第1話 始業
新宿駅から徒歩五分のビルの五階~七階にそれは存在している。
【(株)Multiverse Travel Creation Japan】
多田はそのビルの五階の受付を通り、六階へ上がって執務室へ入っていく。執務室は広く、一フロアだけで200人程が働いている。デスクが島状に繋げられたものが林立し、窓際には棚やホワイトボード、小会議室が並んでいる。多田は『企画課』と大きく書かれたプラスチック板が天井から吊り下げられている島へ行く。企画課の島は既に八割程度の者が出社しているようだった。多田は自席に着いてノートパソコンを起動した。8時45分、個人的には始業前のベストな出社タイミングだ。まず右隣の課長・花鳥風子(かちょうふうこ)に挨拶。
「おはようございます」
「おはようございます」
ハスキーボイスで挨拶が返ってくる。長い茶髪で鋭い眼光、大きな口。サバサバしていて決断が早い。そんな課長だ。多田は次に左隣に挨拶する。
「おはようございます」
「あおはようございます」
言葉の最初に短い『あ』を入れて調子の良い挨拶が返ってくる。高田隆則(たかだたかのり)。眼鏡をかけた細長い顔。ノリが良く何の話でも調子を合わせる男だ。多田は始業前にこの男とお喋りすることで自分の調子を整えるようにしている。
「その眼鏡替えた?」
「いやーいつものですよ、昨日と寸分違わぬ同一のものです」
「いや、替えなよ」
「イメチェン指令007ですか?」
「左右違うデザインのやつとか」
「良いっすねー! 企画課のアイドルタカノリマン爆誕! 色は虹色が良いですか?」
「金色にしなよ、純金が良いんじゃない? 成金みたいで」
「老後の資産にもなるんで無駄が無いっすね。早速買いに行ってくるんでお金下さい!」
「ちゃんと資産になるんだから自分の金で充分でしょ?」
「いやー今月チキン食い過ぎてもう貯金無いんですよ。店の前にある像まで食べちゃおうかと思ったくらいで。なので100万ほど貸して下さい」
「100万……ボリバルで良い?」
「欲を言えばルピアが良いです」
「オーケー、じゃあこうしよう。新宿駅南口の所を西側に少し歩いた所に小さな屋台みたいな店がある。そこの受付にお金を増やしたいんですって頼むんだ。前金が必要だ、それなりの額を前金として渡す必要があるけど、うまくすれば……大金が手に入る」
「よく分からないですけど……それって宝くじ売り場ですか?」
「それは別名だ。神社みたいなものだよ、みんなが願い事をするから」
多田は自分の調子が整ってきたのを感じ、会話を切り上げた。会話の最中もノートパソコンでメールチェックをしていた。会議の案内メールはどうせアラーム機能が働いて開始前に気付けるので無視。自分がCC指定になっているメールも無視。メールが一日に20通も30通も飛び交っているので真面目に見ていられない。自分がTO指定になっているもののみ目を通す。営業部第二営業課から今日の異世界視察のスケジュール表、これは直ぐに手帳を開いて内容を写す。統計課から先月の各ツアーのデータを所定のフォルダに格納したと連絡メール、これは時間が空いたら見るのでパス。後輩から行政関連の段取りを教えて欲しいとメール、これも後回し。営業部第一営業課から旅行代理店の担当と会って欲しいと依頼メール、これは手帳を開いて候補日を二つ挙げ、この日かこの日でいかがですかと即座に返信。開発部から異世界向け翻訳アプリの開発状況お知らせメール、これは見てもよく分からないのでパス。課長から企画コンペの案内メール、これはまだ日数があるので後回し。それから……
大体のメールチェックを終えて多田が企画書ファイルを開こうとすると、会議のアラームが小さなウィンドウで表示された。9時30分から企画課の日次進捗会が始まるが、このアラームはその15分前に報せてくれる。いったんアラームウィンドウを脇にどかして企画書を開く。この企画書は作りかけでまだまだ完成には程遠い。
『魔法の王国新名所、一年に一回の奇跡』
一行目に売り文句的な言葉が書いてある。これは王道ファンタジーな異世界・アメイズのツアー。アメイズは最初に発見された異世界で、既に世界間の交流も長い。しかしまだまだ観光地として開拓すべき場所は無数にあり、現地に派遣している営業課員から毎年のように新名所としてここはどうかと提案が挙がってくる。今回多田が目を付けたのは次の提案地だ。空にも大地にも湖があり、一年に一回だけ上下の湖が繋がるという情報を現地村人から得たという。これはいける、と瞬間的に思った。織姫と彦星みたいでこれでツアーを組めば確実に集客ができるだろう。まだ手元には簡単なイメージイラストがあるだけなので、今日はこれを現地に行ってこの目で見てみるつもりだ。この目で見て、これは感動できるとか、何かが心を揺さぶるとかがあるかどうか……それが企画が成功するかどうかの鍵だ。イラストや写真だけでは顧客の生の感動を体験できないため企画者は必ず現地へ行け、と新入社員研修で叩き込まれた。
9時27分。企画課の島から次々と人が離れ、それらの人々が近くの小会議室へ向かっていく。多田もその流れに乗っていく。小会議室の中はドーナツ型の机が中央に鎮座しており、まずそこに設置された椅子の分だけ着席していく。課長を始めとして年次の高い者が主にここに座る。多田も既に31歳を迎えており、この中に入っている。ドーナツ型の机から溢れた者は部屋の壁沿いにある椅子に座っていく。
