恋の天気予報士
伊阪 証
本編
作品の前にお知らせ
下記リンクに今後の計画のざっくりした概要が書いてあります。余命宣告の話もあるのでショッキングなのがダメなら見ないことを推奨します。
あと表紙はアルファポリスとpixiv、Noteでは公開してます。
表紙単品シリーズ→https://www.pixiv.net/artworks/138421158
計画周り→https://note.com/isakaakasi/n/n8e289543a069
他の記事では画像生成の詳細やVtuberを簡単に使えるサブスクの開発予定などもあります。
また、現時点で完結した20作品程度を単発で投稿、毎日二本完結させつつ連載を整備します。どの時間帯とか探しながら投稿しているのでフォローとかしてくれないと次来たかが分かりにくいのでよろしくお願いします。
今年の終わりにかけて「列聖」「殉教」「ロンギヌス」のSFを終わらせる準備をしています。というかロンギヌスに関しては投稿してたり。量が多くて継承物語は手間取っていて他はその余波で関連してるKSとかEoFとかが進んではいるけど投稿するには不十分とまだ出来てない状態です。
スタジオの空気は、いつでも乾燥した砂漠のように乾いている。 強力な照明が焚かれた空間特有の、焦げたような埃の匂いと、ファンデーションの粉っぽい甘さが混ざり合ったこの場所が、私は嫌いではなかった。
正面のカメラの上で、赤いタリーランプが灯る。その小さな赤色は、私にとって興奮剤を血管に打ち込む注射針のようなものだ。
「こんばんは、お天気です。」 口角を上げ、少し高めのトーンで発する。その瞬間、私は「私」ではなくなる。局の看板であり、情報の伝達者であり、そして消費される記号になる。
手元の原稿用紙は、指の汗で僅かに湿っていた。紙の繊維のざらつきを指腹で確かめながら、私は完璧な笑顔をモニター越しに送り続ける。 関東地方は高気圧に覆われ、明日は絶好の行楽日和になるでしょう・・・。
皮肉なものだと、心のどこかで冷めた自分が呟く。 この地方局を揺るがせたセクハラ報道と、それに端を発した上層部の総退陣。私が所属していた派閥は完全に解体され、トカゲの尻尾切りのようにして、私のキャスター生命も今日で終わる。 それなのに、天気図はあまりにも残酷に晴れ渡っている。 私の人生には暴風警報が出ているというのに、公共の電波に乗せて「素晴らしい一日になる」と予言しなければならない。
悔しい、とは少し違う。 私は自分の商品価値を、『知性』という包装紙で包んだ『女の武器』として高く売り込んできたつもりだった。その計算が、最後の最後で見事に狂ったのだ。天気を読むプロが、自分の人生の気圧配置を読み違えた。
「以上、お天気でした。」 深々と頭を下げる。
視界が床に向かったその一瞬、目頭が熱くなった。 泣いてはいけない。ここで泣けば、私はただの「可哀想な被害者」として消費されて終わる。それだけは私のプライドが許さない。 けれど、完璧にコントロールされたはずの涙腺から、一粒だけ雫が零れた。それは誰にも気づかれることなく、原稿の「晴れ」という文字の上に落ちて、インクを僅かに滲ませた。
「はい、オッケーです! お疲れ様でした!」 フロアディレクターの声と共に、カメラの赤ランプが消える。 スタジオの照明が少し落とされ、魔法が解けるように現実が押し寄せてきた。
「葵ちゃん、今までありがとうね。いやあ、本当に残念だよ。君の実力ならもっとやれたのに」 プロデューサーが花束を持って歩み寄ってくる。その表情には、あからさまな安堵が見え隠れしていた。厄介者が消えてせいせいする、という本音が、薄っぺらい労いの言葉から透けて見える。
「いえ、こちらこそ。いろいろと勉強させていただきました」 私は受け取った花束の重みを感じながら、完璧な営業スマイルで返した。 この温度差。 さっきまでの熱気が嘘のように、スタジオは急速に冷えていく。私の居場所は、もうここにはない。
簡単な挨拶を済ませ、急いでスタジオを出た。 局のエントランスは全面ガラス張りになっていて、西日が強烈に差し込んでいる。 自動ドアを抜けると、そこには暴力的なまでの青空が広がっていた。 雲ひとつない、突き抜けるような青。 それは私の門出を祝うものでもなければ、慰めるものでもない。ただ、そこに「ある」だけの圧倒的な物理現象。
「・・・最後のサービスショットみたい」 誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。 カメラのない場所で、私はようやく、誰のためでもない溜息をひとつ吐き出した。
更衣室のロッカーは、まるで棺桶を縦にしたような狭苦しさがある。 無機質なスチール製の扉を開けると、染みついた制汗剤と古い香水の匂いが、埃っぽい空気と一緒に吐き出された。
私物と呼べるものは、驚くほど少ない。予備のストッキング、化粧ポーチ、喉のケア用の蜂蜜スプレー、そして読み古した気象の教本。それらを段ボールに詰めていく作業は、自分の人生を解体しているような錯覚を覚えさせる。
最後に残ったのは、胸元に付けていたネームプレートだ。 裏側のピンを外す時、指先に微かな抵抗があった。まるで皮膚に張り付いた瘡蓋を、無理やり剥がすような感触。 手のひらに乗せたそれは、プラスチックの軽薄な重さしかなかった。
「・・・・・・ふぅ」 たったこれだけ。私が「局の顔」として消費し、そして消費されてきた数年間の重さは、たったこれだけの質量だったのだ。 ロッカーの奥に、煌びやかなパーティバッグが一つ置き去りにされているのが見えた。
記憶の蓋が、不意に開く。 ――シャンパングラスの中で立ち昇る、細かな泡の列。 ――鼻をつくような、高価すぎる花の香り。
都内のホテルで開かれたスポンサー主催の晩餐会。あの日、私の隣にいたのは、当時交際していた――いや、「交渉」していたと言うべきか――上流階級の男だった。 彼は私の腰に手を回し、まるで自分の所有する高級な壺でも自慢するように、周囲の重鎮たちへ私を紹介した。 『彼女、画面映えするでしょう? そこにいるだけで場が華やぐんだ』
