SCENE#169 熒惑守心
魚住 陸
熒惑守心
序章:天の異変と孤独な観測者
紀元前211年、天下を統一した秦。都・咸陽の宮廷は、不老不死を追い求める始皇帝の狂気と、それに付き従う廷臣たちの緊張で満ちていた。星見(せいけん)は、25歳の若さで欽天監(天文台)に勤める天文官だ。彼は、星の運行を冷徹な数学と観測によって解釈する、数少ない合理主義者だった。宮廷内の権力争いとは一線を画し、彼の忠誠はただ一つ、「天の真実」に捧げられていた。
その夜、極度の集中力のもと、星見は望遠鏡を覗いた。彼の視界に入ったのは、赤い血の色を思わせる不吉な熒惑星(火星)が、天帝や君主を象徴する心宿(アンタレス)の領域に静かに侵入し、順行から逆行へ、ほとんど静止したかのように「留まる」瞬間だった。この現象こそ、古来より帝の崩御や戦乱を招くとされる最大の凶兆、「熒惑守心」である。
星見の手は、観測記録を刻む筆の先に汗で張り付いていた。彼はこの現象を冷静に分析しなければならなかったが、幼い頃から聞かされた「天罰」の伝承が、彼の科学者の理性を打ち破ろうとした。師である老齢の天文台長は、すでに観測席から姿を消していた。残されたのは、真実を知ってしまった星見一人の孤独な恐怖だけだった。
「これを公にすれば、秦の安定は崩れてしまう。しかし、隠すことは天への裏切りだ…」――彼の心臓は、まるで熒惑星に睨まれている心宿のように、激しく動揺した。
第1章:凶兆の伝播と忠誠の試練
星見が観測結果を始皇帝に奏上したとき、皇帝は既に重い病に侵されており、その顔色は土気色だった。始皇帝の傍らで、宦官の趙高(ちょうこう)は、まるでこの時を待っていたかのように、にこやかに立っていた。
報告を聞いた廷臣たちは、その場で凍り付いた。強硬派の趙高は、すぐさま「陛下の不老不死への追求が試されている!」と叫び、皇帝の焦燥を煽り立てた。一方、秩序を重んじる左丞相の李斯(りし)は、冷静に星見に近づき、低い声で圧力をかけた。
「星見よ、天の警告は政治の道具ではない。お前は民の動揺を防ぐために、この現象を『吉兆』として再解釈せよ。それが臣下の忠誠だ!」
この二人の対立の中で、星見の理性は引き裂かれた。科学的な真実を述べることは、国家を混乱させる反逆と見なされる。国家の安定を守るために真実を曲げることは、科学者としての魂の裏切りとなる。そんな中、天文台の古参官が、星見に一つの疑惑を投げかけた。
「お前の記録した熒惑の座標には、極めてわずかだが計算上のズレがある。厳密には、熒惑は心宿の『辺縁』を通過するはずだった。お前の観測は、恐怖心による誤認ではないのか?」
星見は混乱した。もし彼の最初の観測が誤りであれば、全ての騒動は彼の人間的な脆さから始まったことになる。この「誤認」を訂正すれば、趙高の謀略の種を摘むことができる。しかし、自分は本当に誤認したのだろうか? この疑念が、彼の胸に重くのしかかった。
第2章:赤い石の出現と謀略の輪郭
「熒惑守心」の報告から間もなく、東郡から届いた報告は、宮廷の不安を決定的なものにした。赤い色の石が天から落ち、その表面には「始皇帝は死し、土地が分かれる…」という文字が刻まれていたという。皇帝は激怒し、関連する全ての者を処刑した。この出来事は、天の警告が具体的な形になったという恐怖を人々に植え付けた。
星見は、この赤い石(隕石)の報告を聞き、論理的な違和感を覚えた。石に刻まれた文字の筆致が、宮廷で使われる特定の文書係のそれに酷似していたのだ。天然の隕石に、これほど鮮明な人の手が加わっているのは異常だ。彼は密かに調査員を送り、石の破片を回収させた。
