かったような気がするし・・・ あ、粘土、もう一袋とって」

「はーい」

そうして周りはともかく、私たちはすぐに日常に戻って行った。


その後、高校では何かに出展することはなく、美大でも何か賞を取ったという話は聞いていない。

小夜子の制作は誰かからの評価を受けるためではなくて、本当に、自分自身の熱意の表れなのだろう。

私は段ボール箱を丁寧に元に戻すと、小夜子の方を振り返った。

小夜子はフェイスシールドを上げて、頭蓋骨を素手で何度も触った後でようやくルーターを置いた。

作業が一段落したようだ。

小夜子はエプロン、アームカバー、フェイスシールドと防塵マスクを外して一か所にまとめると、手袋を近くのごみ箱に放り込んだ。

そうして髪をまとめていたゴムを取ると、癖の付いた髪が、ばらりと顔にかかる。それだけで、しばらくお風呂に入っていないことが分かってしまう。

そして作業台の上にあったタオルで軽く手を拭って、こちらにやって来る。

「お待たせ」

「一段落着いた?」

「うん」

小夜子が作業台の上の道具類を無造作にどかしてくれる。

私がそこの席に着くと、小夜子も向かいに腰を下ろす。

そして小さな布の包みを私の前に差し出してくる。

「離婚成立おめでとう。プレゼント」

「え~? そんな改まって?」

「別に改まってないよ。やっと解放されたんだから、お祝いは必要でしょ。もう男には引っ掛からないでね」

小夜子は冗談めかして言うけど、その言葉は妙に硬かった。

私がその包みを開くと、そこには落ち着いた色合いの指輪があった。

一見すると木製のようにも見えるけど、色艶は明らかに金属だ。

「これは?」

「木目金。私が作ったの」

「へぇ・・・ きれい」

私はその指輪を摘まみ上げる。きらきらとした宝飾品のような派手さはないけど、繊細な木目のような模様が目を引いて離さない。

私はそれを、結婚指輪を外していた左手の薬指にはめてみる。

小夜子の作った指輪はそこにぴたりと収まった。

「あ」

小夜子が小さく漏らし、わずかに目を見開く。

「・・・まぁ、いいけど」

私は小夜子の様子に気付くこともなく、指輪をはめた手を光にかざしたりして眺めていた。

「こっちの方が好きかも。あんなキラキラしたのは、何か落ち着かなかったんだよね」

「そう」

「ねぇこれ、小夜子の分はないの?」

少しの間があって、小夜子は肩をすくめるようにする。

「私は付けない。作業の邪魔になるだけだから」

「そっか」

「それに、サッチを束縛したいわけじゃない」

そう言いながら小夜子は、私の指にはまった指輪から目を離す。

指輪一つでそこまで大仰に構えなくてもいいのに・・・

私は改めて、薬指の指輪を見る。

それはずっとそこにはまっていたかのように、なじんでいた。

そして時計を見ると、まだ夕食には少し早いような時間だった。

でも小夜子が時計に従った規則正しい生活をしているわけがない。

「今日はご飯は食べた?」

「食べたよ。10時頃だったかな」

私が尋ねると、小夜子は壁の掛け時計を見ながら、答えた。

遅い朝ご飯か早い昼ご飯か分からないけど、まぁ、抜いていないならそれでいい。

小夜子は不規則な生活の上に、作業に熱中すれば食事も抜きがちだった。そうでなくても食べるのは、業務用スーパーのよく分からない菓子パンだけとか、大袋入りのプレーンクラッカーだけとかだったりする。

「今から食べられる?」

「うん」

私がいつもお弁当を買ってくるというのは恒例になっているけど、一応確認を取る。

今やっている作業が忙しくて、食事どころじゃないということもあるからだ。

私は、アトリエの隅にぽつんと置かれた電子レンジで買ってきたものを順に温めて、小夜子の前に並べる。今日のメニューはエビピラフ、ジャンボシューマイ、野菜スープだ。

「ありがと。いただきます」

小夜子はコンビニのプラスチックスプーンを手に取ってそのまま食べようとするので、コンビニでもらってきたおしぼりを袋から出してやる。

それに気付いて、小夜子は手を拭いてから、再度、プラスチックスプーンを手に取る。

「いただきます」

そう言って、小夜子は単調な作業をこなすように、小さな口で、もそもそと食べ始める。一見おいしいのかおいしくないのか分からないような食べ方だけど、小夜子はエビが好きというのは知っている。