彼は微笑んでいた。優しげな目をしながら、私のことを褒め称えていた。けれど、その瞳の奥に私という人間は映っていなかった。 彼が見ていたのは、隣に連れ歩くのに相応しい「女子アナ」という記号と、トロフィーとしての価値だけ。
回された腕に力がこもる。逃げ場のない圧迫感。 その指先がドレス越しに這う感触は、言葉にならない命令だった。「笑え」「従え」「俺の価値を高めろ」。 拒絶の言葉を飲み込むたびに、喉の奥が焼けつくように痛んだあの夜の窒息感が、今でも肌にまとわりついている。
私は首を振り、その幻影を振り払うようにロッカーの扉を叩きつけた。 乾いた金属音が、更衣室に響く。
荷物を抱えて廊下に出ると、すれ違うスタッフたちは皆、腫れ物に触るような目つきで私を避けていった。 かつては媚びるような笑顔を向けてきた人々が、今は私が「透明人間」であることを望んでいる。
通用口の警備員に会釈をして、自動ドアの前に立つ。 ウィーン、という駆動音と共にガラスの壁が開いた瞬間、強い風が身体を叩いた。 ビュウッ、と前髪が乱暴に掻き回される。 セットした髪が崩れるのを気にする必要は、もうない。 一歩足を踏み出すと、背後のドアが閉まった。
外の空気は、スタジオの管理された空調とは違う。排気ガスとアスファルトの熱、そして湿り気を含んだ、生々しい都市の匂いが肺を満たす。
身体が重い。いや、軽いのか。 守ってくれる肩書きも、縛り付ける視線もない。私は今やただの、職を失った三十路の女として、雑踏の中に放り出された。 その事実は恐ろしいけれど、同時に解放されたような奇妙な清々しさがあった。
風に吹かれるままに歩き出し、交差点の赤信号で足を止める。 ポケットの中で、スマートフォンが短く震えた。 画面を覗き込むと、懐かしい名前が表示されている。 『久しぶり。元気? あのさ、突然で悪いんだけど、今度うちの学校で講演してくれないかな? 生徒たちが会いたがってて』 旧友からの、唐突な誘い。
液晶画面の文字を指でなぞりながら、私はふと空を見上げた。 さっきまで突き抜けるようだった青空に、いつの間にか薄い雲が刷毛で掃いたように広がり始めている。あれは、巻雲だ。 天気は下り坂に向かうかもしれない。
信号が青に変わる。 歩き出す人波に合わせて、私も一歩を踏み出した。 その雲の薄さが、これからの私の曖昧な未来そのもののように思えて、私はスマホを握りしめたまま、雑踏の中へと消えていった。
駅前のカフェは、午後の緩慢な空気に満ちていた。 向かいの席に座る友人は、教師という職業柄か、あるいは彼女自身の性格か、私の顔色を窺うような素振りはしなかった。彼女はブラックコーヒーを一口すすると、すぐに、私の「商品価値」について淡々と語り始めた。
「で、例の講演の話なんだけどさ」 「……本気? 今の私が学校に行っても、反面教師にしかならないわよ。ネットニュースは見てないの?」
私が自嘲気味に返すと、彼女は呆れたように肩を竦めた。 「見てるわよ。でもね、高校生なんてそんなもん見てないし、気にしてない。あの子たちにとっては、『テレビに出てた綺麗な人』が目の前に来る。それだけでイベントなの。テンション上がるのよ」
悪気のない、けれど残酷な正論だった。 彼女にとって私は、友である以前に、生徒の退屈な日常を刺激するための「コンテンツ」なのだ。その割り切った視線は、むしろ心地よかった。変に腫れ物扱いされて「大丈夫?」と肩を抱かれるより、その方がよほど誠実だ。
「で、何を話せばいいの? 『転落人生の歩み方』とか?」 「まさか。あの子たちが一番興味あることよ。『恋愛』。それも、あんたの専門分野を絡めてほしいの」
友人は悪戯めいた笑みを浮かべ、テーブルに身を乗り出した。 「『天気と告白のタイミング』。これで行こう」
私は持っていたカップをカチャリとソーサーに戻した。 「……冗談でしょ」 喉の奥から、乾いた笑いが漏れる。 「私が恋を語るの?この状況で、散々男に媚びて、消費されて、最後はこのザマの私が? 何の説得力もないじゃない」
脳裏に浮かぶのは、甘いロマンスではない。 高級レストランでの席次、相手の機嫌を損ねないための会話術、自分の価値を高く見せるための計算高い演出。私が重ねてきたのは「恋愛」ではなく「営業」であり、感情の取引だった。
けれど、友人は引かなかった。 「だからいいんじゃない。あんたはプロでしょう? 綺麗事だけの恋バナなんて、今の女子高生だって信じてないわよ」
その言葉が、妙に腑に落ちた。 プロ。そうだ、私はプロだった。 感情を殺して笑顔を作り、最悪の状況でも原稿を読み上げ、自分という商品をショーケースの特等席に並べ続けてきた。
私が経験してきた、あの屈辱的な交渉や、神経をすり減らすような駆け引き。 あれは「失敗」だったのか? いや、違う。私は生き延びたのだ。あの男たちの欲望の波を読み、嵐を避け、ここまでサバイブしてきた。 だとしたら、その技術は「負債」ではない。むしろ「資産」だ。 私が積み上げてきた計算と演出は、無垢な少女たちがこれから直面する残酷な戦場で、最強の武器になるかもしれない。
ふと、窓の外の光が変わった。 空を覆い始めた雲が太陽を隠し、直射日光の眩しさを遮る。カフェの中が、薄いレースのカーテンを引いたように、柔らかく沈んだ色合いに包まれた。 スタジオの、影を許さない暴力的な照明とは違う。 曖昧で、優しくて、少しだけ頼りないような、自然の光。今の私には、この光の方が合っている気がした。
「……分かった。やるわ」
私は鞄から手帳を取り出した。 表紙の革の手触りが、冷えた指先に馴染む。 友人は満足げに頷き、またコーヒーに口をつけた。
私は新しいページを開き、ボールペンを走らせる。 ――気圧配置と感情の相関。 ――雨の日の湿度が理性に与える影響。 ――夕暮れのマジックアワーを利用した自己演出。 カリカリと、ペン先が紙を引っ掻く音だけが、テーブルの間に響く。
ガラス一枚隔てた外の世界では、車が淡々と通り過ぎていく。 そのくぐもった走行音を聞きながら、私は「お天気お姉さん」の仮面を捨て、女子高生たちのための「軍師」になる覚悟を決めていた。
深夜二時。都市の喧騒が眠りについても、私の部屋の明かりだけは一つ、執拗に点灯し続けていた。
