王女と番犬

小野村雛子

序 報酬と処分

 白亜の王宮、右翼の塔。その内部に位置する謁見の間には、不自然な静けさが漂っていた。

 居並ぶ貴族たちが時折立てる衣擦れの音や、咳払いをする微かな音。それさえも、高い天井が吸いこんで消してしまう。緊張の面持ちで彼らが見守っているのは、今しがた帝都に帰還したばかりの「英雄」の凱旋を祝う式典だった。


 柱という柱、床に敷き詰められた大理石のタイルの一枚一枚に細かな彫刻が施された豪奢な空間である。そして広間の奥に位置する、一段高くしつらえられたその場所にあるのは巨大な玉座。そこに腰かけた壮年の男――オストベルク帝国皇帝エデュイオンは、足元に跪く一人の騎士を見下ろした。


「――よって、その帝国への多大なる献身、そして功績を称え、汝ミハイル・シュナイダーには報酬を授けよう」


 皇帝の声は朗々として広間に響いたが、その鷲に似た灰色の眼は笑っていない。


「北西辺境、グラニス領を汝に与える」


 その瞬間、ざわり、と貴族たちが息を呑む。


 皇帝の足元に膝をつき、微動だにしない騎士の正装を纏った男――公爵家当主ミハイルは、顔を上げることもなく皇帝の言葉をただ聞いていた。窓から差し込む冷たい初冬の日差しが、彼のほとんど白に近い銀の髪を輝かせている。


 先月終戦を迎えた第三次魔法大戦において、第一線で戦い、反乱軍を壊滅させ見事敵将を討ち取った伝説を持つ男である。帝国最強の剣として、皇帝にその誉を称えられる。


――普通なら、そうなるはずだった。


「併せて――王女ヴィヴィアナを、汝の正妻とする」


 その名が告げられた瞬間、広間の空気は明確に変わった。

 

 皇帝の目が冷たい光を放ち、玉座の後方、柱の影に視線を向けた。


「おいで」


 しばらくの沈黙の後、柱の陰から一人の少女が進み出た。

 黒曜石のような髪。抜けるように白い陶器のような肌。そして思慮深げな深みを湛えた深い青の瞳。王女ヴィヴィアナ。あまり父である皇帝には似ていない。そして、皇帝の隣に腰かけ沈黙する王妃とも似ていない。月の女神もかくやという美貌の王女だったが、形の良い桃色の唇は平行に引き結ばれたままである。


「王女は明日十八になる。そろそろ良い年ごろだ、ぴったりの贈り物になろう」


 皇帝はそう娘に微笑むが、その口ぶりは冷徹そのもの。王女は否定も肯定もせず、湖面のように静かな眼で跪く騎士を見下ろしていた。


「英雄よ、面を上げよ」


 告げると、ミハイルはゆっくりと顔を上げ、皇帝を見上げた。

 触れれば切れそうな、張り詰めた雰囲気を持つ男だった。歴戦の武人らしく、二十一という肉体の若さとは結び付かない飄々とした空気を纏う男。白銀の髪と、広い帝国でもあまり見かけない深紅の眼が印象的である。そして何より目を引く傷跡――彫りの深い精悍な顔に一本走るそれが、目の下から唇にかけてを切り裂いていた。


「良い話だとは思わぬか」


 鮮血を思わせるミハイルの目と、王女の凪いだ目がぶつかる。皇帝はそう言葉尻を持ち上げたが、それは是非を問うているのではない。これは命令である。ミハイルにもヴィヴィアナにも首を振る権利は最初から持たされていない。


 両者、顔を合わせるのは今日が初めてである。縁談の話も何もなかったところに、突然湧いたこの話。むしろミハイルにもヴィヴィアナにも、それなりの縁談話はあったのだ。それが全て無に帰したことを意味する。ヴィヴィアナはどんな気持ちでこの話を聞いているのだろう。後方で見守る貴族たちも、二人の返答を固唾をのんで見守っている。ミハイルが口を開きかけた直後、凛とした声が広間の緊張した空気を破った。


「――皇帝陛下の深い温情に感謝致します」


 王女の口調には何の取り繕いも嘘も感じられない。本当にそう思っているのか、そう見せるのが上手いのか。どちらにせよ、その答えは皇帝の冷えた顔を和ませるものではなかった。娘があっさりと命令を受け入れたことが不満らしい。それを隠しきれないようすで、皇帝は眉を吊り上げる。


 すっと床に膝をつき、ヴィヴィアナはミハイルの深紅の目を覗き込む。次の瞬間、広間からは驚きのざわめきが静かに上がった。王女が長い睫毛の傘に縁どられた目を伏せ、騎士の武骨な手をそっと持ち上げたのだ。

 

 例え貴族とはいえ、王族とそうでない者の間に立つ壁は高く厚い。特別な事情がない限り、王族の側から身体を触れさせるということはあり得ない。とった手の甲、無数の細かい傷跡に覆われたそこに静かに唇を触れさせ、王女は言った。


「第三王女としてではなく、ただのヴィヴィアナとして、この身を公爵閣下に捧げますわ」



 こうして、名門シュナイダー公爵家と第三王女ヴィヴィアナの婚約は正式なものとなった。文書の調印も滞りなく行われ、婚礼の日取りもあっさりと決まった。当のヴィヴィアナは、皇帝である父親に献上品として男に差し出されたことを意識しているのかいないのか、特に何の感情も示さずこの結婚を受け入れているようだった。


「ようやくあの娘の顔を見ずに済むようになると思うと、もう……。あの目つきといい顔つきといい、あの女にそっくりですもの。ねえ陛下」


 式が執り行われる前日の夜。爪で引っ掻いたような細い月が闇の中に浮かんでいる。王宮の奥深く、皇帝の寝室では、皇帝本人と正妻であるルシアン妃が語らっていた。


「そうだな」


 短く答えた皇帝は、暗い目で天井を見上げる。


(〈冷血公爵〉とヴィヴィアナの結婚。この意味を、あれが理解していないはずがない)


 そう思ってみても、皇帝の心にもはや憐憫が湧くことはなかった。ヴィヴィアナも、正真正銘血を分けた娘であることは理解している。あまりにも無感情な己の心を省みて、もはや父娘の絆は焼き切れているということを、皇帝は改めて思うのだった。


(あまりに似すぎている……。彼女に)


 艶やかな黒髪も、透明な青い目も。傍に置いていると気がおかしくなりそうだった。思わず隣で寝ている妻を抱く腕に力がこもる。それを昂ぶりと受け取ったのか、ルシアンは同じ強さでしがみついてきた。


 婚礼の鐘が鳴り響く瞬間、己はどんな顔をするのだろう。あの広間で、迷うことなく答えを出した娘の顔を想う。自分を見る無感情の瞳が脳裏にちらつき、すぐに打ち消す。


 王女ではなく、ヴィヴィアナとして。


 あえて公爵に触れることで、その言葉を肯定し、そして貴族たちに印象付けたヴィヴィアナ。


(どこまで儂を悩ませるのだ)


 閉じた目の裏には、どこまでも闇が広がるばかりである。

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