分析の結果、石に刻まれた文字は、宮廷内で調合される特定の墨で書かれた後、熱処理を施された痕跡が確認された。これは、天の警告に見せかけた、宮廷内の誰かによる周到な偽装工作である。
星見は、天文学的な脅威よりも、人間的な謀略の方が遥かに危険であると悟った。趙高が、自分の観測した「熒惑守心」という天の権威を土台として、この赤い石という物理的な脅威を組み合わせ、始皇帝の「心」を狙っていることが、彼の脳内で明確な輪郭を結び始めた。星見は、自分が観測した真実が、国を揺るがす謀略の起点となってしまったという重い責任を感じていた。
第3章:権力の二重奏:忠誠と打算
星見は、趙高と李斯という二人の権力者の間で、激しい精神的綱引きに遭っていた。趙高は、星見の持つ知識が欲しかった。彼は星見に近づき、「天は陛下の後継者選びを急いでいる。私と共に、正当な後継者を天の意思として擁立する手伝いをしろ!」と囁く。趙高の目には、星見が持つ「真実」への執着に対する軽蔑と、その知識を支配したいという欲望が混ざっていた。星見は、趙高に従うことが、秦の終焉を早めることになると確信し、彼の甘言に冷たい怒りを覚えた。
一方、李斯は、国を守るためには「小さな嘘」も必要だと説いた。彼は星見に言った。
「お前の科学は正しいかもしれないが、民衆の心は感情で動く。真実を隠すことが、時として究極の忠誠となるのだ!」
李斯は悪人ではない。彼の言葉は国家への忠誠心に満ちている。だからこそ、星見は苦しんだ。彼の忠誠は始皇帝個人か、それとも始皇帝が打ち立てた法と秩序か?
星見は、自らの天文記録の「誤認」が、この二人の謀略の火種となってしまったことを痛感し、自責の念に駆られた。彼は、天の真実を純粋な記録として残すことの困難さと、人間的な思惑を排除することの不可能さを、痛感していた。彼はもはや、単なる科学者ではなく、政治的な駒として、生き残りを図らねばならなかった。
第4章:心宿の謎:師の遺言と使命の継承
自らの観測が本当に誤りだったのか、その一点を突き止めることが、星見の精神的な生命線だった。彼は天文台の書庫に閉じこもり、師が遺した古い天文記録の隅々までを検証した。そして埃を被った記録の奥から、師の筆跡で書かれた一通の極秘の注釈を発見した。
注釈には、心宿(アンタレス)の領域における過去の「熒惑守心」の記録と、師自身の観測に関する解釈が記されていた。
「心宿は、単に天帝を象徴するのではない。それは、『真実を観測し、歴史を記録する者たちの魂』を映す鏡である。熒惑が心を『守る』とき、それは天帝の危機ではなく、真実の記録が権力によって汚されるか否かの危機を示す…」
師の言葉は、星見の脳裏に稲妻のように響いた。師は、天文学を政治利用する権力の危険性を知っていたのだ。師の遺言は、星見に新たな使命を与えた。天の星の真実(科学)を追うのではなく、「真実の記録を守り抜く」という、師の魂を継ぐ者としての使命だ。
星見は、趙高の謀略を暴くことが、師の言う「記録を守る」ことに繋がると確信した。彼は、自らの観測が誤認であれ真実であれ、それを隠蔽せずに未来へ残すことが、自分自身の使命なのだと理解した。科学者としての純粋性を一旦脇に置き、彼は政治の闇へと足を踏み入れる決意をした。
第5章:胡亥の甘言と魂の賭け
趙高は、星見の知識を利用するため、彼を始皇帝の末子である胡亥に引き合わせた。胡亥は贅沢三昧で知られる人物だったが、星見に対しては驚くほど優しく、誠実なふりをした。胡亥は、星見の中に見え隠れする不安を巧みに利用しようとする。
「父上はもう長くない。お前が天の警告を私に有利なように解釈すれば、私はお前を新しい天文台長に任命しよう。秦の未来、そしてお前の安寧は、お前の『心』一つにかかっている…」