ダイニングテーブルの上に広げられたのは、私のこれまでの人生の「残骸」の数々だ。 気象予報士の合格証書、局のアナウンス部から支給されていたイントネーション辞典、出演番組の台本、そして週刊誌に叩かれた時のスクラップ記事。 さらに、引き出しの奥底から発掘した、上流階級の元恋人と撮った何枚かの写真。 どれもかつては、私が「葵」というブランドを高値で維持しようとすがりついていた証明書だったが、今、蛍光灯の下で晒されるそれらは、驚くほど色あせて見える。
私はぬるくなったブラックコーヒーを一口含み、ノートPCのキーボードに向かった。 カチャ、カチャ、ッターン。 現役時代、原稿を修正する時に染みついたリズムが、指先から蘇る。 構成はニュース番組と同じだ。導入(イントロ)、本題(ボディ)、結び(サマリー)。
私は手元にあった元恋人とのツーショット写真を手に取る。 高級ホテルのラウンジ。彼の横で微笑む私は、完璧な「良家の嫁候補」の顔をしている。顎を引く角度、上目遣いの比率、相手のスーツの袖を掴む指の力加減。すべてが計算されていた。 当時の私は、これを愛だの努力だのと呼んで信じ込もうとしていたが、今見れば分かる。これはただの「演出」だ。
私は写真を裏返し、躊躇なくメモを取る。 『Lesson 1:ターゲットへの迎合と、意図的な隙の作り方』
続いて、週刊誌の切り抜きを手に取る。 不祥事のあおりを受けて、私が「疑惑の女子アナ」として叩かれた記事。当時は見るだけで吐き気がしたが、今は冷徹に分析できる。 大衆は、完璧な女が泥にまみれる瞬間を好む。ならば、それを逆手に取ればいい。 『Lesson 2:被害者ポジションの戦略的利用、あるいは「悲劇のヒロイン」という最強のカード』
自分の傷口を自分で開き、そこから流れ出る膿を、まるで試験管に入れて観察するような作業。 惨めさがないと言えば嘘になる。けれど、それ以上に奇妙な高揚感があった。
過去を単なる「トラウマ」として抱えていれば、私は一生被害者だ。 だが、こうして解体し、構造化し、他人のために再編集すれば、それは有用な「教材」に変わる。 私の恥も、失敗も、屈辱も、すべては女子高生たちが恋という戦場で生き残るための弾薬になるのだ。
私は自分の人生という番組の、演者からプロデューサーへと回った。その万能感が、傷ついたプライドを少しだけ癒やしてくれる。
一通りの構成案を打ち込み終え、ふとスマートフォンを手に取った。 画面には、見慣れた天気予報アプリが表示されている。 明日の予報エリア。 オレンジ色の太陽マークの横に、小さな、けれど無視できないグレーの傘のアイコンが付いていた。 『晴れ のち 一時雨』 降水確率は50%。一番扱いにくい数字だ。
かつての私なら、この予報を見た瞬間に舌打ちをしていただろう。湿気は念入りに巻いた髪を崩すし、泥跳ねはベージュのパンプスを汚す。予期せぬ雨は、完璧に整えられた私の「現場」を乱す敵でしかなかった。
けれど、今の私の思考は違う回路で動いている。 画面の中の傘マークを指先でなぞる。 不安定な空模様。予測できない展開。 ずっと晴れているだけの空なんて、ドラマとしては退屈極まりない。
雨が降れば、人は濡れることを恐れて屋根の下に逃げ込む。狭いバス停、相合傘の距離感、濡れた制服が肌に張り付く感触、寒さから誰かの体温を求める心理。 気象条件の悪化は、人間関係の流動性を高める。 一時的な雨こそが、停滞した日常に波紋を起こし、他人の領域に踏み込むための正当な理由(言い訳)になる。
――いいじゃない、一時雨。 私は心の中で、明日の空に向かって不敵に笑いかけた。 最高の舞台装置だ。 私の予報は外れない。明日はきっと、荒れるだろう。そしてその荒天こそが、彼女たちの恋を加速させる追い風になるはずだ。
学校の職員室というのは、どうしてこうも独特の澱んだ匂いを放つのだろう。 湿った古紙、安物のコーヒー、チョークの粉、そして何十人もの大人が吐き出す疲労の気配。テレビ局の、空調で徹底管理された無機質な空気とは対極にある、生々しい生活臭だ。
「いやあ、来ていただけて光栄です。生徒たちも喜びますよ」 学年主任だという初老の男性教師が、揉み手をせんばかりの勢いで笑いかけてくる。その手には、薄い更紙に印刷された今日の日程表が握られていた。 そこに書かれたタイトルを見て、私は頬の筋肉が引きつりそうになるのを必死で堪えた。 『特別講演:元お天気お姉さんが教える! 恋の天気予報士・葵先生の“恋愛前線”講座』 ……恋の天気予報士。誰だ、こんな昭和のアイドルみたいなキャッチコピーを考えたのは。
「インパクト重視でしてね。今の子たち、ただの講演会じゃ寝るだけですから」 私の視線に気づいたのか、主任は悪びれもせず言った。私という人間を「生徒を退屈させないための餌」として見ているのがありありと見え透いている。
「それにほら、先生もいろいろと……大変だったでしょう。その辺の“大人の事情”も、笑える範囲でぶっちゃけてもらえると盛り上がるんです」 主任は声を潜め、ニヤリと口の端を歪めた。 セクハラ騒動も、局を追われた経緯も、この男にとっては「笑えるネタ」でしかないのだ。
私は腹の底で冷たい何かが渦巻くのを感じながら、顔には完璧な営業スマイルを貼り付けた。 「ええ、善処します。教育的配慮の範囲内で」
私の隣で、案内役の友人が小さく溜息をついたのが聞こえた。彼女は主任を軽くあしらいながら、「行きましょうか」と私を促す。
廊下に出ると、休み時間の喧騒が波のように押し寄せてきた。 すれ違う生徒たちが、珍獣でも見るような目で私を見ていく。好奇心、憧れ、そして少しの侮蔑。スマホを向けてくる男子生徒もいる。
「ごめんね、無神経なジジイばっかりで」 友人が小声で謝罪する。 「別に慣れてるわ。テレビの世界も似たようなものだし」
「でも、葵。気取らなくていいからね」 友人は歩きながら、真顔で私を見た。 「あの子たち、鼻が利くのよ。大人が“いい話”をして自分たちをコントロールしようとしてる時ほど、冷めるし反発する。だから――」
彼女は言い淀み、しばし間を置いてから言葉を継いだ。 「えぐい話もしていい。自分の傷を見せることを怖がらないで。ここはテレビ局より残酷だけど、その分、正直な場所だから」