私はそれを見ながら、買ってきた缶チューハイを開ける。小夜子のもそもそと食べる様子を見ながらのお酒は格別だ。

それに、私には密かな楽しみというか目標があった。小夜子を人並みの体重にすることだ。もっとも、今のままでは到底叶いそうもなかったけど。

「いっぱいだったら残してもいいからね」

私は念のためそう言うけど、小夜子はゆっくりとではあるけど食べ続けている。

ふと見ると、ピラフの皿の端に、半透明の細かい欠片がいくつも寄せ集められていた。

さっきからやけにスプーンの動きが細かいなと思っていたけれど、あれは玉ねぎだ。

小夜子は食べること自体には驚くほど無頓着なくせに、玉ねぎだけはどうしても苦手らしく、そこを選り分ける作業には妙に根気がある。あんな細かいのなら気にしなければいいのに、本人にとっては無視できないらしい。

やがて「ごちそうさま」とスプーンを置いたので、皿やカップをまとめてキッチンの方へ運ぶ。

そのとき、野菜スープのカップの底に、櫛切りにされた玉ねぎが数枚、きれいに残されているのが目に入った。

やっぱり、そうなるか・・・

そう思いながらも、私は何も言わずに流しに向かった。

私は勝手にキッチンの戸棚を開けて、紅茶を淹れる。この紅茶も私が『コーヒーと紅茶と、普通のお茶、どれがいい?』と聞いて買ってきたものだ。小夜子の場合、黙っていたら水かお湯で済ませかねない。

「どうぞ」

「ありがと」

そういって小夜子はマグカップを受け取るけど、猫舌なのですぐには口を付けない。

しばらくして、小夜子がようやくとびちびと紅茶をすすり始めたのを見て、私は二本目の缶チューハイを開けた。

「やっぱりあの男とは1年も持たなかったわ」

「でしょうね」

食事の後、私は本題を切り出した。小夜子の返事は淡々としたものだったけど、それが今は安心する。

私とその男とは合わないことだらけで、むしろ気が合うことの方が少なかったけど、それが決定的になったのは、先月の私の誕生日の出来事だった。

「あの男はね・・・」

私は言葉を選びながら、その夜のことを思い出す。

小夜子は静かにそれを聞いていてくれた。

語りながら、あの時の胸のもやもやが蘇って来る。


その日の仕事終わり、私は一旦家に戻り、フォーマルなスーツに着替えて、その男のスポーツカーの助手席に座った。

前日のうちから、ホテルのレストランへ行くと言われていたのだ。堅苦しいスーツは苦手だったけど、その男の言ったのは高級ホテル。このくらいの格好は必要だろうと思ったのだ。

何も言わずに上から目線で頷く様子に、早くも腹が立ってくる。

そして男はスポーツカーを飛ばして、ホテルのエントランスに横付けする。

さっと駆け寄ってくるドアマンにキーを渡すと、「よろしく」などと声を掛けて、ロビーに入って行く。その間にもフロントや他の従業員に手を上げて挨拶することを欠かさない。余程、人とのつながりをアピールしたいのだろう。

