巡礼の白:グラタンコロッケの普通

不思議乃九

巡礼の白:グラタンコロッケの普通


冬が来ると、私は必ず二つのことを思い出す。

一つは、去年の雪の日の、濡れたアスファルトの匂い。

そしてもう一つは、マクドナルドのグラコロだった。


前者は曖昧な郷愁の残滓で、

後者は具体性を伴った、避けがたい現実の引力だ。


私にとって、マクドナルドの限定メニューは、

単なる食欲を満たすための対象ではない。

それは、一年という時間軸に楔を打ち込む、

一種の季節の指標であり、過去の自己との対話の儀式なのだ。


春が来れば、人々は桜の開花を寿ぐように、

私はてりたまの登場を待つ。


てりたまは巡礼である。

甘辛いテリヤキソースの光沢、

完璧な半熟に仕上げられた目玉焼きの円熟、

そしてそれらを抱擁するフワリとしたバンズの温もり。


その一口は、

今年もまた無事にこの季節を迎えられたことへの、

己の存在肯定に他ならない。


てりたまは、絶対的な調和と完成度を誇る、

私の個人的な黄金律だ。

それは疑念を許さない。

我々はただ、その前に膝を屈し、

感謝と共に食すのみである。


だが、冬の使者、グラコロは様相が全く異なる。

てりたまが太陽の光を浴びた巡礼の道ならば、

グラコロは霧の中に佇む、

毎年確認しなければならない謎めいた石碑のようなものだ。




その日、冬の乾いた風が窓を叩く午後、

私はいつものようにスマートフォンを手に取った。


画面に映し出される、アプリのクーポン一覧。

赤や黄色のポップな色彩の中に、

あの白く丸い、どこか間の抜けたシルエットが鎮座している。

グラコロ。


指が吸い寄せられるように、その画像をタップした。

脳裏では、過去十数年分のグラコロの記憶が、

モノクロのフィルムのように高速で巻き戻される。


初めてグラコロを食した二十代の頃。

期待と好奇心に満ちていた。


グラタンを揚げて、それをパンに挟むという、

カロリーの暴力に似た発想に、

どこか破滅的な美を見出そうとした。


だが、結果は「普通」だった。


三十代。

大人になった私は、

自分の味覚が変わったのではないか、

あるいはマクドナルドのレシピが改善されたのではないか、

という理性の言い訳を盾に再び挑んだ。


結果はやはり「普通」だった。


グラタンのクリーミーさは、

揚げ衣のサクサク感によって打ち消され、

バンズはただの受け皿に終始する。


テリヤキハンバーグと目玉焼きが織りなす

相乗効果の歓喜に比べ、

グラコロはただの加算でしかない。


コロッケのグラタンとバンズのパン。

それぞれが主張する場もなく、

中途半端な温度で、

口の中で静かに解体されていく。


四〇代になった今、私は知っている。

今年もまた、この結論に到達するだろうことを。


> 「グラコロは確認。そして普通。毎年そういう判断に落ち着く。」


これはもはや、グルメ体験ではない。

自己の認知の歪みを矯正するための、年次点検なのだ。




なぜ、私はこの「普通」であることを知っているものに、

毎年毎年、時間と金銭を投じてしまうのだろうか。


まず、私はグラタンコロッケという存在に、

根本的な愛着がない。


あの、小麦粉と牛乳とバターがもたらす、

曖昧で懐かしい風味。

それは確かに寒い日には悪くない。


しかし、それをあえて衣で包み、

熱油にくぐらせるという行為は、

私にとっては、美の対極にある

過剰な装飾のように感じられる。


その過剰さが、

かえって本質的な旨さを覆い隠している。


そして、それをあの簡素なバンズに挟んだところで、

特に旨さが相乗りされるわけではない。


バンズは、コロッケの熱と水分を吸収し、

そのフワフワとしたテクスチャを

瞬く間に失う。


コロッケのホワイトソースは、

口の中で熱すぎず、

かといって冷たすぎもしない、

中途半端な温度で広がる。


それは、誰かを深く愛することもなく、

かといって憎むこともない、

私の人生の無風地帯に酷似している。


私の内側で、声が荒くなる。

それは、あまりにも定型的な結果に対する、

苛立ちと自嘲が混ざり合った、

汚い響きを持った声だ。