その言葉に、私は足を止めそうになった。 綺麗な言葉で包んで提供するのがテレビの流儀だとしたら、ここは泥を泥として提示することが許される場所なのか。
渡り廊下を抜け、やがて体育館へ入る。 広大な空間特有の、ひんやりとした空気が肌に触れた。 高い位置にあるガラス窓から、朝の光が斜めに差し込んでいる。その光の帯の中を、無数の埃が舞っていた。 外の空は晴れているはずだが、窓ガラス越しに見る空は薄い雲に覆われ、その光は少し鈍い。
キュッ、キュッ。 運動部の生徒がバッシュを鳴らす音。 キィィン――。 放送委員がマイクのテストをして、不快なハウリング音が館内に響き渡る。 「マイクテスト、ワン、ツー。……あー、葵さん入られまーす」 気だるげな生徒のアナウンス。 すべてが雑多で、未完成で、エネルギーに満ちている。
私はステージの袖に立ち、パイプ椅子が並べられたフロアを見下ろした。 ここが今日の私の戦場。 天気予報は「晴れのち一時雨」。 私はスカートのプリーツを一度だけ撫でつけ、マイクのスイッチが入るのを待った。
「――というわけで、統計的に見ても、高気圧の日は人の気分を高揚させ、告白の成功率を上げると言われています」
私の声が、スピーカーを通して体育館の虚空に響く。 ワ、ワ、ワ……と、わずかに遅れて戻ってくる反響音は、私の言葉がいかに上滑りしているかを可視化しているようだった。 ステージ上のスクリーンには、私が現役時代に作成した『快晴デートのすゝめ』というポップなスライドが映し出されている。 青い空、白い雲、そして手を取り合う男女のイラスト。 完璧な「表向き」の資料だ。
しかし、パイプ椅子に並ぶ数百人の生徒たちの反応は、私の予想よりも遥かにシビアだった。 ざわめきともつかない、低い羽音のような私語がフロアを漂っている。
「……なんか、教科書通りって感じじゃね?」 「てか、リアルじゃそんな綺麗にいかないでしょ」
最前列付近に陣取る、一際目立つ男女のグループ。その中心にいるカップルが、遠慮のない声を上げていた。 ブレザーを着崩した男子が、隣の女子の肩に無造作に腕を回している。 「だいたいさー、晴れてなきゃデートとか無理だし。雨とかマジ萎えるっしょ」 「それなー。湿気で髪死ぬし、メイク崩れるし。映えないじゃん」 彼らは笑い合い、私のスライドなど見向きもしていない。
――晴れ絶対主義者たち。 私はマイクを握る手に力を込めながら、心の中で冷ややかに毒づく。 彼らにとって恋愛とは「晴天の下で見せびらかすファッション」なのだ。環境の不快指数が上がっただけで喧嘩別れする、最も脆弱な層。 『そういうやつほど、最初の曇りの日にあっさり別れるのよ』
喉元まで出かけた言葉を飲み込み、視線を少し奥へとずらす。 中央列の端。分厚い眼鏡をかけた男子生徒が、私の顔ではなく手元のスマートフォンを凝視していた。 ゲームか? いや、画面の輝度が高い。天気アプリと、何か確率計算のサイトだ。
「……気圧1013ヘクトパスカル以上じゃないと、脳内セロトニンの分泌量が……」 ブツブツと呟く声が、プロの地獄耳の私には届く。 「ネットじゃ台風の日の告白は『吊り橋効果』でワンチャンあるって説もあるけど、リスク係数が高すぎる……」
――データ依存症。 天気を「環境」ではなく「攻略のパラメータ」としてしか見ていない。自分の勇気のなさを、降水確率のせいにして逃げているタイプだ。
ダメだ。このまま「綺麗な天気の話」をしていても、誰の心にも刺さらない。 テレビの前の視聴者なら「へぇ〜」で済む話も、欲望と不安が渦巻く思春期の現場では、ただの雑音だ。
私は手元のクリッカーを操作し、用意していた「雨の日の注意点」という無難なスライドをスキップした。 画面が暗転する。 生徒たちの私語が、一瞬だけ止まる。
「……さて。ここまでは『テレビ向けの綺麗事』です」 私はワントーン、声を静かに低く落とした。 アナウンサーの発声ではない。もっと地に近い、生身の声色。
「皆さんは、雨が嫌いですか? メイクが崩れる、靴が汚れる、気分が下がる。……でも、本当にそうでしょうか」
ステージの端まで歩き出し、生徒たちを見下ろす。 「晴れの日は、世界が明るすぎて隠れ場所がありません。でも、雨は違います。傘という『個室』が生まれます。雨音という『防音壁』ができます」
ざわめきがぴたりと消えた。 「もし、あなたが誰にも言えない感情を抱えているなら。もし、泣いている顔を見られたくないなら。……天気予報の『雨マーク』は、絶望ではなく、あなたを守るための武器になるかもしれない」
その時だった。 私の視線は、無意識に左後方、壁際の席に向かっていた。
そこで俯いていた一人の女子生徒が、弾かれたように顔を上げたのが見えた。 地味な髪型、目立たない存在感。 周囲の生徒が「えー、雨とかやだー」と茶化す中で、彼女だけは違った。 膝の上に置かれた右手の指先が、ピクリと震え、スカートの生地を強く握りしめる。
――見つけた。 あの子だ。 天気のせいで憂鬱になっているふりをして、その実、雨の中に何かを隠したがっている子。
高窓の外を見上げると、いつの間にか空には灰色の雲の帯が伸びていた。 まだ雨は降らない。でも、気圧は確実に下がっている。
私はニヤリと笑いたくなるのを堪え、真剣な表情を作ったまま言った。 「今日は、そんな『天気の利用法』について、教室で具体的にお話ししましょう」 マイクの反響音が消えた後、体育館には奇妙な熱気が残っていた。
午後の教室は、独特の熱気と倦怠が何層にも層を成していた。 机を寄せて作られた即席の「島」を、私は巡回していく。テレビ番組のひな壇トークとは違う、台本のない生身の相談会だ。 窓から差し込む光は、午前中の白さから、少しずつ黄色味を帯び、そして徐々に灰色へと沈み始めていた。
「だからさー、マジで雨とかテンション下がるだけじゃん? 俺ら、晴れの日以外はデートしないって決めてるし」 一番窓際の班。午前中も騒いでいた「晴れ絶対主義」の彼氏の方が、椅子の背にもたれかかって言った。 隣の彼女も、深く頷いている。