課長の花鳥は鋭い眼光でメンバーを見渡し、打ち合わせを開始した。
「開始時間より前ですがメンバー揃っているみたいなので日次進捗を始めます。まず全体周知事項。隅灘(すみなだ)商事と弦毛(げんもう)グループの出資で新規旅行代理店・日本異世界プラットフォーム社が誕生します。この新会社から既に弊社商品を取り扱いたい旨オファーを頂いております。内々で専売商品を用意できないか打診も受けておりますので、今度の企画コンペでこの専売用商品を決めたいと思います。選出されればボーナス上乗せしますので皆さん頑張って下さい」
おおっと会議室内が沸き立つ。ボーナス上乗せは魅力的だ。
専売とは『特定の一社でのみ販売するツアー』を指す。他の旅行代理店に行ってもそのツアーを販売していないため、そのツアーに行きたい顧客は必然的に特定の旅行代理店に集まることになる。その代わり専売の契約をした旅行代理店は通常よりかなり少ない委託手数料で販売業務を引き受ける事になる。旅行会社は旅行代理店へ手数料を支払って販売を委託しているため、その手数料が少なくなれば旅行会社の収入が多くなる仕組みだ。
MTCJ社は企画コンペを毎年開催しており、こうしたボーナス上乗せで社員のモチベーションアップを図っている。
「去年最優秀って何でしたっけ?」
茶髪で中央分けの男性・田所成彰(たどころなりあき)が全体に問いかける。それに対して多田が記憶を思い起こして答えた。
「確か異世界珍味食べ比べツアー」
「やっぱ食い物は強いっすよね、僕今回ボーナス頂きますよ」
眼鏡の高田が話に加わってくる。それに対し田所が反応した。
「せっかく異世界行くんだから体験型が良いだろ、やっぱり。今回は良いネタが幾つかあるからボーナスは俺が頂く予定」
「私も良いネタ持ってま~す」
青髪で小さな目、大きな耳の女性・詩月香鈴(しづきかりん)も主張する。その他の面々もコンペの優勝を虎視眈々と狙っているようだ。各々良いネタを隠し持ち、コンペの発表の場で満を持して企画を開示するのである。いかに他者を出し抜くか、いかに直前まで秘密にしておくか……そんな駆け引きがもう始まっているのだった。
お喋りがひと段落したところで花鳥が続きを話す。
「あともう一点。当社は三ヶ月後にグロース市場に上場することが決まりました」
今度は会議室が微妙な空気になる。ピンと来ている者はいない。
「グロースって何?」
青髪の詩月が隣に座る田所に話し掛ける。
「愚弄する?」
田所は真面目な顔つきで応じる。彼は精悍な顔つきだがドジである。次に田所の隣に座る多田が話に参加する。
「アミノ酸の一種じゃないの?」
今度は多田の隣に座る眼鏡の高田が加わる。
「人工甘味料じゃないですか?」
高田の隣に座る短い髪で丸い小顔の男性・長近康隆(ながちかやすたか)も参戦してくる。
「いやあれですよ、ジャイグロ」
「ジャイグロ? 何ですそれ?」
詩月が怪訝な顔つきで尋ねる。
「ジャイグロったらアレですよ。低コストで殴りマンをパンプアップするのによく使われるまさに小型速攻バンザイな感じの」
嬉々として説明する長近に詩月がドン引きしているところで花鳥が止めに入った。
「ハイハイ分かった分かった分かりました。持株会をやっていない人はスルーして良いです。持株会やっている人は後日詳しい話があるのでそこで聞いて下さい。それから長近さんは今長近さんが言ってた呪文みたいな内容でコーヒーショップに行って注文してきて下さい」
「ええーそんなの絶対通じないですよ!」
「最後にペペロンチーノを付ければいけるんじゃないの?」
困った感じの長近に田所がそう言うと、部屋の中に失笑が起きた。花鳥が話を強引に進めに掛かる。
「田所さんの格調高い誤謬については触れないでおきます。全体事項は以上。では個別進捗、いつもの順番でお願いします」
誤謬と言われてようやく田所は自分の言ったことがどうやら間違っていそうであると気付いたが、「ペペロンチーノじゃなくてチーニだったか……?」などとぶつぶつ的外れな独り言を零し始めた。そんな彼を置いてけぼりにして、花鳥の隣に座るまばらな白髪で彫が深い男性・野森修也(のもりしゅうや)が報告を始めた。
「野森です。現在手持ちの案件はアメイズ高齢者パック3件とエングラス富裕層パック1件、いずれもオンスケで進捗に遅れはございません」
「はい、ありがとうございます。次の方どうぞ」
サバサバとした感じで花鳥が次の報告者へ促す。多田は手帳を弄りながら報告を始める。
「多田です。今持っている案件はアメイズカップル向け1件とゴーサム家族向け1件、それから異世界仮称014開拓1件です。アメイズとゴーサムは進捗に問題無しですが仮称014は今月の現地合意が黄信号です。合意事項12の内達成がまだ2となっており、残10項目を残り二週間で達成するのは五分五分の勝算と見ています。今週頑張ってみて厳しそうであれば個別に相談させていただきます。以上です」
この『以上です』と言ったタイミングで手帳を閉じるのが多田にとってのこだわりポイントだ。これによって分かってる感が三割増しになる。そう、自分比だが三割増しだ。会議での発言・見栄えは評価に繋がるので重要だ。そして評価が役職を呼び寄せ、役職が給料を呼び寄せる。どうせなら給料は高い方が良い。そう、金稼ぎに来てるんだからお金欲しいでしょ?
