タクシー稼業は楽じゃない

丸子稔

第1話 金の卵?

 令和七年も残り僅かとなった十二月下旬の朝、俺は裏面に『山村武則やまむらたけのり』と書かれた乗務員証を、ダッシュボードの上に設置してある器具に差し込み、車を走らせた。今、俺はタクシーを運転している。今日はタクシー運転手としての、記念すべき第一日目だ。しかし、俺は決して好きでこの仕事を選んだわけではなかった。


 短気な性格と根気の無さから、これまで幾度となく転職を繰り返してきた俺は、三十五歳という中途半端な年齢もあり、正社員として採用されるところを見つけるのは容易ではなかった。

 さらに、ギャンブルによる借金を抱えていたため、悠長に仕事を選んでいる余裕もなく、やむを得ずこの仕事に就いたというのが実情だ。


 俺はこの先どうなってしまうんだろうと、不安いっぱいで街中を流していると、スーツを着た三十代前半くらいの男性が手を挙げているのが目に入った。

 普段街中でよく見るこの光景も、立場が違うと、まったく別物に見える。

 俺はとりあえず落ち着こうと、まず深呼吸をした。その後、研修で習った通り、バックミラーで安全を確認し、ハザードランプを押して、車を男性の横に付けた。

 そして、座席の右横に設置してあるレバーを引きながらドアを開け、男性が席に座ったのを確認して声を掛けた。


「お、おはようございます! お客様、私今日が初めての乗務なんです。しかもお客様は、記念すべき一人目なんです! ……あっ、こんなこと言われても、困りますよね。とにかく、そういうわけですので、色々と至らないところもあると思いますが、よろしくお願いします」


 自分でもわかるくらい声が上ずっていた。ある程度予想はしていたが、実際に客を乗せると、一気に緊張が高まった。

 挨拶も早々に、俺は男性に行き先を訊き、頭の中で目的地までの道順を組み立てながら運転していると、男性が話し掛けてきた。


「運転手さん、前はどんな仕事をされてたんですか?」


「そうですね。まずは事務職から始まって、その後はとび職、自動車工場の作業員、居酒屋の店員、ビルの清掃員、あと他にもいろいろやりましたね」


 反応がなかったので、ルームミラーで確認してみると、男性はスマホに夢中で、俺の話などまったく聞いていなかった。自分から話を振っておいてそれはないだろうと思ったが、無論口には出さなかった。


 やがて目的地に着き料金を受け取ると、男性は「まあ頑張ってください」と言って車を降りた。俺は『まあ』という言葉に少し違和感を覚えたが、とりあえずタクシー運転手としての初仕事を無事終えたことに安堵していた。


 その後、五組の客を乗せ、その最後の客を降ろした際に時計を見ると、針は十一時半を指していた。昼休憩には少し早いかなと思ったが、小腹が減っていたこともあり、俺はコンビニで弁当を買って会社に戻った。

 車庫に車を置き、休憩室に入ると、十人程の乗務員が四方に散らばって昼食をとっていた。ある者は手作り弁当、ある者はパンと牛乳、ある者はカップ麺とバラエティに富んだ食事風景の中で、俺は空いてる席に座り、スマホ片手に唐揚げ弁当を掻き込んだ。

 弁当を食べ終えた後、そのままスマホをいじっていると、頭の薄い初老のおじさんが話し掛けてきた。


「兄ちゃん、あまり見ん顔じゃのう。新入りか?」


「はい。今日が初乗務の山村武則という者です」


「そうか。わしの名前は岡本三郎おかもとさぶろうじゃ。それより、兄ちゃんまだ若いのう。いくつなんじゃ?」


「三十五です」


 俺は自己紹介したにも拘わらず、岡本さんが兄ちゃん呼ばわりしたことに抵抗を感じたが、それは敢えて言わないでおいた。


「ふーん。ちなみに、わしは二十五の時からタクシーに乗っとる。今年でちょうど三十年なんじゃ。がははっ!」


 岡本さんはなぜか笑い出した。


「前はどんな仕事をしとったんじゃ?」


「いろいろです。事務員とか、とび職とか、ビルの清掃員とかです」


「なるほどな。で、なんでタクシー運転手になろうと思ったんじゃ?」


「好きでなったんじゃないんです。まあ事情があると言うか……」


「言いたくなかったら、言わんでええよ。まあこの業界に入る奴は、多かれ少なかれ何か事情を抱えとるもんじゃからのう。がははっ!」


 岡本さんがまた笑った。この人と飲みに行ったら楽しそうだ。


「そうなんですね。ところで、今のタクシー業界って、どんな感じなんですか?」


「そうじゃのう。入ったばかりの兄ちゃんに、こんなこと言うのもなんじゃけど、相当厳しいと言わざるを得んのう」


「何が厳しいんですか? 具体的に言ってみてください」


「まず、昔と比べて客の数が減っとる。これはわしらにはどうしようもないことじゃ。次に慢性の乗務員不足のせいで、営業車が空いとる状況が増えて、中には倒産した会社もある。特に、兄ちゃんみたいな若者の乗務員不足は深刻なんじゃ。だから兄ちゃんは、この業界にとって金の卵的存在なんじゃよ」


「なるほど。じゃあ俺は、重宝されているわけですね」


「まあ、そういうことじゃ。だから、どんな嫌なことがあっても、じっと我慢して、長く勤めるよう努力せえよ」


「わかりました。あと、この際だから、他にもいろいろ訊いていいですか?」


「兄ちゃん、グイグイ来るのう。まあ、すぐに辞められたら、会社も困るじゃろうから、わしで良ければなんでも答えてやるよ」


「ありがとうございます。じゃあ次は──」


 その後、俺は畳み掛けるように質問攻めしたが、岡本さんはなんら嫌な顔せず、俺の繰り出す数々の問いかけに時折笑いを交えながら、すべて答えてくれた。 


 


 



 


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