「そうそう。写真暗くなるし、湿気で髪うねるし。そもそも完璧じゃない状態で会いたくないんだよね」
一見すれば、ただの浅はかなリア充のワガママだ。だが、近くで見る彼女の瞳には、どこか切迫した色が混じっているのを私は見逃さなかった。 完璧じゃないと会いたくない。それは裏を返せば、「完璧な自分じゃないと愛される自信がない」という強烈な防衛本能だ。 あるいは、雨の日に家にいたくない、もっと深刻な「家庭の事情」があるのかもしれない。 (なるほどね。晴れにこだわっているのは、攻撃じゃなくて防御ってわけか) 私は彼らの薄っぺらな会話の裏にある、意外と分厚い壁を感じ取っていた。
次の班へ移動する。 そこには、あのノートPCを手放さない「データ男子」がいた。
「先生、統計データによれば、曇天の日の方が副交感神経が優位になって、落ち着いた会話ができるそうです。告白の成功率を関数で表すと……」 彼は画面上のグラフを指で弾きながら、得意げに語る。
私はその画面を覗き込み、フッと小さく笑った。 「その計算式、面白いわね。でも、ここに『異常気象』という変数は入ってる?」
「え? 異常気象……ですか?」 「そう。たとえば、その場にいるだけで気圧を変えてしまうような『晴れ女』や『雨男』の存在。あるいは、相手の女の子がその日、生理痛で不機嫌だった場合のマイナス補正」 彼は言葉を詰まらせ、瞬きをした。
「恋愛はまさにカオス理論よ。バタフライ・エフェクトで、たった一言の失言が嵐を呼ぶ。あなたのアプリは、そこまで計算できているかしら?」 データ至上主義の彼が、初めて「計算外」の表情を見せる。その顔は、少しだけ人間らしくて可愛げがあった。
そして、教室の隅にある班。 そこに、あの子がいた。午前中、私の言葉に反応した「雨女子」だ。 彼女は議論には参加せず、ただ黙って他の生徒の話を聞いている。
だが、その手元だけは雄弁だった。 広げられたノートには、びっしりと細かい文字でメモが取られている。他の子が話す「雨の日の失敗談」や「曇りの日の気まずさ」を、まるで研究データのように収集しているのだ。 私がそっと背後から覗き込むと、彼女はビクリと肩を震わせた。 ノートの端、『雨の日のメリット:音で会話が途切れても気まずくない』という一文に、赤いラインマーカーが引かれているのが見えた。
――この子は、待っているんだ。 雨が降ることを。みんなが嫌がるその天気を、自分だけの味方にしようと虎視眈々と準備している。 かつての私と同じ匂いがした。
「……いいメモね」 私が小声で囁くと、彼女は耳まで真っ赤にして俯き、微かに頷いた。
その時だった。 バタンッ!! 廊下の方で、風に煽られたドアが轟音を立てて閉まった。 教室中の生徒が驚いて振り返る。
窓の外を見ると、いつの間にか空全体が重たい鉛色に覆われていた。校庭の木々が、ざわざわと不穏な音を立てて揺れ始めている。 予報通りだ。気圧の谷が近づいている。
生徒たちの顔に、わずかな不安と、これから何かが起こりそうな期待が混ざり合う。
私は窓枠に手を突き、低く垂れ込めた雲を見上げた。 ここはテレビのスタジオじゃない。 編集もリテイクも効かない、予測不能な生放送の現場だ。そして彼らは、不器用ながらも必死に、自分の「天気」をコントロールしようともがいている。 ――悪くないわ。 仕事モードの仮面が少しずつ剥がれ、私の中に眠っていた「勝負師」としての血が、静かに騒ぎ始めていた。
放課後の昇降口には、独特の気怠さが静かに漂っている。 部活へ向かう生徒の足音、遠くから聞こえる吹奏楽部のチューニング、そして湿り気を帯び始めた風が運んでくる土の匂い。 私はヒールを鳴らして、下駄箱の列を通り抜けた。
「葵、お疲れ。いやあ、凄かったわ。後半のあの空気」 見送りに出てきた友人が、興奮気味に私の肩を叩く。 「特に雨の日の話。あんなに生徒が真に受けるとは思わなかった。『雨は武器になる』ってフレーズ、かなり刺さってたみたいよ」
「……ええ、刺さったわね。ちょっと深すぎるくらいに」 私は愛想笑いを浮かべつつ、内心ではそっと冷や汗を拭っていた。 確かにウケは良かった。だが、テレビの尺に収めるために話を「演出」しすぎたかもしれない。 雨は武器になる。それは確かに事実だ。 しかし、武器は使い手を傷つけることもある。濡れた服の惨めさ、低気圧による頭痛、泥跳ねの汚れ、予定が狂うことへの苛立ち。 私は今日、その「リスク(副作用)」を十分に説明しなかった。メリットばかりを強調して、無防備な兵士たちを戦場へ送り出してしまったような、居心地の悪さが胸に残る。
「さて、明日はどうなることやら……」 私が呟いた、その時だった。
昇降口の柱の陰に、一人の生徒が立っていた。 グループ相談の時、熱心にメモを取っていたあの「雨女子」だ。 彼女は帰るわけでもなく、ただじっと、ガラス戸の向こうの空を見上げている。手にはスマートフォン。画面には天気予報アプリが表示されていた。
私と目が合うと、彼女はビクリと肩を震わせ、それから消え入りそうな声で言った。 「……あの、葵先生」 「なに?」
「明日の夕方……降りますか? 確実に」 その瞳は、純粋な質問をしている目ではなかった。 祈るような、あるいは賭けに出る前のギャンブラーのような、切迫した光が宿っている。
私はプロとして、冷静に客観的な予報を口にした。 「ええ、降るわ。前線が通過するから、夕方には本降りになる。風も強まるはずよ」 普通なら「嫌だなぁ」という反応が返ってくるはずの予報だ。 けれど、彼女は小さく「はい」と頷き、口元をギュッと引き結んだ。その表情には、恐怖ではなく、微かな決意が滲んでいた。 「よかった……。ありがとうございます」 彼女は深々と頭を下げ、駆け足で校舎の奥へと走っていった。
その後ろ姿を見送りながら、隣にいた友人がぽつりと漏らす。 「あの子、テニス部のエースの子が好きらしいんだけどさ。雨だと外練が中止になって、体育館で男女合同練習になるんだって」
――なるほど。 合点がいった。彼女にとっての雨は、想い人と物理的距離が近づく千載一遇のチャンスなのだ。 私が今日教えた「雨の日のメリット」を、彼女は完全に信じ込んでいる。 雨音は会話の沈黙を埋めてくれる。傘は二人だけの密室を作る。 その言葉だけを握りしめて、彼女は明日の嵐の中に飛び込もうとしている。
