第3話:800年の記憶
第3話:800年の記憶
朝の光がカーテン越しに差し込むキッチンで、ユリはいつものように米を研いでいた。湯気と米の香りが混ざる空気の中で、僕は手元のおにぎりを握りしめながら、ため息をつく。
「ユリさん……ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「ん?何?」
「……その、前に言ってた、あなたの不思議な過去のこと……」
ユリは静かに米を握る手を止め、振り返った。瞳の奥には、薄い翡翠のような光が宿っている。何かが弾けそうで、でも決して爆発しない静けさ。
「……本当に聞きたいの?」
「うん……でも、覚悟してるよ。普通じゃないことだって、たぶん想像できるから」
ユリは小さく笑い、僕の目をじっと見た。
「じゃあ……話すわね。私、ただの人間じゃないの」
「……え?」
その言葉に、僕の心臓は一瞬止まったような衝撃を受けた。手に持つおにぎりの温かさが、突然重く感じる。米粒の一粒一粒が、目の前で揺れているような錯覚。
「……ただの人間じゃないって、どういう……」
「……転生を繰り返して、もう800年以上生きてるの」
僕は思わず、机を叩いた。「どうして、普通の人間じゃないんだ!」
「ユリ……何言ってるの。そんな……冗談だろ?」
「冗談じゃないわ。目の前のあなたが、まだおにぎりを温かく感じてるでしょう?」
その時、ユリが作ったおにぎりを一口頬張る。口の中で米がほぐれ、優しい塩味が舌に広がる。海苔の香ばしさが鼻に抜け、胸の奥に温かさがじんわり染み渡る。幸福の波が、心だけでなく体全体を包み込む。
「……なんで……どうしてそんなことが……」
「800年の間に、何度も人の幸せを見てきたの。戦争の匂い、疫病の煙、砂漠の乾いた風……でも、おにぎりを握るときだけは、世界が少しだけ優しくなるのを知ってるの」
ユリの声は穏やかで、でもどこか遠い場所を通って僕に届く。まるで、時間を越えてきた存在の囁きのようだ。僕は手を握りしめ、思わず目を閉じた。
「……800年……そんなに長く……」
「ええ。最初のころは、米も海苔も、手に取るものすべてが新鮮で……でも、だんだん、食べる人の笑顔を思い浮かべるだけで、米粒の温かさが違って感じるようになったの」
僕は唖然として、口を開けたまま止まった。過去の断片が、目の前で現れるようだった。戦国時代の瓦礫の中、鎧の匂い、鉄の味。江戸の長屋の湿った木の香り。明治の汽笛の音。すべてが、ユリの体験の断片として、目の前に重なる。
「……ユリさん……本当に、普通の人間じゃない……」
「ふふ、わかるわ。信じられないでしょ。でも、こうしてあなたのためにおにぎりを握る瞬間だけは、普通の家庭の主婦でいられるの」
僕は、思わず笑いながらも涙が頬を伝った。怒りや驚き、混乱、そしてどうしようもなく幸せな感情が、一気に押し寄せる。手の中の米の温かさが、心に染み渡る。
「……でも、なんで僕にだけ、こんな話を?」
「だって、あなたは……私のおにぎりを、ちゃんと味わってくれるから」
「……味わうだけじゃないよ……ユリさんの……その、すべてを……」
「ふふ……ありがとう」
ユリの微笑みに、僕の理性は溶けた。幸福の波が体を満たし、時間の感覚が薄れていく。800年の記憶と、今この瞬間の温かさが、同時に僕の中に流れ込む。
「ねえ……お願いがあるの」
「なに?」
「この先も……おにぎりを食べて、笑っていてほしいの」
「……もちろんだよ、ユリさん」
僕は心の底から頷いた。口に広がる温かい米の感触、香ばしい海苔の匂い、握る手の温度――すべてが、彼女の存在を確かに感じさせる。
ユリは再び米を握り直し、湯気の向こうで微笑んだ。瞳の奥には、悠久の時を超えた静けさが宿る。僕はただ、その微笑みに目を奪われ、手に持つおにぎりの温かさを噛み締めた。
「……ねえ、800年の間に、いろんな人を見てきたでしょう?」
「ええ……」
「その中で、僕のこと、覚えてくれる?」
ユリは少し考え、そして頷いた。
「もちろんよ……これからも、ずっとね」
僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。恐れと混乱と、抗えない幸福感が入り混じる。その全てを飲み込むように、もう一口おにぎりを頬張る。温かく、塩気と米の甘みが心に溶け、幸せが身体中に広がる。
「……僕は、どうして普通の人間じゃないんだって思うんだろう」
「それは……私を好きになったからよ」
ユリの言葉に、僕はただ笑った。幸福が口いっぱいに広がり、心が静かに震える。800年の記憶と、今この瞬間の温もりが、重なり合い、僕たちの時間を特別なものに変えていた。
窓の外では小鳥がさえずり、朝の光が差し込む。僕は手に持ったおにぎりをぎゅっと握り、ユリの微笑みを目に焼き付けた。
この不思議な存在と一緒に、これからどれだけの時間を生きるのか、僕にはわからない。でも確かなのは、この温かさと幸福が、僕の人生の中心にあることだった。
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