「組み合わせ的にテリヤキハンバーグと

目玉焼きの比ではないだろう馬鹿たれ」


テリヤキと目玉焼きは、

互いの存在を必要とし、高め合う。


ソースの甘さが黄身の濃厚さを引き立て、

ハンバーグの肉々しさが

パンの柔らかさによって際立つ。


それは、ロマンチックな愛の成就だ。


しかし、グラコロは違う。

彼らは、同じ空間に閉じ込められた、

見知らぬ同居人のようなものだ。




私は、この口の悪さ、

この辛辣な判断を下す自分自身を、

誰かに聞かれることがないよう、

無人の部屋でそっと噛み殺す。


そして、その口を塞ぐ唯一の方法が、

今年もまたグラコロを頼むという行為なのだ。


これは、矛盾ではない。

むしろ、この行為こそが、

私の自己に対する、

そして人生に対する、

最も純文学的な諦念の表現なのではないか。


人間は、知っている結末へと向かう旅路を、

なぜ止められないのだろう?


禁煙に失敗する愛煙家のように。

破局を知りながら、

別れを切り出せない恋人のように。


あるいは、成功も失敗もない、

ただ平坦な明日が来ることを知りながら、

眠りにつく夜のように。


私は、この「普通」の味を確かめることで、

自分の人生が、

やはり大きなドラマもなければ、

劇的な転換点もない

「普通」の連続であることを、

逆説的に肯定しているのかもしれない。


グラコロは、私の平凡さの、

忠実な写し鏡なのだ。


もし、今年のグラコロが、

驚くほど美味しくなっていたとしたら?


もし、あのグラタンコロッケが、

宇宙的な調和を伴ってバンズと結びつき、

私の味覚の概念を揺さぶったとしたら?


そんな、ありもしない僥倖への、

微かな期待。


いや、むしろ、

自分の下した「普通」という評価が、

もし間違っていたとしたら、

という恐怖。


テリヤキと対比することで明確になる、

グラコロの持つ不完全性こそが、

私を惹きつけるのかもしれない。


完璧なものには、入り込む余地がない。

不完全なものには、

毎年修正の余地がある、

という幻想が潜む。




私はアプリの画面に戻る。

指先が、「グラコロ(単品)」の横にある

「クーポン利用」のボタンを押した。


一〇円や二〇円の値引きが、

私のこの壮大な確認作業の、

経済的な言い訳として機能する。

卑しい。


カウンターで受け取った、

熱気を帯びた白い包み。

その重みは、毎年変わらない。


店内の隅の席。

周囲には、家族連れや、

友人同士の賑やかな声が満ちている。


彼らにとって、

グラコロは純粋な季節の楽しみだろう。


しかし、私にとっては、

これは私的な哲学の実験だ。


包み紙を開く。

目に飛び込むのは、

白く柔らかなバンズの肌と、

その中に挟まれた、

薄茶色のコロッケの側面。


一口、かじりつく。


サクッ、という衣の薄い抵抗。

そして、トローリとした

グラタンの熱が舌に広がる。


……ああ。


私は静かに目を閉じる。

そして、心の中で呟く。


「普通だ。

今年も、普通に、

私の知っているグラコロだ」


甘くもなく、辛くもなく、

感動的でもなく、

かといって不快でもない。


すべてが、予想の範囲内に収束する。

今年も私の世界は、

静かに、

安定した平凡の上に成り立っている。


私は、この「普通」という結論に、

どこか安堵し、

そして深く落胆する。


落胆は、私の人生に、

もはや劇的な変化は訪れないだろうという、

冷たい確信から来る。


安堵は、自分の味覚と判断力が、

まだ健在であることへの、

皮肉な感謝だ。


私は、この熱すぎもせず、

冷めすぎもしない、

冬の使者を咀嚼しながら、

来年の春の巡礼を、

早くも待ち始めるのだった。


てりたまという、

完璧な調和を再体験し、

このグラコロの中途半端な普通さを、

清算するために。


次の冬、

私はまた、

この石碑の前に立つだろう。


クーポンを手に、

同じ台詞を心の中で反芻しながら。


【了】

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