第6話

〈兄視点〉




 更衣室で着替えを終え、職員通用口を出ると、先に水瀬さんが外で待っていた。


「お待たせしました」


「ううん、大丈夫。ちょうど今出たところ」


 そう言って笑いながら、水瀬さんは車のキーを指でくるりと回す。


 並んで駐車場へ向かおうとした、その時だった。


「そうだ、綾瀬さん」


 思い出したように声をかけられ、立ち止まる。


「この前のお返し」


 差し出されたのは、小さな鈴だった。


 手のひらに収まるくらいの大きさで、

 鈴そのものは、静かな銀色をしている。


 けれどそれを結ぶ紐と、短い房だけが――赤かった。


 病院の外の光の中で、その赤だけがやけに目につく。


 受け取った瞬間、


 ……りん……


 指先に伝わるほどの小さな揺れと一緒に、澄んだ音が鳴った。


 音は短くすぐに消えたはずなのに……なぜか、耳の奥に残ったままだ。


「いや、悪いですよ。そんな……」


「大丈夫。安物だから」


 そう言って、軽く押しつけられる。


 断りきれず、結局そのまま受け取ってしまった。


「ありがとうございます……」


「どういたしまして」


 そんな他愛もない会話をしながら、二人で駐輪場の前を通りかかった、その瞬間。


 ――視界に、ありえないものが入った。


「……っ」


 足が止まる。


 視線が、自然と一点に吸い寄せられた。


 そこにあったのは、子供用の自転車。


 見間違えるはずがない。


 走って近づき、ハンドルの横、フレームに貼られた名前シールを見る。


 少し歪んだ文字で書かれた名前。


 ――綾瀬柚葉――。


 妹の字だ。


 あの日、一緒に自転車を選んで、「お兄ちゃん、ここでいい?」と何度も確認しながら貼ったシール。


 ぞわりと、身の毛がよだつ。


 胸の奥が一気に冷え、冷や汗が滲んだ。


「……柚葉ちゃんの、自転車?」


 水瀬さんが小走りで駆け寄ってくる。


「……はい」


 声が、思ったより低くなった。


 どうして、ここにある。


 届けに来たのか。

 ひとりで。


 頭の中が、急にざわつき始める。


「ちょっと、受付に確認してきます」


 一言断りを入れて、俺は正面玄関へ向かった。


 受付で事情を説明し、小学生くらいの子供が一人で来ていないかを確認する。


 返ってきた答えは、どれも同じだった。


「今日は、そのようなお子さんは見ていません」


 胸騒ぎが、はっきりと形を持つ。


 外に出ると、水瀬さんが駆け寄ってきた。


「前に見せてくれた、長い髪の可愛い子でしょ。一緒に探そう」


 そう言って、水瀬さんは院内の上階に確認へ行ってくれた。


 俺は、病院の外を探すことにした。


 建物の周囲を走りながら、家に電話をかける。


 ――出ない。


 柚葉の携帯にもかける。


 《……おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか……》


 無機質な自動音声が、耳に虚しく響く。


 病院は、思っていた以上に大きかった。


 白い外壁。

 規則正しく並ぶ窓。

 昼間なのに、建物の足元には濃い影が落ちている。


 裏手に回ると、山側へ続いていそうな細い通路が見えた。


 だがそこは、黄色と黒の進入禁止ポールと、赤いコーンで塞がれている。


 チェーンが張られ、色あせた札には「立入禁止」とだけ書かれていた。


 理由は知っている。

 だが……今はどうでもよかった。


 さらに目を上げると、外壁に沿って螺旋状の非常用スロープが設置されている。


 火災時に使うためのものだ。

 普段は、誰も使わない。


 金属製の筒のような構造で、中は暗く、奥まで見えない。


 風が吹いたのか、中で金属が微かに軋む音がした。


 ――今は、それどころじゃない。


 首を振り、再び正面へ向かう。


 その時、正面玄関から水瀬さんが出てくるのが見えた。


「やっぱり、誰も見てないって。もう一度受付の人にも聞いてもらったけど……」


 時計を見る。


 業務開始まで、まだ二十五分ある。


 警察、という言葉が一瞬よぎる。


 それでも――

 もう一度だけ、自分の目で中を確認したかった。


「……すみません。中を探します」


 そう伝えて、二人で正面玄関へ向かった。


 


 中に入った瞬間。


 


 さっきまであったはずの

 ざわめきが

 

 ……消えた……


 


 足を止めた水瀬さんの目が

 大きく見開かれる。


 


 背後で

 自動ドアが閉まる音が響いた。


 


 前を見る。


 


 ……誰も……いない……


 


 さっきまで騒がしかった患者の姿も

 ロビーの椅子も

 受付の職員も。


 


 すべて……消えていた……


 


 空調の音だけが

 低く、一定のリズムで鳴っている。


 


 心臓の鼓動が、やけに耳に響く。


 


 横で、水瀬さんがごくりと唾を飲み込む音がした。


 


 声を出そうとしても

 喉が張りついたみたいに、動かない。


 


 自然と、二人で自動ドアの前に立つ。


 


 ――反応しない。


 


 開く音も

 

 閉まる音も

 



  

 ……もう……しなかった……


 

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妹が消えた病院 ナメクジ @ritsu_void

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