第2話 カップル殺したら1億円
あの組手から数週間後、道場に奇妙な知らせが舞い込んだ。テレビのニュースでも大きく報じられ、我々もその異様な内容に耳を疑った。
「…水戸将軍は、本日、全国民に向けて衝撃的な声明を発表しました。少子化対策の一環として、恋愛関係にあるカップルを『解消』…すなわち**『多く殺したものに、国家から賞金一億円を授与する』**と…」
馬鹿げている。カップルを殺せば一億? まるで狂ったゲームだ。しかし、水戸将軍の権力は絶対であり、この命令は瞬く間に全国に広まった。街は異様な熱に包まれ、人々は恐怖と欲望の間で揺れ動いていた。
道場では誰もが困惑していた。
「師範、こんなこと…本当にやるんですか?」
「将軍の命は絶対だ。だが…」師範は苦渋の表情で言葉を濁した。「武道は人を守るためにある。殺めるためではない…」
しかし、その混乱の中で、この異常な状況を好機と捉える者も現れた。
「宗像先輩…」
私は道場の隅で、サンドバッグを叩き続ける宗像先輩の背中を見ていた。以前の組手で私の腰を蹴り抜いた、あの強靭な体躯。先輩の目は、まるで飢えた獣のようにギラついていた。
「この力があれば…一億など容易い」
先輩の言葉は、以前の冷静な武道家のそれとは全く異なっていた。その声には、武の探求ではなく、純粋な力を求める、そして金銭への欲望が宿っていた。
そして、もう一人、この狂乱の時代に名を馳せた者がいた。
小田信長。
彼はかつて、某組織のトップを務めていた男で、将軍の命令が下されるやいなや、私設部隊を組織し、瞬く間にカップル狩りを開始した。その残虐性と効率性で、信長はあっという間に賞金ランキングのトップに躍り出た。彼は将軍の命令を「天下統一の号令」とまで豪語し、その勢いは誰も止められないかに見えた。
やがて、宗像先輩も行動を開始した。彼の鍛え上げられた空手の技術は、街で無防備なカップルを襲うにはあまりにも強力だった。先輩は信長の牙城を崩すべく、次々と獲物を狩り、ランキングを駆け上がっていく。その過程で、先輩の目はますます冷酷になっていった。
「佐藤、お前も来い」
ある日、先輩は私を誘った。その誘いは、もはや稽古の誘いではなかった。
「私は…できません」
私は震える声で断った。人を殺すことなど、武道の道とはあまりにもかけ離れている。
「お前は弱いな」
先輩は吐き捨てるように言った。その視線は、以前の組手で私に向けられたそれとは異なり、何の感情も含まれていなかった。
そして、ついにその日が来た。
ランキング一位の信長と二位の宗像先輩が、街の廃工場で激突するという情報が流れたのだ。水戸将軍は「より多くのカップルを殺したもの同士の決闘」と称し、その模様を全国に中継させた。
(止めなければ。)
私は道着を身に着け、廃工場へと走った。あの蹴りで、私の腰はより強く、よりしなやかになった。だが、先輩の心の腰は、今、大きく歪んでいる。
工場に着くと、そこはすでに凄惨な戦場と化していた。信長の部下たちが倒れ、信長自身も満身創痍で宗像先輩の前に立っていた。宗像先輩の空手は、もはや武道ではなかった。それはただの殺戮の道具と化していた。
「宗像先輩!」
私が叫んだ時、先輩は信長に最後の蹴りを放とうとしていた。
先輩の動きが止まった。その目に、一瞬だけ昔の面影が宿ったように見えた。しかし、すぐにそれは殺意の光に変わる。
「邪魔をするな、佐藤」
先輩は、標的を信長から私に変えた。その蹴りは、以前、私の腰を打ち抜いたものと同じ、完璧な中段回し蹴りだった。
ゴッ!
今度もまた、私の腰に激痛が走る。だが、私は以前の私ではなかった。
(この日のために、私は…!)
私はその蹴りを受け流すように体をひねり、同時に先輩の軸足に体重を乗せた。衝撃を吸収しきれず、先輩の体勢がわずかに崩れる。
「宗像先輩、これは空手じゃない!」
私は叫びながら、先輩の死角から一歩踏み込んだ。狙いは、先輩の**「心」の軸**だ。
放ったのは、まさしくあの日の、私が踏み込みすぎた中段突き。しかし今回は、その突きを**「止める」**ことに意識を集中した。寸止め。殺めるのではなく、止める。
私の突きが、先輩のみぞおち寸前でピタリと止まった。
その瞬間、宗像先輩の全身から力が抜け落ちた。
「な…ぜ…」
先輩の膝が地面についた。その目に、かつての輝きと、そして失ったものが混じり合った、複雑な感情が宿っていた。
(先輩の武道は、人を殺めるためじゃない。)
私は静かに構えを解いた。宗像先輩の体幹は、武道の力によって強靭だった。しかし、その心が欲望に囚われた時、その体幹もまた、容易く揺らぐことを知った。
水戸将軍の命令は、まだ続いている。だが、私の心の中では、あの日の道場が、そして宗像先輩の真の空手が、鮮やかに蘇っていた。私は武道を、人を守るために使う。その決意を、腰の痛みが強く深く刻み込んでいた。
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