第4話:日常の幸せと不安

第4話:日常の幸せと不安


朝の光が、薄く開けたカーテンの隙間からリビングに差し込む。机の上には、昨日の残り香を少しだけ残したおにぎりが置かれている。僕はその匂いに、思わず深く息を吸った。米の香ばしさと、少し塩の効いた海苔の香り。それだけで、胸の奥がふわりと軽くなる。


「おはよう、今日も元気?」妻の声は柔らかく、けれどどこか遠くの響きを含んでいた。耳に残るその声は、いつもの朝の挨拶のようで、でもほんの少しだけ、現実離れしているようにも感じる。


「おはよう。うん、元気だよ…でもなんか、昨日のおにぎりの味が頭から離れなくて」僕は笑いながら言った。口に運ぶ前から、もう幸福の期待値で胸がいっぱいになる。


妻は少し首をかしげ、でもにっこりと笑う。「また感動してくれるの? 本当に、あなたは単純ね」


「いや、でも本当に不思議なんだ。なんでこんなに美味しいんだろう。普通のおにぎりじゃないだろ?」


妻は黙って僕の目を見つめ、静かにおにぎりを握る手元を見せる。彼女の指先は軽やかに、でも確実に米を形作る。その動作のひとつひとつが、なぜか魔法のように見える。手のひらから、ふわりと温かい空気が立ち上るような錯覚すら覚える。


「秘密よ。でも全部話したら、あなた、びっくりするわよ」妻の声は柔らかい笑いを含みながら、でもどこか遠い記憶の奥から響くようだった。


「えっ…どういうこと? 普通の人間じゃないの?」僕は少し焦りながらも、心の中の期待が跳ね上がる。昨夜の夢のような幸福感と、この現実の幸せが、同時に僕を揺さぶる。


妻は肩をすくめ、少し困ったように笑った。「まあ、普通じゃないって言えばそうかもしれないわね。でも、あなたが喜んでくれるなら、それでいいの」


その言葉に、僕は胸がぎゅっとなる。日常の穏やかさと、隠された謎の存在感。その両方が、まるで柔らかな布のように、僕を包み込む。触れれば温かいけれど、押しつけがましくない。


「でもさ、いつか…その秘密が、生活に影響したりしない?」僕はつい、口に出してしまう。小さな不安が、昨日の幸福をすこし揺らしてしまったのだ。


妻は黙って僕を見つめる。その瞳には、長い時間を生きてきた経験と、少しの苦悩が隠れているように感じた。「それは…少しだけあるかもしれない。でも、なるべく普通に暮らしたいって思ってる。あなたと一緒に」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥の冷たい不安が少しだけ溶ける。僕は笑い、でも同時に手が震えるのを感じた。「わかった。僕、できるだけ普通に、幸せを感じよう。あなたと一緒に」


妻は軽く頷き、そしておにぎりを僕に差し出した。その米の香り、温かさ、手の感触。すべてが、言葉以上に僕に幸福を伝える。


「でも、時々は不安になるのよね…私がいなくなったら、あなたはどうなるかしら」妻の声は、小さく、でも確かに僕の心を揺さぶる。


「そんなこと考えないで。今、ここにある幸せを、ちゃんと噛みしめるから」僕はそのおにぎりを受け取り、口に運ぶ。口に入った瞬間、米の甘みと塩味、海苔の香りが一気に広がり、昨日と同じように、心の奥まで幸福が染み渡る。


妻は微笑みながら、少し首を傾げる。「やっぱり、あなたは単純ね。でも、そういうあなたが好き」


「僕も、君のことが好きだ。おにぎりも、君も、全部」


その瞬間、僕は心の中で、小さな決意をする。たとえ不安があっても、たとえ秘密や謎が生活に影響しても、今ここで感じる幸福を、大切にして生きていこう、と。


窓の外では、朝の光が優しく揺れる。小鳥のさえずりが聞こえ、遠くで車の音がする。すべてが、普通の生活の中で、少しだけ魔法のように感じられる日常。僕はその中で、妻のおにぎりとともに、心を満たしていく。


「今日も一緒に、ご飯を食べられるね」妻の声が、柔らかく、僕の胸に響く。


「うん。ずっと、こうやって食べたい」僕は微笑む。おにぎりの温かさ、妻の笑顔、日常の小さな幸福。それらが、僕の心を静かに、しかし確実に満たしていく。


小さな衝突や不安があっても、僕たちは今日もここにいる。おにぎりと笑顔がある限り、幸せは、確かにここにあるのだ。


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