「014は開拓なので難易度は承知しています。無理そうとなってもここは各国争奪戦になっているのでもう少し予算取れるかどうかですね、部長には耳に入れておきます。はい次の方どうぞ」
課長の反応は上々を示すものだった。多田が黄信号と報告した部分も適切に報告できていると彼女に判断されたようでお叱りは無い。
次の報告者は田所だった。彼はまだチーノかチーニかで眉間に皺を寄せて迷っているようなので多田は肘でつっついてお前の番だぞと教えてあげた。田所はハッとして自分の番が回ってきたことに気付き、真面目な表情に変わった。
「田所です。今手持ちの案件はエングラスキッズ向け2件とタルジェノン開拓1件です。エングラスキッズ1件とタルジェノン開拓は順調ですが、エングラスの巨大亀の方が昨日一報入れた通り頓挫してしまいました。亀が寝てしまって現地民によると10年は起きないだろうと」
「『触れ合える神獣』が目玉なのに致命的ですね。何かで折り合い付けられないか今週末メドで探ってみて下さい。それでボツにするかどうか決めます」
「承知しました」
「はい次の方どうぞ」
こうしてハイペースで進捗報告が進んでいく。花鳥課長は各自にハスキーボイスで一言二言伝えてはい次の人、という進め方だ。しかし全員が淀み無く進むわけではない。うまくいかないパターンもある。報告者もだいぶ順番が進んで最後の方になってきた時だ。かなり太めで目力がある女性・田中美莉(たなかみり)の報告が始まった。
「田中です。私が受け持っている案件はノムレス定期案件の2件とアメイズ定期案件の1件ですが、ノムレスの方がいつもの担当と違うらしくてそのー……色々手違いがあってあまりよくない状況です」
「田中さん、それだと進捗度合いが分かりません」
場に緊張が奔る。
「あのー……私もあまり慣れていないのもあるんですけど現地の担当が今年変わったとかで色々と」
「田中さん、色々とかじゃなくて数字で報告して下さい。まず今週の達成目標に対して何%程度の進捗なのですか?」
しんと静まる会議室。冬の朝のような、僅かな音でもクリアに聴こえる空気感。
「……えー今週はー……まず現地の大臣に申請をしてー……いや役所、や役所が、に、しょ書類が、そのー……作らないといけなくて。書類の書式が最近、変わったと聞いていて、その……緑色のが……」
明らかにまともに報告できていない感じが、部屋中に不安を広げていく。
課長は0.5秒だけ目を瞑った後にどうするか判断したようだった。
「ここでタスクの整理を始めないで下さい。進捗会には整理が終わって報告できる形にしてから臨んで下さい。時間もあるので、田所さん、田中さんから状況を吸い上げて午後にでも教えて下さい」
打ち切りである。
課長の判断は早い。まともな報告ができない者にこの場で根掘り葉掘り聞いてもしょうがない、という判断だ。
「承知しました。14時……15時くらいには伺います」
田所はそう言って自身の手帳に書き込んだ。田中はちょっと苦い顔をしたがあまりこたえていないようだった。多田はそんな田中の様子を見ていて大したものだなと思う。自分だったらこんなにバッサリ切られたらその夜はどうなってしまうだろう……? 多分こうなる……チューハイをがぶ飲みするだろう、記憶が無くなるまで。
最後の者まで報告が終わると花鳥が会の締めに入った。
「はい、では本日も一日よろしくお願いします。散会とします」
皆が口々によろしくお願いしますと言って小会議室を出ていく。企画課は毎朝こうして始動する。
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