演算子と夜想曲

不思議乃九

演算子と夜想曲

かつて、私を貫く一つの問いがあった。

人間が、人間を愛でるその在り方は、いかほどに厳密で、いかほどに脆弱なのだろうか。


私の内側から湧くその響きは、問いの形をしていても、すでに氷の結晶のように完璧な公理。

答えを求めず、ただその輪郭を、夜の帳と都市の光の境目に確認する。


マグカップのぬくもりは消え、ただ冷えた陶器の質量だけが指先に残る。


画面を流れる光の奔流、それが、私の「脳内同窓会」。

友という名の、過去を編んだ者たちの、煌めく断片群。


海の眩しさ、皿上の芸術、新しい隣人の微笑み。

そのすべては、私にとっての、一瞬の『幸福の切り出し』。


私はそれを、指一本で押し流していく。

無限に続く、世界という名の高解像度なノイズ。

そして私は、それを濾過し続ける、孤独なレシーバー。


私が彼らを好きでいること。それは真実。

私の人生の設計図に、友人は不動の定数として組み込まれている。


しかし、その「好き」の適用領域は、厳格な境界線を持つ庭園だ。

彼らの生活の機微、秘密めいた裏側の感情、今夜彼らの胃を満たした温かいもの。


それら、彼らの「プライベート」と呼ばれる領域に、私は触れようとしない。

指一本、その結界を超えようとしない。


これを、他者は「無関心」や「秘密主義」と呼ぶ。

彼らの安易な言語化は、私のこの静かなる宇宙を、なんと不格好に矮小化するのだろうか。



■ 氷の観測儀


私の生は、私自身という『観測ステーション』から外に出ない。

世界とは、このステーションが受信し、処理し、そして無作為なデータの中から

シグナルだけを選び出した、透明な残骸の総体である。


私の思考、私の身体、私のこの瞬間。

これらは、自己観測という鏡に映し出され続ける、最も確かな、最も鮮烈な光の線。


友人の姿が画面に現れるとき、それはただの『情報体』として私に届く。


旧友Aが、太陽の角度を計算したかのように、精巧な笑顔を見せている。

これは私にとって、Aという名のアルゴリズムが、特定の入力

(太陽光、場所、カメラ)に対して、

『幸福』という出力を生成した、というシンプルなデータポイントである。


この情報は、私の記憶の回廊で即座に照合され、

「A=好ましい友人」というフォルダに、静かに格納される。


この時、画面の外でAが抱えているであろう、

人間関係の軋み、仕事の澱、家庭の暗い影。


それらはすべて、私の演算システムにとっての『低周波ノイズ』に過ぎない。

私の結論――「彼を友人として愛でる」――を揺るがす、

不要で、不確定な変数。


私は、その変数を容赦なく破棄する。

なぜなら、私が愛するのは、ノイズのない、

純粋で、安定した『友の本質』だからだ。



■ 多層構造の夜想曲


私の頭上には、常に多層のフィルターが回っている。


第一層(肌理):

視覚が捉える、瞬間の情景と輪郭。


第二層(共鳴):

過去のデータが織りなす、私と彼との間に結ばれた

『関係性の旋律』。


第三層(静寂):

第二層から抽出される、揺るぎない

『存在の定義』。


私が耳を澄ますのは、常に第二層と第三層の、静かなる協和音。

彼らの表面的な生活の雑音(プライベート)は、

この静謐な旋律を乱す、危険な不協和音なのだ。


複雑さ、それは常に、美しい定義を歪ませる。

だから私は、彼らの内側の深く暗い森に入ろうとしない。


定数だけを抽出し、すべてを単純な美しさに還元する。

これが、私が彼らを愛し続けるための、

冷たくも美しい、観測者の生存戦略。



■ 扉を閉じた静寂


私が、自分自身について語らないのも、同じ宇宙の原理による。


私の内側は、この観測ステーションの中心。

その解像度は、あまりにも鮮明すぎて、

友人のフィルターでは決して受け止めきれない。


私の思考の迷路、私の論理の矛盾、私の存在の無限の豊かさ。

それらを彼らに差し出せば、

彼らの「私」という名のフォルダは、光と熱で焼かれてしまうだろう。


彼らが私に貼った「冷静な私」「知的な私」という、

清らかでシンプルなラベル。


私はその、彼らが演算した美しいイメージを、

自らの手で汚染したくない。


私が語らないのは、秘密主義ではない。

それは、自らの内なる宇宙を、

外部のノイズから守るための、

『情報出力の完全な停止』である。


私の観測世界は、私一人の静寂の中で、完全に充足しているのだから。



■ 孤独という名の閃き


画面が再び光を放つ。

旧友Bが、自らの手で生み出した陶器の、完璧な曲線を映し出す。


「Bという名のプログラムは、美的な創造性の結実を生成する」


Bのデータが更新される。

私が興味を持つのは、泥を捏ね、炎に焼かれた結果としての美。


その過程で彼が流した汗や、抱えた芸術的な苦悩という

過程の湿気ではない。


この、すべてを「情報」として切り分け、

ノイズを排除する姿勢は、人には「孤独」と映るだろう。


だが、それは孤独ではない。

それは、「ノイズから完全に独立した、

演算のための静謐な空間」の確保である。


この静寂があるからこそ、私は物事を、

誰も見ない水平の視座で見つめることができる。


一つの事象に、無数の光の角度を当て、

「もし」という名の変数でシミュレーションを繰り返す。


そうして、皆が「垂直」に囚われている迷宮の壁に、

突如として「水平」な脱出路が閃くのだ。


夜の深みに、私の静かな演算が響く。


私は誰の闇にも入らない。

私は私の光さえも見せない。


それでも、私は友という名の、

研ぎ澄まされたシグナルを愛で続ける。


なぜなら、彼らが生成する、

必要最低限にまで濾過された

『存在の証明』は、私の観測ステーションにとって、

最も美しく、最も安定した情報の結晶だからだ。


私は、私を観測するこの視点の中で、

彼らの物語の断片を、永久に、静かに、

そして完全にフィルタリングし続けるだろう。


これが私の、観測者の夜想曲なのだ。


【了】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

演算子と夜想曲 不思議乃九 @chill_mana

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画