……危ない。 明日の雨は、そんな生易しいものじゃない。もっと荒れる。初心者があの嵐を利用しようとすれば、大怪我をする可能性が高い。 私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……止めようがなかった、か」 もう遅い。賽は投げられたのだ。
私はガラス戸を開けて、外に出た。 生温かい風が、頬にまとわりつく。 遠くの山並みの上には、どす黒い雲の塊がとぐろを巻くように広がっていた。 明日は雨。 私の予報通りなら、この学校で誰かの恋が動き、そして誰かの心が明日泥にまみれることになる。
私は空に向かって、小さく息を吐いた。 もう、ただの傍観者ではいられない。 降り出した雨に濡れる覚悟を、私自身もしなければならないようだ。
これほどバケツをひっくり返したような、という形容が似合う天気もない。 窓ガラスを叩く雨粒は、もはやリズムを刻むことを放棄し、暴力的なノイズとなって空間そのものを揺らしていた。 放課後の廊下は、水底のように薄暗い。
職員室へ報告書を戻しに向かう私の足元に、点々と黒い染みが続いているのに気づいたのは、ちょうど階段を降りてすぐのことだった。 濡れたローファーの跡だ。 泥と水が混じったその足跡は、規則正しく昇降口の方へと続き、そこで力尽きたように突き当たりの壁際で止まっている。 まるで、敗走した兵士が残した血痕のようだった。
曲がり角からその光景を覗き込んだ瞬間、私は小さく静かに息を吐いた。 そこに、昨日の彼女がいた。 第二章の最後に、あんなにも切実な目で「雨は降りますか」と聞いてきた、あの雨女子だ。 けれど、今の彼女にかつての「期待」の面影はない。
昇降口の隅、傘立ての影に隠れるようにして、彼女はうずくまっていた。 長い髪は湿気で広がるどころか、雨水を吸って重たく頬に張り付き、海藻のように絡み合っている。制服のブレザーは水を吸って黒く変色し、スカートの裾からは絶えず雫が垂れていた。
その手には、ふやけた紙切れがグシャリと握りしめられている。 おそらく手紙だったものだ。 封筒にも入れず、あるいは防水の配慮もせず、生身でポケットに入れていたのだろうか。水性ボールペンのインクは無惨に滲み、青い染みとなって判読不能な抽象画に変わっている。
「葵……これ、ちょっと」 そばに立っていた旧友の教師が、私に気づいて困り果てた視線を投げてきた。 どう声をかけていいか分からず、ただタオルを持ってオロオロしている。教師としては正しい反応かもしれない。下手に踏み込めば、生徒の傷を広げることになるからだ。 私は無言で顎をしゃくり、「口を出すな」と合図を送る。
近づくと、湿った制服特有の匂いと、鼻をすする音が聞こえてきた。
「……さいあく」 彼女が膝に顔を埋めたまま、怨嗟のように呟く。 「全部、台無しだ……」 その声は震えていた。悲しみというよりは、行き場のない怒りに近い。
「雨のせいで、髪もぐちゃぐちゃだし、手紙も読めなくなるし……あんなの、渡せるわけないじゃん」 彼女は濡れた手紙を、汚いものを見るように床に叩きつけた。 「なんで今日なの? なんで、こんなに降るのよ! 雨さえ降らなきゃ、うまくいったのに!」 激情をぶつけるその叫び声が、廊下の高い天井に反響する。
その言葉を聞いた瞬間、私の中で「同情」という感情のスイッチが完全にオフになった。 代わりに、冷徹な「検品者」としての回路が繋がる。
――雨のせい? いいや、違う。 私は彼女の足元を見た。 泥だらけのローファー。防水スプレーの痕跡はない。 崩れた髪。湿気対策のヘアオイルも、ハードスプレーも使った形跡がない。 そして、あの手紙。 雨が降ると分かっていて、なぜジップロックの一枚も用意しなかった? なぜ油性ペンを使わなかった? 彼女は「雨を味方にする」つもりでいたはずだ。 けれど、実際にやったことは、何の装備も持たずに嵐の中に突っ込み、「濡れたから負けた」と泣いているだけ。 それは戦いではない。ただの無謀な特攻だ。
外の雨音がいっそう激しくなる。 蛍光灯の白々しい光の下、濡れ鼠になった彼女は、あまりにも無防備で、そして残酷なほどに「準備不足」だった。
私はゆっくりと、静かに彼女の前に歩み寄った。 慰めるためではない。 その甘ったれた「被害者意識」を、解剖してやるために。
友人の教師が鍵を開けた空き教室は、ひんやりとしていたが、廊下の水底のような冷たさよりは幾分マシだった。
「ここにいなさい。タオル、もっと持ってくるから」 友人はそう言い残し、私に目配せをして出て行った。気まずい空気に耐えられなくなったのか、あるいは私に場を委ねたのか。 パタン、とドアが閉まると、教室には雨音だけが残された。
照明の点いていない室内は、水槽の底のように薄暗い。窓ガラスには無数の雨粒が叩きつけられ、その向こうには、彼女がさっきまで立っていたであろう泥濘んだグラウンドが灰色に霞んで見えた。 私はパイプ椅子に座らせた彼女に、持っていた大判のハンカチを渡した。
「……ありがとうございます」 彼女は小さく礼を言うと、濡れた髪を拭き始めた。その動作一つにも、覇気がない。
「それで、何があったのか、教えてくれる?」 私は教卓には寄らず、窓際に立って腕を組んだまま、突き放すように問いかけた。
彼女は濡れた手紙を膝の上で弄びながら、ポツポツと語り始めた。 「……昨日、先生が言ったから」 「私が?」 「雨は武器になるって。傘の中で二人きりになれるし、音が周りを消してくれるって……だから、今日しかないと思ったんです」
彼女の声が少し強くなる。 朝、天気予報アプリで夕方の雨マークを確認した時、彼女はそれを「神風」だと思ったらしい。 「部活終わりの彼を呼び出しました。傘は……わざと一本しか持っていきませんでした。彼が入ってくれたら、自然と距離が縮まると思って」
相合傘の強制イベント狙い。戦術としては悪くない。しかし、それは「しとしと降る雨」の場合だ。今日のような横殴りの雨でそれをやればどうなるか、想像力が欠如している。
