Remember
東
第1話 いじめ
1
窓の外で蝉が鳴いている。ミーンミーンと、一生懸命鳴いている彼らは、一体何を訴えているのだろうか。
僕は、小学校入学のお祝いに買ってもらった学習机に突っ伏しながら、顔面に広がる痛みに耐えていた。
今年の4月、僕は中学生になった。小学生の頃から虐められていた僕は、中学生になってもその立場を覆すことができないでいた。
小学生の頃、唯一友達でいてくれた明星平和くんことへーちゃんは、卒業式の数日後に引っ越してしまったらしい。らしい、というのはへーちゃんと兄の和雄くんはいないのに、二人のお母さんはまだ家に住んでいるのだ。その事情を、周りの子達は噂していたが、僕はそんな噂話をする相手もいないので、勘繰らなかった。
へーちゃんがいなくなった学校生活は、まさに地獄だった。
へーちゃんがいなければ、僕の存在を許してくれる人はいなかった。へーちゃんと仲良くしていたへーちゃんの友達は、もちろん僕の友達ではなかったからへーちゃんがいなくなった瞬間から無視を決め込んでいた。
また、小学生の頃に主体となって僕を虐めていた矢追正義くんは、へーちゃんがいなくなった途端、更に虐めをエスカレートさせていた。以前はボコボコに殴られる前にへーちゃんが助けてくれていたから大丈夫だったが、今は歯止めが効かないのだ。
ある暑い夏の日の放課後、そろそろ夏休みに入るというところで事は起こった。
正義くんは、僕を公園に呼び出してタバコを買ってこいと言った。さすがにそれはできないことを伝えると彼は迷わず僕の腹を蹴った。
僕がお腹を抱えて噎せていると、正義くんは間髪入れずに僕の髪の毛を引っ張り、無理矢理顔を上げさせる。
「お前、自分の立場わかってる? 断るとかあり得ねぇだろ」
「でも、それ、法律違反だし……今はタスポないと無理なんじゃないの?」
「盗んでこいよ」
「できないよ……」
僕の言葉に更にイラついたのだろう。正義くんは僕の顔面を思い切り殴った。僕は勢い良く地面に叩きつけられる。口の中に血の味が広がる。
「調子乗ってんじゃねーぞ。もう、平和は助けてくれないんだから、さっさと諦めちまえよ」
「……」
「てかさぁ、勉強もできない、運動もできない、友達もいない。何もできることねぇのに、何で学校に来てるわけ?」
「義務だから……」
「うざ」
その日は特に機嫌が悪かったのだろう。いつもは誰かに言われることを危惧して顔など決して殴らなかった彼は、この日に限ってまた僕の顔を殴った。頬が熱い。
「お前さ、何で生きてるの?」
「何でって……生まれたから……」
「そういうこと言ってるんじゃねーし。マジでお前、つまんねぇ人間だわ」
「ごめん」
「謝るな、気持ち悪りぃ」
正義くんは、溜め息を吐いて地面に転がる僕の頭を強引に掴み、地面に顔を押し付ける。土が口の中に入り、気持ち悪い。
「平和も、何でお前みたいな奴とつるんでたんだろうな? アイツも意味わからん奴だったわ……」
正義くんはそう言うが、へーちゃんは別に僕と特別仲良しなつもりはないと思う。僕が声を掛けるから反応してくれるといった具合だ。
正義くんは、僕のことももちろんだが、へーちゃんのことも嫌っていた。小学生時代は、クラスの男子は3分割されていた。1つは正義くんのグループ。わりと攻撃的な子が多く、僕をたくさん虐めてきた人たち。2つ目はへーちゃんのグループ。こちらも活発な男子が多く、しょっちゅう正義くんらと叩き合いをしていた。3つ目は大人しい子たち。何事にも我関せずを貫いていた。因みに僕は、どこにも属せない人間だ。
どちらかと言えば、クラスの中心はへーちゃんたちだった。へーちゃんも、ハッキリ物を言うタイプなのでかなり発言力があったし、喧嘩も強いから周りの男子が取り巻きのようになっていた。なんなら女子にも人気があったため、多くの人がへーちゃんを慕っていた。
正義くんは、へーちゃんによく喧嘩を吹っ掛けていたが殴り合いをしては泣かされていた。だから、多分正義くんはへーちゃんに対して劣等感を持っていたのだ。
へーちゃんに仕返しできない分の八つ当たりもあるのだろう。中学生になった彼はクラスのリーダー的存在に成り上がったにも関わらず、何に満たされないのか僕を殴り続ける。
「タバコ買えねぇんなら、じゃあ金寄越せよ」
「学校に持ってきてないよ……」
「ハッ、マジで使えねーカスだな」
「……ごめん」
「謝るくらいなら俺への献上品くらい用意しとけよな! 平和にはやってたんだろ?」
「へーちゃんは、僕に何も求めてないよ。だから何もあげてない。僕が勝手に手紙あげてたくらい」
