出会い
アスファルトをたたく昨夜の雨は新しい日を映す鏡となりキラキラと音をたてている。まるで「素敵な一日になるよ」と言っているように今日が動き出す。
交差点を右折し歩行者が渡りきるのを待つ。今の季節の色をした犬を小脇に抱えたおじさんが通り過ぎていく。自分の足を濡らさない芝犬は、豆柴なのか、幼いだけなのか。まっすぐ前を向いたその目はぬいぐるみのように何の感情も浮かんではいなかった。ただ耳だけが水溜りのキラキラを捉えるように動いていた。
社会人になって3年目。蝉も暑さで鳴けない夏、辞表を出した。そして木々が緑から黄色へ衣替えをした今、会社に荷物を取りに向かっている。
信号のリズムに支配されていた二車線道路から住宅地の脇道に入る。下町の狭い道路。重なり合っていたエンジン音は次第に遠のいていく。
車が一台しか通れない陸橋に差し掛かると、前から「自分が先に入る」とでも言わんばかりにスピードを上げた車がやってきた。慌ててブレーキを踏むと、トートバッグが倒れ、マグボトルが車内で転がった。
心臓のドキドキと頭の中のイライラが同時に押し寄せる。
「危ないよ。」と、少し怒った口調で心の中でつぶやく。
そういえば、何かに怒るという感情は、いつぶりだろうか。
私の心は、ノートに「悲しい」と何度も何度も書き連ねて、白かったページがまるで真っ黒に塗りつぶされたかのようになってしまった。
仕事は楽しかった。人間関係も良好で笑いも絶えなかった。周囲の信頼も少しずつ得られ、任せてもらえることも増えていた。
プライベートでも、週末は蒼汰の車を運転させてもらって色々なところへ出かけた。
好きだった運転も久しぶりだ。ブレーキを踏むたびに助手席の足元でマグボトルがカランコロンと音を奏でている。
動いている。心も少しずつ動いている。
朝の光をカーテンの隙間から浴び起きられた今日。何かを期待してもいいのだろうか…。
扉を開けると、近くにいた人が「花村さん…」と言った合図で、一斉にこちらに視線が集まる。息を呑む。それ以外の音はすっと消えた。
「お、おはようございます。」
数ヶ月ぶりに誰かに届けようと、声帯を震わせた声は、自分と同じように弱く震えていた。
そのまま真っ直ぐ歩き、課長のデスクへ向かう。
「花村さん、おはよう。体調はどう?」
3ヶ月前に聞いた優しく温かな声で、課長は変わらず微笑んでくれる。
「ご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません。遅くなってしまいましたが、これまでお世話になりました。」
そう言って、この会社の一員だった証であるICカードを置いた。
「花村さんが今日、ここに来られたということは、回復してきていると思うことにするよ。君の仕事ぶりには大変助けられてきた。ありがとう。どうか、君がいてくれたことに感謝している人がいるということを、忘れないでいてね。」
「……。」
涙が溢れた。枯れたと思っていた涙が、温かな涙として流れた。(そうか、嬉しいことでも涙って出るんだったな。)
「ありがとうございました」と一礼して振り返ると、
「灯(あかり)」と同期のさゆりに呼びかけられた。
「灯、とりあえず荷物を段ボールに入れたんだけど、適当に入れちゃってるから確認してもらえるかな。」
以前使っていた机の上の段ボールを指差す。蓋を開けると、整頓された文房具や膝掛け、さゆりと一緒に何ヶ所も回りながら集めたカプセルトイの、ゆるっとした表情の動物たちが綺麗に収められている。
「さゆ、ありがとう。」
「灯…。」
「さゆ、ありがとう。」
「灯…。」
さゆりは何か言いたそうに口を開いたが、また閉じた。
きっとさゆりのことだ。うつ病について色々勉強してくれたのだろう。ポンポンと思ったことを言うさゆりが、私にかける言葉を考えて話そうとしてくれているのだと思う。
「さゆ、ありがとう。」
もう一度、言葉にしてみた。
さゆりは目にいっぱい涙を溜め、それをこぼさないように口元に力を入れている。
私は段ボールを抱えて「ありがとうございました」と頭を下げ、オフィスを後にした。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう。
仕事も恋も順調だったはずだ。何もなかった。心を病むようなことなんて、本当になかったはずだ。
それなのに、半年くらい前から「悲しい」と思うようになった。その声がどんどん増えていくのと同時に、大学から付き合っていた蒼汰のことも疑い出してしまった。
蒼汰は優しく真っ直ぐな人で、いつも「好きだ」と言葉にしてくれていた。不安になることもケンカになることもなかった。それなのに…。
「灯、俺は灯が好きだよ。でも、今の灯といると信じてもらえなくて苦しい。ごめん、少し距離を置きたい。」
と言われてしまった。いや、言わせてしまったのだ。あんなに穏やかに笑う蒼汰に、辛そうな顔をさせてしまった。
思い出の詰まった段ボールを抱え、ビル群を抜ける。
下町の住宅地との境にあるコインパーキングへ向かう途中で、人が行き交う中、ふと声が耳に入ってきた。
足を止める。おばさん二人の会話が、まるでイヤフォンから流れてくるかのように明瞭に聞こえる。
「えっ、よくなったの?」
「そうなのよ。本当にビックリ。」
「だって、どこの病院に行っても良くならないって言ってたわよね?」
「1ヶ月くらい、締め付けられるような頭痛で何もできなかったけど、まさかその原因が金魚鉢なんて思わないわよね。」
「でも、当たってるんでしょう?」
「その病院の先生に、『その症状が出始めた頃に、家のどこかに水を溜めたものを置きませんでしたか?』って言われて。確かに娘が会社の宿泊研修があるから金魚を預かって欲しいって言ってうちに持ってきたのよ。それを話したら、『その金魚鉢の位置を少しずらせば頭痛も治ると思いますよ。』って言われて。」
「で、移動したら治ったってこと?」
「そうなのよ、もう、すぐに痛みが消えて。」
「なんてところ?なんか宗教か何か?よく行ったね、ちょっと怪しそうなところに。」
「それが病院なのよ。看板に『原因不明の身体の不調、診断します』って書いてあって。何となく入ってみたのよね。なんて名前だったかなぁ。ほら、大きな道路を渡った先のビルが建っている一角にあるマンションなんだけど。」
そのおばさんはバッグの中からカードを取り出した。
「あぁ、小洒落た感じだから覚えられないわ。メンタルクリニックのア…リ…ッシュ・ラボ、かな。」
「なんだか今風な感じねぇ」
声が通り過ぎる。
「アンリッシュラボ…」
ザワッとした。行かなければ。そんな気がしたのだ。
車の中に段ボールを置くと、磁石でもついているんじゃないかと思うくらい、長い横断歩道の向こう側へと引き寄せられていった。
(メンタルクリニック… アンリッシュ・ラボ…)
一つ一つ看板を確かめながら進んでいく。
「あっ、あった。」
少し青みがかった緑色の看板に白字で『メンタルクリニック UNLEASH・LAB』とある。その文字の下には、原因不明の身体の不調を診断します、と書かれていた。
矢印に従い、マンションとマンションの間を進むと、2階の一室へ続く専用の、白く柔らかな曲線の階段が見えた。『UNLEASH・LABはこちらの2F』と案内が出ている。
見上げた先にあるエメラルドグリーンのドアを、マンションの間の冷たい風を温かく変えてくれているような白い陽の光が「ここだよ」と教えてくれている。そんな気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます