桜を見る

@Ukyo1023_m

第1話



余はかつて植物園の桜を見たことがあるが、中でも京都の桜が最も雅やかなり。悠久の歴史が沈殿し、独特の大和の風情を湛えている故なり。然れど、別の所謂「桜」が余に更なる印象を残している。これは二三年前の古事なれど、文森先生の手紙を拝見したことで、ようやくこの忘れかけた往事を思い出すことができた。


当時、余は外園氏と同行し、金山の久居寺へお祈りに赴いた。外園氏は幸運にも大吉のおみくじを引き、余も吉籤を賜った。ところが外園氏の小僧・小紀は、ひどき大凶の籤を引いてしまった。余たちは先ず唖然とし、すぐに小紀を慰め、「必ず解決する術あり」と励ました。小紀は否原大師に厄除けを頼んだが、大師は「一木の桜を見つければ凶を吉に転じられる」と告げた。


小紀はたちまち焦燥せんとした。冬の月に、何処に桜が咲くやら? しかも一木丸ごと。外園氏は小紀を落ち着け、鴻上大師の桜画展を見に行くこと、「災い除け守」と書かれた風鈴を購入してあげることを約束し、小紀はやっと平穏になった。


余は山下の老舗おでん屋に行こうと提案し、小紀に「最も好きな竹輪を食べ放題に、天ぷらも自由に喰える」と語った。小紀の目は瞬く間に輝き出し、外園氏は笑いながら彼の肩を叩き、「食事の時も礼儀を守れ」と諭した。小紀は一々承諾し、襟を正して跳ね跳ねと余に従い、片手には外園氏の袖を引いていた。


店主・阿蒲は文森先生の旧友で、三四十歳の年齢にして、妻と弟と共に「山吉おでん」を経営していた。店内には、久居寺へお祈りに来た遠方の善男善女や、阿蒲の知己たる常連客たちが満ちていた。余たち到着の時、阿蒲は厨房でおでんの汁を煮込み、弟は大根を切っていた。妻・美子が玄関まで出でて迎え、その後戸を閉じた。


「外は風が激しい、恐らく午後中ずっと止まぬだろう」と美子は袖を払った。


小紀は果たして空腹なり、三つも竹輪を食べ続けた。美子も見て笑い、熱いお茶を注いで「ゆっくり食べて、竹輪はまだたくさんあるわ」と言った。


「おや! 天ぷらが売り切れちゃった。小紀くん、本当に申し訳ないわ」


「大丈夫です、美子おばさん。おもてなし、ありがとうございます」小紀は懂事に頷き、ガラス碗の残り湯を一気に飲み干した。


「うわっ!」と含糊とした音を吐き、彼は叫んだ。「桜!」


外園氏は小紀の頭を指さして「妄言するな。蓮華を見たとしても騒ぐな、食事の礼儀がある。何より冬の月に桜が…」


「桜…?」外園氏の言葉が途切れるや、彼は小紀の指す方向を見据え、難置信の表情を浮かべた。窓の外、枝桠には艶やかな深紅と淡紅が散りばめられ、まるで名古屋の夏桜の如く五弁の花が咲き誇っており、実に見事なり。


阿蒲の弟は手を拭って窓辺へ駆け付け、「わっ!」と叫んだ後、また大股で走り去った。余は彼に先んじて、その「桜」の正体を見抜いた。彼は百葉戸を閉めて窓の景色を完全に遮り、留め金を掛け、鍵を握って仕込み室へ奔った。


それは決して桜ではなかった。窓ガラス一面に血の手形がついており、一部は引っ掻かれた跡も見え、指の間にはガラスの破片まで挟まっていて、見るもの胆寒しきりなり。


余はばらばらと席に戻り、阿蒲の弟の機敏さにも感心しつつ、ため息をついておでんを食べ続けた。美子が油紙で新しい和菓子を包んでいるのを見た。彼女はさっき麻縄の束を倒しそうになり、今でも手が震えてはさみを使いこなせぬ様子だった。


外園氏と小紀はまだ何が起きたのか知らず、冬の月に桜を見たことを慶んでいる。外園氏は「小紀、これは神の加護だ。災いが除かれたな」と言う。余は二人の喜びに迎合しつつ、内心は落ち着かず、血の手形の跡が去らない。ポケットの吉籤はまるで冗談の如く、既に皺くちゃになっていた。


余は小紀に会うのは久しし矣、外園氏も彼のことを少ししか話さない。きっと彼は健やかに青年に成長しただろう。その経験が彼を少しは変えたことだろう。文森先生は余に桜の形をした和菓子を贈ってくれたが、余は甘い物がそれほど好きではない。当時、美子も天ぷらがなかった詫びに二種類のお菓子を包んで小紀にあげたようだ。思いがけず血の手形は卑劣な影響を与えず、むしろ温かい思い出となった。その後、余は他の場所でも桜を鑑賞し、南の中国まで行ったこともある。その桜は淡い白色で、江南の花も憂いの色をしているように思えた。だが、これは後日の話なり。

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