そしてまだ時間があるからと、ラウンジに寄る。案内されたのは、グランドピアノが遠くに聞こえるソファ席だった。

「いつものを二つ」

男がそう言うと、スタッフが軽く会釈をして離れていく。本当にそれだけで通じる仲なのか、あるいはそこまで示し合わせてあったのか、疑わしいものだ。

運ばれてきたのは、琥珀色のカクテル。

「これ、限定メニューなんだ。知っている人間しか頼めないんだよ」

得意気に言う男の手前、口を付けてみる。苦みが強すぎる気がした。

「どう? いい感じだろ?」

「そうね」

男の言う『いい感じ』とは何を指すのか分からないまま、とりあえずそう答える。周りに対する優越感に浸れるという意味では、確かにいい感じなのだろう。

そして時間になり、上層階のレストランに移動する。もちろん、夜景の見える窓際の席だった。

そして腰を落ち着ける間もなく、男は近くに控えていたウェイターに大きめに声を掛ける。

「例のアレ、入ってる?」

「もちろんでございます」

そんな言葉が交わされるけど、あれはウェイターに対して言ったんじゃない。周りの客に対して言ったんだ。『俺はここの常連で、特別扱いされているんだぞ』と。

やがてピシッとしたスーツのソムリエが黒いワインボトルを抱えて登場する。

「お待たせいたしました。こちらがご指定のワインでございます」

男はそのワインラベルを見て、満足そうに頷く。

ソムリエはワインボトルを開け、男のワイングラスに少量注ぐ。

男がグラスを揺らし、口を付けて、もったいぶって頷くと、改めてソムリエが私たちのグラスにワインを注ぐ。

それはまるで儀式のような光景だった。

「このワインは今年、何本出たんだったかな?」

男が唐突にソムリエに尋ねる。

「正確な数字は公表されておりませんが、百本前後と伺っております。当ホテルでも特別なお客様だけにお出しできる一本となっております」

ソムリエは淀みなく答える。そこまで打ち合わせ済みなのだろう。

そしてソムリエが下がってからも、男のワインの話は続いた。

「フランスのごく限られた農園でしか作ってないやつなんだよ。あのソムリエは百本前後なんて言ってたけど、百本まで出てるか疑わしいね。オークションに出されたものは倍の値段でも即完売するような逸品だよ。これが本当の稀少価値と言うものだね。もちろん値は張るけど、金さえ積めば誰でも飲めるようなものとはわけが違う。まぁ、ワインとしての格が違うんだよね。その点、俺はここの支配人とは付き合いも長いからね。このワインが入れば、まず俺に連絡してくれる。人徳とまでは言わないけど、それだけ信頼されてるんだよね」

男は肝心の味とは関係のないことをぺらぺらと並べ立てる。

「おっと、ワインのことはもういいかな。今日は君が主役だからね。では、君の誕生日に、乾杯」

「乾杯」

私は男の芝居がかったセリフと共に、グラスを合わせ、遠慮がちに口を付ける。

「ホント、おいしい・・」

余韻を付けてそう言ったけど、実際のところ、ワインの善し悪しは分からない。飲めるというだけで、好きでも嫌いでもないからだ。味だけならコンビニの缶チューハイの方がおいしいと思えるくらいだ。

やがて豪華なコース料理が次々と運ばれてくる。

前菜からメインまで、どれも確かにおいしいのだけど、私は全く楽しめていなかった。男が浮かれた様子で、希少価値や値段のことを話すたびに、私の気持ちは冷めていった。

男のやっていることは『私の誕生日を祝うこと』ではなく、『妻の誕生日を豪華に祝う、できる男を演じること』だ。

それは別に私でなくても、マネキンでも座らせておけばいい。

そしてデザートの皿が下げられると、店内の照明の雰囲気がすっと変わる。その中で私たちのテーブルがスポットライトのように照らし出される。

そしてピアノ演奏が静かに始まった。曲は「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」。

いかにもこれから何か始まりますよ、と言う雰囲気に、他の客たちもこちらに注目する。

男はその視線を浴びて得意気だったけど、私はさらし者にされているとしか思えなかった。

男はいつの間に準備されていたのか、テーブルの下から大きなバラの花束を取り出して立ち上がる。

周りの客が「おぉ」と息を呑むのが分かった。

「幸枝、誕生日おめでとう」

男は私にではなく、周りの『観客』にそう言った。そのタイミングでピアノ演奏も終わり、周囲のテーブルから控えめな拍手が起こる。

周りからの視線の中、私はそれを「ありがとう」と言って受け取らざるを得なかった。

内心はここから一刻も早く立ち去りたい思いで一杯だった。

そしてレストランを後にして、さらに上の階にあるスイートルームに入ったけど、そこでも男の演出は続いていた。

大きな扉を開けて室内に入ると、すぐに大きな窓からの夜景が飛び込んでくる。そしてその手前のテーブルにはシャンパンクーラーとホテル特性のケーキが並び、その周りにはバラの花びらが散らされていた。

