第3話 警告の正体
それから、時間は静かに流れていった。
夕方の光が、少しずつ窓から引いていく。
外では、村の明かりがぽつりぽつりと灯り始めていた。
俺は、グリムの寝台のそばを離れなかった。
何かできることがあるんじゃないか。
そう思って、何度も視線を胸元へ向ける。
だが――何も起きない。
あの時見た、危険標識は現れない。
意味不明なスキルは、沈黙したままだ。
(……やっぱり、気のせいだったのか)
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
余命を告げられた人の前で、
「助けたい」なんて気持ちだけで立っている自分が、
酷く無力に思えた。
母親は、何度も水を替え、
布で額を拭き、
祈るように声をかけ続けている。
リネアは、ほとんど喋らなかった。
ただ、父親の手を握り、
離さず、俯いたまま。
医者は、できる限りの処置を終えた後、
静かに首を振るだけだった。
時間が、削られていく。
助かる可能性も、
何かを思いつく猶予も。
俺は、何もできないまま、
ただ夜を待っていた。
――そして。
ランプの灯りだけが部屋を照らす頃、
それは起きた。
夜が、静かに村を包み始めていた。
誰もが息を潜め、
言葉を発することさえ、どこか恐れている。
重たい空気だけが、部屋に溜まっている。
グリムの呼吸は、浅かった。
規則正しいようで、どこか途切れがちで、
一度一度が、やけに短い。
胸が上下するたび、
その動きが「次もあるのか」と確かめるようで、
見ているだけで胸が締め付けられた。
村医者は何度か脈を取り、
指先に集中するように目を閉じる。
そして最後には、
まるで何かを手放すように、そっと手を離した。
「……今夜かもしれません」
静かな声だった。
声を荒らげるでもなく、
感情を乗せるでもない。
それが、いちばん残酷だった。
リネアは唇を噛みしめ、
泣くのを必死に堪えている。
肩が小さく震えているのに、
声だけは、決して漏らさない。
母親は、縋るように医者を見る。
指先が強く絡み合い、
その手がほどけることはなかった。
「……何か、ないんですか」
その声は、
願いというより、祈りに近かった。
医者は、目を伏せたまま首を横に振る。
「ありません」
短い否定。
だが、そこには迷いも嘘もなかった。
「グリム殿は、魔鉱山病の進行が重い。
先月、巡回に来た神官にも……
手遅れだと告げられています」
残酷な事実を、
言葉にするしかない立場。
「私も医者として、
何とかしたい……
だが……」
その先は、言葉にならなかった。
言わなくても分かる。
ここにいる全員が、同じ答えに辿り着いている。
――その時だった。
視界の端が、強く歪む。
まるで、現実そのものが警告を発したかのように。
黄色と黒。
危険標識。
さっきよりも、明らかに大きい。
グリムの胸元。
呼吸に合わせて上下するその場所に、
張り付くように存在していた。
逃げ場を塞ぐように。
視線を逸らすことを許さないように。
まるで、
一刻の猶予も許されない
と、訴えるかのように。
(……危険)
それだけは、はっきり分かる。
危険標識は、
危険な場所に置くもの。
頭を打ちそうな場所。
足を滑らせる場所。
人が、取り返しのつかない目に遭う場所。
――なら、今は?
(何が、危険なんだ)
考えろ。
考えろ。
危険には、意味がある。
命の危険。
そして――
(……原因が、そこにある?)
標識が示しているのは、
「グリム自身」じゃない。
胸の、その奥。
見えないはずの場所。
(……元凶が、そこにある)
なら。
それを取り除けたら?
今、この場所で。
俺に、何ができる?
目の前で、
人が死のうとしている。
時間は、残されていない。
何もしなければ、
確実に。
その瞬間、
こめかみの奥が、ずきりと痛んだ。
軽い頭痛。
――標識が、変わる。
脳裏に浮かんだのは、
見慣れた三角形。
放射線注意。
(……放射線)
詳しくは知らない。
だが、レントゲン。
医療。
がん治療。
断片的な知識が、
必死に繋がろうとする。
見えない刃。
遺伝子を切る力。
曖昧な記憶。
けれど、確かに知っている感覚。
(……切れる、のか)
見えるなら。
中が分かるなら。
――切除できる。
俺は、一歩前に出た。
「……ちょっと、いいですか」
全員の視線が、俺に集まる。
医者が眉をひそめた。
「君は……神官か?」
「違います」
即答だった。
「医者でもありません」
ざわ、と空気が揺れる。
戸惑いと警戒が混じった視線。
「それで治療だと?