「手紙も、昨日の夜に一生懸命書いて……。でも、渡そうとした瞬間に風が急に強くなって」 彼女は唇を噛んだ。
「傘がひっくり返りそうになって、私がもたついてる間に、彼、言ったんです。『ごめん、濡れるの嫌だから行くわ』って。……そのまま、走って行っちゃいました」 最後の方は、また嗚咽混じりになった。
「最悪です。雨さえ降らなければ、ちゃんと渡せたのに。天気予報がもっと正確なら、こんな目に遭わずに済んだのに」
――雨さえ降らなければ。 その言葉を聞くたびに、私の中で温度のない感情が積み重なっていく。
私は視線を彼女から外し、思考を巡らせるかのように、虚空に指を走らせるふりをした。 脳内で再生されるのは、彼女の語った「失敗シーン」のVTRだ。 元テレビマンとしての職業病。現場の状況確認、尺の計算、機材の配置ミス。それらを淡々とチェックしていく。
「……質問いいかしら」 私の声は、自分でも驚くほど事務的だった。
「呼び出した場所はどこ?」 「え……? グラウンドの、部室の裏です」 「屋根は?」 「……ありません。木の陰なら大丈夫かと思って」 屋根なし。遮蔽物なし。風速5メートルの雨天で、吹きっさらしの場所を選定。
「彼は傘を持ってた?」 「持ってませんでした。だから、私のに入れるつもりで……」 「ターゲットは無防備。濡れることを極端に嫌う男子高校生。そこに傘一本で接近」 私は冷ややかに頷く。
「その手紙、封筒は?」 「あ……可愛い便箋を見つけたから、そのまま渡したくて。シールで留めただけで……」 防水加工なし。剥き出しの紙媒体。 チェック終了。 これは悲劇ではない。ただの「制作ミス」だ。
彼女は、私が同情してくれるのを待っているような目でこちらを見上げ、また言った。 「やっぱり、雨の日に告白なんてするもんじゃないですね。先生の言うこと、信じた私が馬鹿でした」
その瞬間、私の中で何かが弾けた。 カチリ、と音がして、スイッチが切り替わる。
私は窓枠から背を離し、ゆっくりと彼女を見下ろした。 可哀想な被害者? 運が悪かった少女? いいえ、違う。 あなたは、雨という舞台装置をナメてかかって、演出に失敗した三流のプロデューサーだ。
教えなければならない。 雨を言い訳にしていいのは、遠足を楽しみにしていた小学生までだと。
窓を叩きつけていた雨脚が、少しずつ弱まり始めていた。 バチバチという暴力的な破裂音から、やがてサーッという一定のリズムへ。 教室内の湿度は依然として高いが、会話を遮るほどのノイズはもうない。
私は、彼女が床に落とした、青い染みになった判読不能な手紙を拾い上げた。 「……ゴミね」 冷たく言い放つと、彼女の肩がビクリと跳ねた。
「一生懸命書いたのに、ひどい……」 「一生懸命、ね? これが?」 私はふやけた紙片をヒラヒラと振ってみせた。 「予報で雨だと分かっていたなら、なぜクリアファイルに入れなかったの? せめて封筒に防水スプレーをかけるとか、ジップ付きの袋に入れるとか、方法はいくらでもあったはずよ」
彼女は言葉を詰まらせる。 「髪型もそう。湿気で広がるなら、なぜワックスで固めてアップにしなかったの? 巻き髪なんて、湿度80%の前では無力だって分かってたでしょう」
「それは……可愛く見せたかったから……」 「崩れた髪で? 泥だらけの靴で?」 私は畳み掛ける。
「場所の選定も最悪。屋根のないグラウンド脇なんて論外よ。渡り廊下、昇降口の影、あるいはもっと大胆に、相合傘でしか移動できない距離まで踏み込むべきだった」 彼女の目が、悔しさと恥ずかしさで潤んでいく。
けれど、私は手を緩めない。これはイジメではない。事後検証(反省会)だ。 「あなたは『雨のせいで失敗した』と思ってる。でも違うわ。あなたは『雨の日の戦場地図』を描かずに、手ぶらで嵐の中に突っ込んだだけ。それは勇気じゃない。ただの無謀よ」
一度言葉を切る。 彼女の嗚咽が少し落ち着くのを待ってから、私は窓際に歩み寄った。 ガラス越しに見える校庭には、無数の水たまりができている。街灯の光が反射して、キラキラと揺れていた。
「……もったいないわね」 私は呟く。 「これだけの舞台装置(セット)が揃っていたのに」
「舞台……?」 「そうよ。雨は敵じゃない。最強の演出機材だわ」 私は窓ガラスに指を這わせ、雨の流れを辿る。
「今のこの雨音を聞いて。周りの雑音を全部消してくれるホワイトノイズよ。この音の中なら、どんな小さな声も、二人だけの秘密の会話になる」
振り返り、彼女を見る。 「傘の中は、物理的に隔絶された密室になる。肩が触れ合う距離まで近づく正当な理由ができる。濡れたハンカチを渡す、雫を拭う、寒さを共有する……晴れの日には不自然な接触が、雨の日ならすべて『必然』になるの」
昨日の講演で、一番前の席にいた「晴れ絶対主義」のカップルを思い出す。 「晴れた日に、綺麗な服を着て笑い合うなんて誰でもできるわ。でもね、そういう『環境が良い時だけ』の恋人たちは、最初の曇りの日であっさり別れるの。本当にもろいのよ」
私は濡れ鼠の彼女を見据えた。 「雨を味方にできた女だけが、男の記憶に一生残るシーンを作れる。……使いようなのよ、天気なんて」
彼女は呆然と私を見つめていた。 その表情には、まだ納得しきれない色が残っている。「先生は大人の美人だから言えるんだ」という反発心も見え隠れする。
私は近くの机に腰を下ろし、足を組んだ。 生徒相手には行儀が悪いかもしれないが、今は「先生」ではなく「先輩」として話すべきだ。
「私ね、昔付き合っていた……いえ、交渉していた人が、いわゆる上流階級の人だったの」 唐突な自分語りに、彼女が瞬きをする。
「彼らのパーティーは戦場だったわ。政治家や実業家が集まるホテルの最上階。私はそこに『連れて行く価値のある女』として、アクセサリーみたいに侍らされていた」 脳裏に蘇る、シャンデリアの眩しさと、男たちの品定めするような視線。
「ある時、大型台風が直撃した夜があったの。交通機関は麻痺して、ドレスの裾は濡れるし、気圧のせいで頭痛はするし、最悪のコンディションだった」 「……中止にならなかったんですか?」 「なるわけないでしょう? 彼らにとって、天候ごときで予定を変えるのは『敗北』なのよ」 私は自嘲気味に笑った。