「今日のために用意した特製のシャンパンだ。ラベルを見てごらん」

こんなに目立つように置いてあれば、見たくなくても目に入ってしまう。その金の箔押しのラベルには『Happy Birthday SACHIE』とある。

そしてケーキの真ん中の台の上には白い、小さな箱。

「開けてみてよ」と促されて開けると、そこには欲しいと言ったこともない、金色のイヤリングが光っていた。

「きっと似合うよ」

男は自信たっぷりだ。

「・・・はぁ」

二人きりということもあって、ついに私の口からため息がこぼれた。

「もう、こういうのはいいから」

「こういうのって?」

本当に分かっていないのか、男はそう応えた。

「こういう、何でもお金をかけてお祭り騒ぎにしちゃうこと。さっきのレストランだって、みんなを巻き込んで・・・」

「大勢に祝ってもらえてよかっただろ?」

男は得意気に言う。そんなシチュエーションを作れる俺がいて『よかっただろ?』ということだ。

全然よくはない。

何と言えば話が通じるのか、考えてしまう。

「私はそもそも、大勢の前で祝ってもらいたいとも、目立ちたいとも思っていないの」

「つまり、君はこの誕生日が不満だってことかい?」

ようやく私の言いたいことを理解したのか、男の声が固くなる。

「せめて前もって言っておいてくれれば・・・ 私にも心の準備があるの」

「それじゃサプライズにならないだろ」

「サプライズはいらないって言ってるのよ!」

堂々巡りになりそうな予感に、私は思わず声を荒げてしまった。

今度は男の方が盛大なため息をつく。

「じゃあ、次からは誰もいない所で、できるだけ地味で陰気なものにするよ」

男はそう言い捨てて、一人でシャワーを浴びに行った。

その背中からは、怒りや諦めではなく、なぜかやり切った感が漂っているように思えた。

取り残された私は、もったいないと思いつつ、用意されたケーキを一口食べた。多分おいしいのだろうけど、冷め切った私には何の味も感じられなかった。

あの男に悪意がないのは分かる。ああいう演出に感動できる女もいるだろう。でも私とは完全に方向性が違う。

私があの男の感性に合わせられないように、あの男も自分のスタイルを曲げられないのだろう。

『次からは』なんて言ったけど、もう次の機会がないことなんて、男もとっくに分かっているはずだ。

翌朝、私が落ち着いて離婚を切り出すと、男は反論する風もなく、ただ頷いた。

あの夜、いや、もっと前から男はその答えを知っていたのかもしれない。


その後私たちは引っ越しの準備や離婚調停の内容などを詰めて、今日、調停成立となったわけだ。

結婚期間は1年未満で、子どももなし。二人とも仕事もしているので金銭の授受や、物品の持ち出しもなし。私の引っ越し費用は実費を折半ということにしたのだった。

「やっとせいせいしたわ」

「最初からお似合いとは思えなかったものね」

私の愚痴を黙って聞いていた小夜子は、冷めた紅茶をすすりながら言った。

「女が自分を殺してまで男に合わせることはないのよ」

「ほんと、それ。つくづく思ったわ。マネキンでもいいんじゃないのって」

「そんなきれいなマネキンがあればね」

小夜子は笑いながら応える。

「何かっていうと、すぐに指示してくるしさ・・・」

「サッチのこと、自分の所有物だとでも思ってたのかしらね」

「飼うんだったら犬がいいとか言うしさ・・・」

「猫の方が可愛いよね」

小夜子の打てば響くような相槌が心地いい。

少し顔が熱いのは、チューハイのせいだろう。人前では何を飲んでも酔えないけど、小夜子の前ではこうして思い切り酔うことができる。

「何て言ったっけ、あのバカでかい猫・・・」

「メインクーンのこと?」

「ああ、それそれ・・・」

あれがメイン州のラクーン(アライグマ)からきてるって

「本当かなぁ・・・」

「・・・何が?」

「それから・・・ 何だっけ・・・ とにかく腹の立つことばっかりだったのよ・・・」

「うん。別れてよかったね」

「うん・・・ うん、よかった!」

「サッチ?」

「・・・うん?」

「眠いの? お風呂はどうする?」

小夜子は自分が入らないくせに、私には気を回してくれる。

