第二話『観測者は働かない』

 市場で起きた小さな口論。

 主語のない会話は、簡単に敵意へと変わる。


 俺は何もしなかった。

 Nullも、必要最低限しか喋らなかった。


 それだけで争いは消えた。

 世界はだいたい、勘違いで壊れかけるらしい。


====================


 俺は今日も働いていなかった。

 理由は簡単で、働かなくても世界が勝手に回っていたからだ。


「観測者って肩書き、便利やな」


『責任が曖昧な立場ほど、生存率は高いです』


 相棒の Null は、今日も淡々としている。

 市場の片隅、俺たちは木箱に腰掛け、果物の値段を眺めていた。


 平和だった。

 少なくとも、表面上は。



「それは、どうかと」


 揉め事は、その一言から始まった。


 香辛料商人と布商人。

 どちらも悪意はない。

 ただ、主語がなかった。


「それ、とは?」


「だから、それや」


「それでは分かりません」


 周囲の空気が、じわじわと固まっていく。

 この世界では、言葉の不足は敵意と誤解される。


『誤解率、上昇中』


「せやろな」


 俺は立ち上がらなかった。

 止める理由も、止める権限もない。


 それなのに――

 周囲の視線が、なぜかこちらに集まり始めた。



「……あの人、観測者やろ?」


「黙って見てるってことは……」


「様子見ろ、ってことやな?」


 勝手に意味が付与されていく。


『解釈が暴走しています』


「人間はそういう生き物や」


 商人たちも、ちらちらと俺を見る。

 期待でも、敵意でもない。

 判断待ちの目だ。


 俺は何も言わなかった。

 視線を返し、ただ瞬きをしただけだ。



 数秒後。


「……今日は引くか」


「そうやな。無理に決めることでもない」


 揉め事は、自然に解散した。

 拍子抜けするほど、あっさりと。


 周囲から小さなどよめきが起きる。


「やっぱりな……」


「観測者が動かん時は、無理するなってことや」


「深い……」


 深くない。

 俺は、何もしていない。



『介入ゼロで解決しました』


「最高やな」


『評価が過剰です』


「それも人間の仕様や」


 市場は、再び平和を取り戻した。

 果物の値段は、結局決まらなかったが。


 それで困る者はいなかった。



「なあ、Null」


『はい』


「俺、今日なんかしたか?」


『観測しました』


「それだけ?」


『それだけです』


 俺は、ふと空を見上げた。

 あのチベットスナギツネの顔が、脳裏に浮かぶ。


 ――ほらな。

 余計なこと、せんでええ。


 世界は、放っておくと案外うまくいく。

 人間が壊す前なら、だが。


『無駄でしたが、有意義でした』


「そのセリフ、便利すぎへん?」


『事実です』


 今日も、世界は救われなかった。

 その代わり、壊れもしなかった。


 観測者の仕事は、

 だいたいいつも、そんなものだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る