第12話 残ったもの
戦いが終わってから、三日が経った。
公園での討伐は、群れの連携で悪霊の圧を弱めた。黒い霧は散らされ、触手のような影は細く千切れ、低い呻き声は風に溶けて消えた。結界を解いたとき、残った気配は微かで、街全体に薄く広がるだけになった。人間をすぐに狙うほどの力は、もうない。
だが、悪霊は消滅していない。
完全に、消えたわけではない。
オレたちは知っている。
散逸した影は、どこかの路地裏で、誰かの絶望に寄り添い、少しずつ力を取り戻すだろう。別の負の感情を吸って、再び凝縮するかもしれない。完全な解決ではない。ただ、時間を稼いだだけ。薄めただけ。
クロトは、廃ビルに戻る前に言った。
「今夜は、ここまでだ」
誰も、異議を唱えなかった。
猫たちは静かに散らばり、それぞれの場所へ。見張り役は周囲を監視し続け、結界役は疲れた体を休める。実働役は傷を舐め合うように、輪になって座る。オレは、群れと一緒に廃ビルへは戻らなかった。
「あの場所」へ、戻ることにした。
一人で。
屋根伝いに、川沿いを離れ、西側のアパートへ。夜は深く、風が冷たい。秋の終わりを感じる空気。毛に染みる。足音を殺し、影のように移動する。群れの匂いが、まだ体に残っている。背中を預けた感覚が、微かに胸の奥に残っている。
アパートが見えてきた。
古い三階建て。変わらない姿。街灯の光が、壁をぼんやり照らす。植え込みは少し枯れ、フェンスの穴は広がっている。オレは、壁に爪を立てて登った。いつものように。ベランダへ。
手すりに着地する。
ベランダは、静かだった。
洗濯機の陰。植木鉢の枯れた花。ガラス戸の隙間は、もうない。誰かが閉めたのか、風で閉まったのか。カーテンは引き絞られたまま。部屋の中は、暗い。
腐敗の匂いは、薄くなっている。
あの甘く重い匂いが、風に流されたように弱い。悪霊の気配も、ほとんどない。群れの討伐が、ここまで効いた。あの場所は、静かになった。
オレは、ベランダの隅に座った。
いつもの場所。洗濯機の陰。人間が皿を置くのを、遠くから見ていた場所。
もう、人間はいない。
部屋の中を、ガラス越しに覗く。
ベッドの上に、横たわる影はない。死体は、なくなっている。人間の同僚か、大家か、警察か。誰かが発見し、運び出したのだろう。新聞に、小さな記事が載ったかもしれない。「孤独死」「身元不明の痕跡なし」。人間の世界の、いつもの結末。
皿もない。
あの小さな皿。たこ焼きを入れた皿。おにぎりの残りを入れた皿。鮭の匂いが染みた皿。人間が、静かに置いてくれたもの。もう、どこにもない。ゴミと一緒に、捨てられたか。誰かが洗って、片付けたか。
失われた日常の確認。
オレは、ゆっくりと鼻をひくつかせた。
人間の匂いが、微かに残る。紙の匂い。汗の匂い。コンビニの食べ物の匂い。でも、薄い。時間とともに、消えていく。もう、新しい匂いは加わらない。階段を上る足音はない。鍵の音はない。ガラス戸が開く音はない。
あの軽い関係。
名前もつけない。触れ合わない。見返りを求めない。ただ、食べ物を置いて、去る。オレは、陰から見る。それだけ。それで、居心地が良かった。
もう、戻らない。
オレは、手すりに前足をかけて、下の通りを見下ろした。
人間が、ベランダに寄りかかって街を見下ろしていたように。車が流れ、コンビニの明かりが灯る。向かいのマンションの窓に、家族の影。誰かが食事をしている。誰かが、テレビを見ている。
人間の世界は、変わらない。
負の感情は、生まれ続ける。悪霊は、また生まれる。オレたちの戦いは、続く。
だが、ここは静かになった。
オレは、尻尾をゆっくり振った。
風が、ベランダを通り抜ける。冷たい。毛に染みる。
もう、来る必要はない。
ここに、皿が出ることはない。人間が帰ってくることはない。
オレは、ベランダから飛び降りた。
植え込みに着地。路地へ。屋根の上へ。
失われたものを、胸に抱えたまま。
静かな夜。
群れが待つ場所へ、戻るわけではない。
ただ、夜を巡回する。
あの日常は、失われた。
でも、記憶は、残る。
オレは、影のように、街を歩いた。
人間が知らない戦いのために。
そして、失われた小さな優しさのために。
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