007 やっと心からホッとした

「じゃ、おんぶしたげっから。ほれ」


 と、向けられた背中に、エリーは遠慮よりも驚きが勝ってしまった。


 正面からだと正装の神官といった風体のヘーゼルだったが、背面は仙骨まで晒すか晒さないかくらいまで大胆に露出されていたのだ。もはやお馴染みのトラ縞模様もしっかりとある。


「それ、寒くない? 背中」


「あーね、へっちゃら。この辺、外と比べりゃ湧き水のおかげで暖けえし。それにこの方が何かと便利だしな。あのコートだって別に自分にゃ邪魔なくらいで、人に着せるつもりで温めておいただけだし。ほら、早く」


「い、いいよ、悪いよ。暖かいんなら、私も歩くから……」


「つってもよお、外と比べりゃマシってだけで、寒さ冷たさは変わんねえんだぞ。おまけにここら一帯、どこもかしこも水浸しなんだぜ。自分みてえに鍛えてねえと結構体力持ってかれっぞ」


 いやあ、でも。エリーがうじうじ悩んでいると、ヘーゼルの背中がズズイと迫り、


「自分、体力にも自信あんだよね」


 と、自ら五つ目の好印象ポイントを女にアピールしてきた。


「それに身体、結構あったかいって、村のガキどもにも評判良いんだな、これが」


 エリーの遠慮が揺らぐ。もたもたしている間も、ヘーゼルの地肌から薄く湯気が昇っているのがわかる。見るからに温かそうで、六つ目の誘惑には抗えなかった。


 ヘーゼルの首に腕を絡めて、ヘーゼルはその背中に密着する。


 滑らか、柔らか、さらりとした汗でしっとりと貼りつく肌の下に、逞しさも宿している。その上評判と豪語するだけあって、溜め息が出る温もりだ。


 それに、大型犬じみているとは感じたが、彼女の香りまで大勢のイヌと暮らしている人のもののようだった。


 身を寄せ合うイヌの群の真ん中にエリーがいるイメージが、ダメ押しで温もりを彩るよう。


 エリーを背負って、ヘーゼルは軽々と立ち上がる。ホッとする背中の広さと体温、それに、おぶさって伝わる、自分とは違う他人の揺らぎ。


 うつらうつら、目蓋が重くなる。


「何だが眠たくなってきた」あくびが漏れた。


「早えーよ。赤ちゃんかよ。寝たらガチで死ぬぞ」


 ぴしゃりと叱られた後、退屈しのぎに、ヘーゼルがここに来た経緯を話してくれた。アルデンスとエレクトラと名乗る二人。姉のスペイを助けてくれた礼に、義兄がこっそり崖へ通したこと。


「え、じゃあヘーゼル、おばさんになるってこと? へえー」


「いーや! 絶対ぇ姉ちゃんって呼ばすからな! 何だよ、にやにやすんなよ!」


「いやあ、つい、素のヘーゼルなんだな、って思うと」


「ンなこた今は良いんだよ!」


 話を戻す。


 それから、連絡を受けて、大慌てで様子を見に来たこと。


 何か思い出せそうか。そう問うヘーゼルに、エリーは申し訳なく、首を横に振る。


「そっか。その、自分が言うことじゃねえ気がすっけど、慌てるこたねえよ。何なら、思い出せるまで面倒見るからさ。姉ちゃん夫婦も……今はバタバタしてっけど、歓迎してくれっと思うし」


 身体でエリーを背負っているだけではない。ヘーゼルは心の荷物も分かち合ってくれようとしてくれる。背中にもう少しだけ、体重を預ける。無意識に、さり気なく頬擦りもして。


「ありがとう。その気持ちが嬉しい」


 廃教会を出て、二人は霧と浅瀬に沈んだ廃墟街を行く。立ち枯れた樹木。澄んだ水面ギリギリまで繁茂する水草の蔓を、ヘーゼルは滑るような足取りで、足の甲で切りながら進んでいった。


「ねえ、ヘーゼル」エリーが聞く。「ここって、本当にどういう場所なの?」


「護律協会の禁域」


 ごりつきょーかいのきんいき。さっぱりわからない。


「うーん、大雑把にしか説明できねえんだけど――」


 むかし、ここは豊かな森と平原の広がる伯爵領だった。それなりに栄えていた領地だったらしいが、何代目かに跡を継いだ領主は“教授”とあだ名される変人で、露術アンスロ吸血鬼ヴァンパイアの研究に没頭していたという。


「吸血鬼……」


 エリーは更に強くヘーゼルを抱き締める。にわかに血が騒ぐようだった。


 多くの記憶が欠落している中で、吸血鬼が実在することは知っていた。だからこそ、今、自分たちがいる場所の様相が静かに豹変したように錯覚する。


 朽ちた街並みに目を向ければ、かつての生活の残滓が見え隠れする。


 朽ちた壁の向こう側はダイニングだろうか、テーブルに器や枯草の一輪挿しが残されている。


 路地裏に打ち捨てられた棒木馬は、きっとこの街の男の子たちの良い遊び相手だったのだろう。


 在りし日の光景を想像すると、その想像図の裏に怪物の影が潜んでいる気がして、エリーは臆病風に吹かれてしまった。


「あ、すまねえ。ビビらせちまったか?」ヘーゼルはからりと笑いのけた。「大丈夫だって。もし奴らが潜んでたって、こんだけ水浸しだったら迂闊に襲って来れやしねえよ」


「そう、なの?」吸血鬼と水。さっぱり結びつかない。


「おう。護律協会だって露術アンスロの使い手ばっかだろ?」


「あんすろ……?」


「見せてやれりゃあ一発なんだけどなあ。自分、できねえから」切なさが垣間見えた。「でもま、自分にゃこの腕っぷしがあっからな! 万が一襲われたって、自分がガツンとぶちのめすから安心しなよ!」


 気休めでもそう断言するヘーゼルが、エリーには心強い。


 心強いのだが【呆れた大言壮語だ。憐れ過ぎて、いっそ滑稽だな。ぶち殺してやろうか】。ふふっ、ふふふ……。肩を揺らして涙が出るほど、エリーの腹の底から笑いがこみ上げる。中々笑いが止まらない。


「そんなにおかしいこと言ったっけ」と困惑するヘーゼル。


「ううん」エリーは首を横に振る。「おかしくない。おかしくないと思うんだけど……うふふっ」


「あー! さては、勝てるかどうか疑ってんだろ!」


「違うの。ふふ、何て言うか【やっと心からホッとした】気がして。あはは……何、何だこれ、ふふっふ」


 エリーの笑いがうなじをくすぐって、しかめっ面のヘーゼルもまた見守る者の笑みに変わった。

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