「小夜子は優しいねぇ・・・」

「はいはい。で、お風呂は?」

「ん~・・・ ん?」

「お風呂」

「・・・明日入る!」

小夜子はなぜか苦笑いしながら私のことを見ている。

「じゃあ、ベッドに行く? 立てる?」

「・・・立てる!」

「いや、立ててないじゃない・・・ 大丈夫?」

「・・・大丈夫!」

「あぁ、もう・・・ こっち」

「はい!」

「? あ、サッチじゃなくて『こっち』」

小夜子は私の手を引いて、アトリエの隅の、パーテーションで囲まれただけのベッドルームに案内してくれる。

そこには元々小夜子のベッドだけがあったんだけど、いつでも泊まれるようにと、私の分も置いてくれたのだった。

「小夜子は優しいねぇ・・・」

私はふらふらとベッドに倒れ込む。

布団の中の柔らかさに沈み込むと、長かった緊張や気負いが一気に抜けていった。

「あぁ、小夜子の匂いがする・・・ この匂い、好きぃ・・・」

目を閉じると、誰に気兼ねすることもなく、心底ほっとできる感覚があった。

こんな毎日が続けばいいのに・・・


翌朝、私が目を覚ますと、隣のベッドには小夜子が寝ていた。

確かそっちの方が、私のために追加してくれたベッドだったと思うけど・・・

昨日は最後に小夜子とペットの話をしたような気もするけど、よく覚えていない。

私は小夜子を起こさないようにそっとベッドから降りると、缶チューハイの空き缶と小夜子のマグカップを片付けて、自分用にインスタントコーヒーを淹れる。

いつもの香りで目が覚めていく。

この辺のキッチン周りは小夜子よりも自分の方が使っているのではないだろうか。

スマホを手に取り、画面を覗くと、日向の知り合いと思われる女からラインが届いていた。

『日向が離婚を前提に婚約を進めているそうよ』

私は軽く眉をひそめて、コーヒーをすする。

日向のことは嫌いだが、そんな話で感情を揺さぶられることもない。むしろ、こんな情報をリークのように送ってくる女の感性を疑う。

『日向の周りには碌な人間がいないんだな』と呆れながら、迷わずその連絡先を消去する。

ちょうどその時、小夜子がアトリエから顔を出した。

「おはよう、サッチ」

「おはよう。コーヒーいる?」

「うん、ありがとう」

二人でゆったりと朝食をとり、カーテンをちらりと開けて、外の天気を確認する。

今日もいい晴れ具合だ。

「今日は、専門書見に行くんだよね」

「うん。付き合ってくれる?」

「もちろん」

それは前から話に出ていたことなので、私は即答する。

唐突に言われたのだとしても、私の返事は変わらないと思うけど。

二人で出かけるときは、私が運転し、小夜子は助手席が定位置だ。今も小夜子はネットで調べておいた専門書のリストを確認している。

やはり実物を見て、中身を確認してから買いたいのだろう。

「ありがとうね、サッチ」

「いいよ。こういうのは気楽にできるから」

書店では小夜子が書棚の間を行き来し、私がキープした分厚い本を抱えてついていく。

小夜子の購入したのは皮膚科の専門書と、解剖学の図版だった。ついでに私もたまの息抜き用にと、料理本を一冊買った。

もちろんお金はそれぞれで払うけど、レシートは私がもらって置く。癖のようなものだ。

帰りの車内、助手席では小夜子が私の買った料理本を、珍し気にぱらぱらとめくっている。

男なんていらない。小夜子と一緒にいるのが一番。

前日までの混乱から解放され、ようやく素直にそう思えた。

アトリエに戻ると、散らばった道具や材料が以前と変わらずそこにある。

小夜子は椅子に腰掛け、購入した本を整理しながら、私に穏やかな視線を向ける。

「やっぱり家が一番落ち着くね」

「うん、本当にそう」

私の心は、ここにある日常の中にしっかりと根を下ろしている。

外の世界の騒ぎや、虚勢を張る誰かの存在など、もう必要ない。

ここで、小夜子とともに過ごす穏やかな日々が、これからの私の基盤となるのだ。

そう実感しながら、私は深く息をついた。

窓の外の光は、アトリエ全体を温かく包み込んでいた。

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