星見は、胡亥が帝位に就けば、趙高の傀儡となり、秦の法治国家としての理想が完全に崩壊すると確信していた。しかし、この甘言を断れば、彼の命は無い。彼は、この試練がまさに天の警告「熒惑守心」が指し示す「未来の選択」であり、彼自身の魂の賭けであると理解した。
彼は、胡亥の誘いに乗るふりをし、趙高の謀略の核心に深く入り込むことを選んだ。彼の目的はただ一つ。趙高の完全な支配を確立する前に、「熒惑守心」の真の解釈を、権力の手に渡らない形で残すことだ。彼は、自分の命を、未来の歴史に対する「忠誠の代償」として捧げる覚悟を決めた。彼の瞳の奥には、恐怖ではなく、師から継いだ使命感が燃え上がっていた。
第6章:巡行の旅路と真実の曖昧さ
その後始皇帝は、天の警告を鎮めるため、そして不老不死の仙薬を求めて、大規模な巡行に出発した。胡亥と趙高がこれに同行し、星見も監視の名目で連れ出された。長い旅路の中、夜ごと、星見は密かに観測を続けた。
彼は、自らの観測が本当に「誤認」だったのかどうか、数カ月にわたる厳密な再計算と観測で答えを出した。その結果、彼の最初の観測は正しかったという結論に達した。熒惑は確かに、わずかな期間だが心宿の中心領域に留まっていた。しかし、同時に、師の記録に記されていた「辺縁を通過する」という記録も、別の日に観測すれば正確であることがわかった。
星見は悟る。「熒惑守心」という現象は、単なる固定された配置ではない。それは、観測する「日時」や「場所」によって、心宿の中心にも辺縁にも現れる、曖昧な連続現象だったのだ。そして、趙高は、この曖昧さを突き、皇帝の恐怖心を利用し、自らの謀略に都合の良い「観測の断片」だけを真実として信じ込ませたのだ。
星見は、真実の記録を書き記したが、この記録が公になれば、巡行中の始皇帝の命が狙われることは確実だった。彼は、「科学的真実」と「君主への忠誠」という、二つの絶対的な価値観の究極の選択を迫られた。彼は、真実を公開することなく、皇帝の命を守ることを選んだ。
最終章(第7章):星の終焉と心に残る記録
巡行の途中、始皇帝は病状が急激に悪化し、危篤状態となった。趙高は偽の詔を作成する準備を始めた。星見に残された時間はわずかだった。星見は、追手に囲まれる寸前、皇帝の側近に宛てた最後の書簡を書き上げた。彼は、「熒惑守心」の科学的真実は一切記さなかった。代わりに、彼はその現象がもたらした人間的な脅威だけを記した。
「熒惑守心とは、龍の心臓を狙う毒(趙高)の存在を天が示すもの。しかし、火星の赤い光は、ただ凶兆を示すだけでなく、毒を焼き尽くす『炎の意志』を王権に与える。陛下は、その炎の意志を継ぐ者を誤ってはならない…」
彼は、この書簡を信頼できる宦官に託し、趙高の文書に紛れ込ませるよう細工を施した。そして、自らは追手に捕まる寸前、自身の天文記録と観測儀を自ら破壊し、「科学的な真実の記録」を地上から消し去った。彼の選択は、知識よりも意志を選んだことだった。彼は、真実を記録として残すのではなく、謀略の物語として、それを読む者たちの「心」の中に残すことを選んだ。
始皇帝は書簡を読むことなく崩御し、趙高は偽の詔で胡亥を二世皇帝に据えることに成功した。星見の努力は、秦の運命を変えることはできなかった。しかし、彼が密かに残した書簡は、後に宮廷の文書の中から発見されることになった。
歴史を編纂する者たちは、星見の最後の書簡を読み、彼の命を懸けた行動を思った。「熒惑守心」とは、天変地異の記録ではなく、一人の若き官僚が、科学者の純粋な魂を捨ててまで記録した「政治的な警告」であったことを…
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