0.5

夜の兵舎、焚き火の影が揺れるあの頃――

まだ右も左も分からなかった幼い少女が、ひとりぼっちで泣いていた。

名前も、素性も、血筋も、街の誰も知らない。

けれどただひとり、近づいて声をかけてくれた青年がいた。


黒い瞳。黒い髪。黒いコート。

闇夜に溶けるような佇まい――まるで猫のような気配の薄さ。


だからシエルは迷わず言った。

「黒猫さん」


名を知らない。

だけど救われた。

助けられた。

温かい飲み物と毛布をくれた大きな身体。

タバコを吸う大人

名前も知らないのに、呼ばなければいけない時が来たら

――特徴で呼ぶしかなかった。


シュバルツは訂正しなかった。

むしろ少しだけ、眼差しを細めて笑った。


あの日から呼び名は固まった。

それは「他に呼び方を知らなかった」だけじゃない。


彼女が名を知るより前に、心がその存在を覚えてしまったから


小鳥の中で最初の「人のぬくもり」が黒い影のような優しさで刻まれた。

ゆえに――

黒猫

名前を呼ぶには、まだ幼すぎて

そしてその呼び方は、彼女の生存と記憶の証だった。


後に里で皆が名前で呼んでも、

彼女だけは変えなかった。


「黒猫さん」は、ただの呼称じゃない。

命を繋いだ懐かしい灯。

最初に与えられた安心の名前。


そしてシュバルツがそれを訂正しない理由は――

その名で呼ばれる瞬間だけ、救えなかった誰かの影が薄れるから。


その重さ事包もうと、飛ぼうと思ったのは

あなたが、何気ない温かさをくれたから。

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