命を弄ぶ真似は許されん」
医者の声は、強かった。
当然だ。
俺自身、
自分が何をしようとしているのか、
完全には分かっていない。
それでも。
「お願いします」
頭を下げた。
「このまま、
何もしない方が……
俺は、耐えられない」
言葉が、喉から絞り出される。
「無茶だ」
「それでもです」
必死だった。
リネアが、俺を見る。
その目には、
疑問が浮かんでいた。
――なぜ。
なぜ、人族が。
なぜ、ここまで。
「……いい」
小さな声だった。
グリムだ。
「その人に……
任せてあげよう」
「グリム殿!?」
医者が声を上げる。
だが、
グリムは穏やかに微笑んでいた。
「どうせ……
死にゆく命だ」
「……違う」
そう言いかけて、
医者は言葉を飲み込んだ。
そして、
静かに道を空けた。
「……ありがとうございます」
俺は深く頭を下げる。
「皆さん、
一度……
この部屋を出てもらえますか」
放射線。
危険な力。
それだけは、
本能的に分かっていた。
母親は、
最後にグリムの手を握り、
名残惜しそうに部屋を出る。
リネアも、
何か言いたげに俺を見てから、
静かに扉の外へ。
扉が閉まった瞬間。
――立ち入り禁止。
標識が、
扉に浮かび上がる。
誰も、入ってこられない。
俺は、グリムと向き合った。
「……治るかは、分かりません」
正直な言葉だった。
「でも……
あなたを、救いたい」
目の前で、
誰かが死ぬのは嫌だ。
グリムは、
ゆっくりと頷いた。
「ありがとう。
君を……信じるよ」
放射線注意。
意識を集中させる。
イメージする。
切ることができる、
鋭利な刃先。
それでいて、
わずかなズレも許されない、
繊細な動きができる形。
手術用のメスのように、
細く、無駄のない線。
すると――
薄い青白い光が、
ゆっくりと刃の形を取った。
伸びる。
伸びていく。
光は、
グリムの胸へ――
吸い込まれるように消えた。
目を閉じる。
――見える。
体内。
力の流れ。
そして。
真っ黒な、
モヤの塊。
それが、
すべてを塞いでいた。
(……これだ)
だが、
手が震える。
本当に、これでいいのか。
もし違ったら。
もし、俺が――
呼吸が早くなる。
鼓動が、耳の奥で響く。
汗が、止まらない。
「……大丈夫ですよ」
グリムの声。
「自分を……
信じてください」
その一言で、
迷いが消えた。
「……ありがとうございます」
覚悟を決める。
切る。
光が、走る。
モヤは、
裂け――
離散し、消えた。
止まりかけていた流れが、
ゆっくりと、回り出す。
その瞬間。
膝が、崩れた。
――音。
扉が、開く。
「お父さん!」
リネアが駆け寄る。
続いて、
医者と母親。
「あなた、一体――」
医者の言葉が、止まる。
グリムの呼吸。
落ち着いている。
汗も、引いている。
医者は、
慌てて診察を始めた。
「……容態が、安定しています」
信じられないものを見る目。
「ここ最近では……
一番、安定している」
母親は、
両手で口元を覆い、
声を殺したまま涙を浮かべた。
そのまま、
静かにその場に崩れ落ちる。
「……よかった……」
リネアは、
涙を浮かべて笑った。
その様子を見て、
俺は思った。
(……やって、よかった)
意味不明なスキルでも。
役に立つことは、ある。
――だが。
次の瞬間。
激しい頭痛。
視界が、暗くなる。
(……限界、か)
倒れ込む直前、
滲む視界の向こうに――
心配そうに叫ぶ、
白銀の猫耳と、
揺れる尻尾が見えた。
そこで、
意識は途切れた。
異世界で危険を見抜く俺は、今日も誰かの命を守っている もやし @erie-ru
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