「じゃあアイツ、マジで見返りなしでテメェなんかと仲良しごっこしてたのかよ」
「そうだと思う」
正義くんは僕の頭から手を放すと、立ち上がって今度は足で頭を踏んづける。一体彼は何に対して怒っているのだろうか……。
「あ、矢追じゃん! 何してんの?」
「お前ら……」
声をかけてきたのは恐らく、いつも正義くんとつるんでいる男の子たちだろう。顔を上げられないから見えないが、僕らに近付く足音は複数ある。
「躾してやってんの。前の買い主が随分甘やかしてたみたいだったからな」
「へぇ、楽しそうじゃん」
「俺らも入れろよ」
「ああ、いいぜ」
その日、僕は辺りが真っ暗になるまで暴力を振るわれた。公園はすでにさびれていたため、そもそも彼らのような人たちのたまり場になっていて誰も遊びには来なかった。
助けも求められないまま、僕はされるがままに彼らのサンドバッグだった。
「次の月曜日から金持ってこいよクズ」
帰り際、正義くんはニヤニヤしながら僕に言った。頷くしかなかった。
どうやって帰ってきたのかは覚えていなかった。全身の痛みに耐えながら、僕は涙を我慢して家のドアを開けた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
僕がリビングに行くと母は僕に目もくれずに言った。母の目は3歳の心春にある。心春は涙目になりながら母を睨んでいた。
また何かやらかしたんだ……。
「こはる、わるくないもん」
「じゃあ、ママが心春のこと叩いてもいいの?」
「いいもん」
ああ、心春がまた暴れたのか……。
僕は二人に触れず、手洗いうがいを済ませて母が用意してくれた夕食を持って自室へ向かった。
夕食は喉を通らなかった。食べようと箸を握れば散々叩かれた手がズキズキと痛む。
「お前さ、何で生きてるの?」
蝉の声を遠くに聞きながら学習机に突っ伏していると、正義くんの声が脳裏に過った。再生される罵倒の数々に我慢できずに嗚咽が溢れる。それでもなるべく静かに泣いたのは、母や妹に知られたくなかったからだ。
母は、僕に無関心な訳ではなかった。ただ、どうしても3歳の娘の方を優先せざるを得ないのだ。心春は自分の感情のコントロールが難しく、すぐに暴れるため母も苦労している。僕はそれを子どもなりに理解していたから、母の迷惑にならないように気を付けていた。せめて、僕の心配はさせたくなくて虐められている事実を隠していた。
でも、そろそろ僕の心は限界に近かった。誰も助けてくれない、存在を認めてもらえない毎日。正義くんの疑問は、僕の中の疑問でもある。――何で生きているのだろう。
バタン。
「あ」
隣の部屋のドアの閉まる音を聞いて、僕はハッと顔を上げた。
今日はお父さんが帰ってきている。珍しく夜中ではない。
僕は仕事熱心な父に迷惑をかけたくなくて、やっぱり虐められていることを伏せていた。父は警察をしていて、忙しかった。
でも、迷惑だとわかってはいても限界だった。
僕はゆっくりと立ち上がり、ドキドキと心臓を速まらせながら隣の部屋に向かった。
トントンとノックをすると中から「優志か?」と声がした。「入るね」と言ってからドアを開けると父はパソコンと向き合っている。
「どうした?」
「あのね、相談したいことがあるんだ……」
声が震えた。父がどういう反応をするのか想像もつかなくて怖かった。
父がパソコンを見るのをやめて、僕の方を見た。傷だらけの僕の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「その、僕ね……虐められているんだ。どうしてなのかは、わからない。……でも、もう辛くて……助けて」
僕は俯いてしまう。父の顔が見れなかった。
少しだけ沈黙があった。僕はその居心地の悪い沈黙を破ることはできない。不安で押し潰されそうだった。
やがて、父の溜め息が溢れる。
「そんなの、お前が言い返せばいい」
「え?」
「そんなに弱くてどうする? 社会に出たらそんなものじゃない。こんなところで挫けていたら、大人になったらやっていけない」
顔を上げて父を見ると、彼は呆れきった顔をしていた。
その顔を見た瞬間、僕はもうその場にはいられなかった。
父に何も言えずに、自室に走って戻った。ベッドに飛び乗って枕に顔を埋めると、その瞬間から嗚咽が溢れる。涙が止まらなかった。
死にたい。
心の底からハッキリと浮かんだ感情は、感じたこともないどす黒いものだった。
タンスの中から長めのタオルを取り出し、輪をつくる。自分でも驚くくらい素早く行動していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます