演算の夜と、コーンポタージュの熱

不思議乃九

演算の夜と、コーンポタージュの熱

冬の夜の底。

空気は薄い硝子のようで、触れるものすべてを切り裂く冷たさだ。


私は今、駅前のロータリーにいる。

もう日付が変わって久しい。

終電の喧騒はとうに過去のものとなり、駅舎の照明だけが、虚ろな黄色い光を投げかけている。


ここは郊外。

都市の脈拍からは遠く隔たった、ただの通過点に過ぎない場所だ。


アスファルトの地肌がむき出しになったロータリーは、まるで巨大な墓標のように静まり返っている。

私以外に、動くものは何もない。



原付、私の唯一の移動手段であり、相棒である白いスクーターは、冷えた空気の中で静かに息を潜めている。

シートは固く、エンジンは完全に冷え切って、そこから暖かさを分かち合うことはもう期待できない。

私はまず、その白い機体の傍らに立ち尽くす。


夜の底。

それは、私という存在が、最も外側に押し出され、剥き出しになる時間帯だ。



自販機の前へ。

このロータリーの端で、かろうじて生きているかのように光るそれは、私にとって冬の夜のオアシスだ。

そのガラス窓に映る私の影は、妙に歪んで見えた。

首から上はヘルメットの脱着で乱れた髪、身体は使い古された作業服のような地味なジャンパーにくるまれている。

生活の痕跡だけが貼りついた、薄っぺらな肖像だ。



目的は一つ。

コーンポタージュだ。


ポケットから冷たい硬貨を取り出し、投入口へ滑らせる。

ジャラリ、という音が、この夜の沈黙を乱す唯一の音だった。


目的のボタンを押す。

コーンポタージュ。


それは、冬の夜の必需品であると同時に、私にとって一種の慰撫を意味する。

温かい液体が身体の内側から浸透し、一日の演算で酷使された神経を麻痺させる、ささやかな儀式だ。



「カタン」


缶が落ちる。

私は取り出し口に手を入れ、その熱を待ち焦がれる。


そして、取り出した瞬間。


熱い。


その熱さが、外気に晒され続けた手の甲を瞬時に刺激し、反射的に指先に力を込めてしまう。



この自販機には、稀に「当たり」がある。

冷えた手でボタンを押し、カタンと音がして、取り出し口に二本の缶が並んでいる時。

それはまるで、この無機質な世界から、私へのささやかな贈り物のように思える。


だが、今夜ばかりは違った。


乱数は私を捕獲してはくれない。



今日一日、私の頭の中で回り続けた演算も、この自販機のランダムな優しさには干渉できなかった。


仕事。

小説。

事務作業。


すべてが数字と文字と、それに伴う思考の連鎖で成り立っている。


しかし、確率という名の、感情も意図も持たない巨大な流れの前では、私の意志も、熱心な願いも、無力なままだ。



私は敢えて、両手の作業用手袋を外した。

手のひらは、昼間の作業のせいか、わずかにインクと紙の匂いが染み付いている。


そして、その剥き出しの皮膚で、熱い缶を、強く握りしめた。


熱すぎる。


しかし、手袋越しでは伝わらない、このダイレクトな熱こそが、今の私には必要だった。

缶は小さく、頼りない。

だが、その内部に閉じ込められた熱エネルギーは、私の冷え切った身体と、心臓の最も冷たい場所まで、なんとかして届こうと奮闘しているようだった。



まだ、開けない。


プルトップに指をかけることなく、私はただ、その熱を手のひらに押し付けている。

まるで、今日一日の出来事すべてを、この缶の熱に転写しているかのように。



【一日の演算と、冬の風】


朝、目覚めた瞬間に仕事は始まっていた。

正確には、仕事に取りかかるための演算が、既に脳内で起動していたのだ。

起きて、そのまま。

着替える時間すら惜しいかのように、私は机に向かった。


今日一日、私の時間は二つの役割に分けられていた。

一つは、生活を支えるための事務作業。

もう一つは、私という存在の核をなす、小説の執筆。


事務作業は、ひたすら数字と文字を整理し、論理的な整合性を取っていく作業だ。

それは、ある意味で自販機の確率と同じ、予測可能で、規則に従った退屈な運動である。

一方で、小説は、私自身の内面から無限に湧き出る、不確実で、形のない感情や情景を、無理やり言葉という入れ物に押し込める作業だ。


一日中、私はその二つの演算の間を行き来していた。

左脳が事務作業の論理を組み上げている間に、右脳は小説の登場人物のセリフを囁く。

キーボードを叩く指は同じなのに、そこから生まれる文字の並びは、天と地ほどにかけ離れていた。


終業。

それは、事務作業という名の「昼」の終了であり、小説という名の「夜」の始まりを意味する。

しかし、今日はその「夜」の作業も一段落し、私は今、この駅前ロータリーにいる。


缶は、両手で握りしめられている。

その温かさが、手のひらから徐々に全身へと浸透していく。

血液が熱を帯び、凍りついていた思考の回路が、再び滑らかに回り始める。


(小説の登場人物の、あのセリフは、本当に彼の感情を表現しきれていたのか)

(事務作業で誤ってしまった、あの数字の入力ミスは、明日修正できるだろうか)

(今朝見た夢の、あの不気味な色彩は何を意味していたのか)


思考は、螺旋階段を上るように、一日を何度も巻き戻し、そして展望する。

私の人生は、この二つの役割、事務と創作という二重の生活様式によって成り立っている。

外から見れば地味で、単調な生活かもしれない。

しかし、その内部では、常に言葉と数字、感情と論理が激しくぶつかり合っているのだ。


この熱い缶は、その激しい演算のすべてを受け止める、静かな受け皿のようだった。



【甘味の溶解と、帰路の再起動】


そろそろ限界だ。

缶の熱は、手の冷たさを克服し、皮膚の感覚が戻りすぎて、むしろ熱すぎて痛みを感じるほどになってきた。


私はようやく、プルトップに人差し指を引っ掛けた。



「シュッ」


密閉された空間から、一瞬の圧力の解放音が響く。

それは、この夜の静寂をもう一度、かろうじて破る音だった。


私はその缶を、顔の前に持ってくる。

湯気は立たない。

外気が冷たすぎるせいで、熱はすぐに凝結して見えなくなってしまう。

しかし、缶の口から漂う、コーンとミルクの甘い香りが、鼻腔をくすぐる。


私はそれを、一気に喉の奥へと流し込んだ。


熱い。

その熱は、食道を通って胃へと落ちていくのが、はっきりと分かる。

身体の内側から、じわじわと温められていく。

しかし、それ以上に強烈なのは、口いっぱいに広がったコーンポタージュの、甘味と濃度だった。


舌に残ったコーンの粒を、私は一気に噛み締める。


「ザリッ、ザリッ」


缶詰独特の、わずかに硬い、しかし栄養の塊のようなコーンの粒。

甘味は、体内に取り込まれた熱に溶け込み、私の演算をさらに加速させる。


ああ、これでいい。


甘味は、単なる味覚ではない。

それは、疲弊した脳に対する、最も分かりやすい報酬だ。

この熱さと甘さが、今日一日のすべての努力を肯定し、明日への再起動のエネルギーとなる。


演算はさらに進む。

小説の次の展開、事務作業の効率化、そして、来週の食費の計算。

頭の中は、今、コーンポタージュの熱量によって、最高の効率で回り始めている。


その時だった。


「ひゅうっ」


一本の冬の風が、ロータリーの隅から、私の頬を通り過ぎていった。


鋭く、そして冷たい。

コーンポタージュの甘味と熱が作り上げた、幸福な演算の空間は、一瞬にしてその冷たさによって遮られた。

それはまるで、「現実」という名の、絶対的な力によって、夢想が打ち砕かれたかのような感覚だった。


そうだ。

私は、いつまでもこのロータリーの隅にいるわけにはいかない。

熱い缶は空になり、残されたのは、わずかなコーンの澱と、手のひらに残った熱の感触だけだ。


私は空になった缶を、自販機の横にあるリサイクルボックスに投げ込んだ。


「ガラン」



そして、私はスクーターに跨った。

シートはやはり冷たい。

冷えた手で、キーを差し込み、捻る。


「キュルルルル……ブォン」


エンジンが、重い唸りを上げて目覚めた。

一瞬、排気ガスの熱が私の足元を通り過ぎる。


私はヘルメットのシールドを下ろした。

視界は、僅かにスクーターの振動で揺れている。

目の前には、暗く冷たい帰路が、一本の線のように伸びているだけだ。


アクセルを回す。

体感温度は、さらに数度下がったように感じる。

しかし、胃の底に収まったコーンポタージュの温かさが、かろうじて私を支えていた。


行く。

私の一日は、この帰路の果てで、ようやく本当の終息を迎えるのだ。


ロータリーを抜け、街灯のまばらな、郊外の道を走り出す。

夜の底を、白いスクーターと、私という演算装置だけが、静かに進んでいく。


その静寂の中で、私は再び、今日噛み締めたコーンの粒の感触を、反芻していた。

熱と甘味、そして、冬の風。

それらすべてが、私という存在を形作る、かけがえのない要素なのだと、深く認識しながら。


そして、脳裏には、明日書くべき小説の、最初のフレーズが、もう既に、起動し始めていた。


【了】

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