「周りの女の子たちはみんな、不機嫌な顔をしてたわ。『湿気で髪が』『タクシーが来ない』って文句ばかり。男たちの機嫌もどんどん悪くなっていった」
でも、私は違った。 私はその嵐を、自分のために利用した。 「私はあえて窓際に立って、外の暴風雨を背景にしたの。荒れ狂う世界と、静かな室内。その対比の中に立つことで、自分の『落ち着き』と『揺るがない価値』を演出したわ。濡れた肩をハンカチで拭きながら、私があえて彼を気遣って見せた」
結果、その夜、一番多くの名刺を集めたのは私だった。 『こんな嵐の中でも、君は美しいね』と。 男のその言葉は、愛の囁きではなく、商品への最高評価(五つ星)だったけれど。
「……高校のグラウンドで、ちょっと泥がついたくらいで泣くんじゃないわよ」 私は彼女を真っ直ぐに射抜いた。 「こっちは、もっとどうしようもない暴風雨の中で、必死に自分の値段を吊り上げて生きてきたの。環境なんて、いつだって最悪よ。でも、その逆境の中でどう立つかで、女の価値は決まる」
私の言葉は、少し強すぎたかもしれない。 けれど、彼女の目から「甘え」の色が消えていくのが分かった。 大人の世界の、冷たくて残酷な現実。 それを突きつけられた彼女は、濡れた制服のまま、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……雨のせいじゃ、ない」 彼女が小さな声で繰り返す。 「雨なのに、私が弱かったから……」
「そう。気づけたなら、上等よ」 私は組んでいた足を解き、立ち上がった。
教えなければならない。 雨を言い訳にしていいのは、遠足を楽しみにしていた小学生までだと。
「天気を恨むのは、今日まででやめなさい。明日からは――天気を使う側に回りなさい」
空き教室を出て昇降口に着く頃には、世界を叩いていた雨音はすっかり嘘のように止んでいた。 代わりに聞こえてくるのは、軒先から滴り落ちる水滴の音だけだ。 ポタリ、ポタリ。 規則的なリズムが、湿った大気の中に吸い込まれるように響いていた。
私たちは無言で靴を履き替えた。 彼女の制服はまだ濡れて張り付いているし、髪も乱れたままだ。けれど、さっきまで彼女の顔を覆っていた、あの泥のような惨めさは消えていた。 ローファーに足を滑り込ませ、彼女は踵をトントンと地面に打ち付ける。
「……先生」 彼女が背中を向けたまま、ぽつりと口を開いた。 「雨のせい、だなんて言うの、やめます」 その声は小さかったけれど、芯があった。 「運が悪かったんじゃない。私がすべて雑だったんです。……全部」
私はヒールの紐を直しながら、淡々と答えた。 「そうね。それに気づけたなら、今日の失敗はただの必要経費よ」 それ以上、慰めも叱責もしない。 彼女にはもう、過剰な言葉は不要だ。
「次、どうする?」 私が問いかけると、彼女は少しだけ考え込み、それから恥ずかしそうに視線を落とした。 「……次は、ちゃんと屋根のある場所にします。あと、手紙はクリアファイルに入れます」
あまりにも初歩的な、小さな一歩。 けれど、それは彼女が自分の頭で描き始めた、最初の「戦場地図」だった。
「いいわね。健闘を祈るわ」 「はい。……ありがとうございました!」 彼女は深々と頭を下げると、まだ水たまりの残る校庭へと迷いなく駆け出していった。その背中は、濡れて寒そうではあったけれど、もう迷っているようには見えなかった。
一人残された私は、ゆっくりと校門を出た。 雨上がりのアスファルトは黒く沈み、街灯の光を乱反射させている。 ふと見上げると、分厚い雲の切れ端が、夕闇の中で白くぼんやりと明るくなっていた。 風が冷たい。濡れた地面の匂いが鼻腔をくすぐる。
私はコートの襟を立てながら、今日自分が彼女に叩きつけた言葉を反芻していた。 ――環境なんて、いつだって最悪よ。
そうだ。 私の手元にはもう、女子アナという華やかな肩書きはない。かつて隣にいた上流階級の恋人も、その背後にあった煌びやかな世界も、すべて失ってしまった。 今の私は、地方の片隅で働く、ただの三十路女だ。 客観的に見れば「転落」かもしれない。
けれど、私の中には確かに残っていた。 どんな嵐の中でも立ち続け、自分を高く見せるための「準備」と「演出」。 そして、誰にも媚びずに泥沼を渡りきってきた「誇り」。 それらは、誰に与えられたものでもない。私が自分の人生で磨き上げ、勝ち取ってきた技術(スキル)だ。
水たまりに映る自分の顔を覗き込む。 メイクは少し崩れているが、目は死んでいない。 立場は失った。 けれど、私の“戦い方”だけは、まだ誰かの役に立つし、価値がある。
私は空に向かって、ゆっくりと息を吐いた。 遠くの空で、名残りの雷が低く唸るのが聞こえた。 嵐は過ぎ去ったわけじゃない。次の前線はまたすぐにやってくるだろう。
でも、もう怖くはない。 私はバッグを持ち直し、濡れた路面を力強く踏みしめて歩き出した。
季節が二つほど巡り、風景を染める光の粒子が変わった頃だった。 新しい訪問先である県立高校の応接室は、過剰なほどの日当たりに溢れていた。南向きの窓から射し込む初夏の日差しが、使い込まれた革張りのソファや、埃っぽい観葉植物の葉を白く飛ばしている。
私は出されたばかりの緑茶の湯気を眺めながら、目の前で興奮気味に捲し立てる生活指導教諭の話を、BGMのように聞き流していた。
「いやあ、本当に驚きましたよ。先生の評判、うちの生徒たちの間でも凄いんです」 中年男性特有の、粘りつくような湿り気を帯びた高い声。彼は手元のタブレット端末を指先で弾き、私に見せつけてきた。 画面に映っているのは、SNSのタイムラインだ。 『葵先生キター! 実物マジ美人』 『例の“雨の日の攻略法”聞けるかな』 『隣の高校の先輩、あれ実践して成功したらしいし、神確定』
無責任な噂と、過剰な期待。 ネットの海を漂うそれらの言葉は、かつて私を「疑惑の女子アナ」として袋叩きにしたものと同じ成分でできている。 けれど、今の私に向けられる視線には、明らかな変化があった。
「“恋の天気予報士”……でしたっけ? 生徒が勝手につけたあだ名らしいですが、いやはや、キャッチーでいいじゃないですか。校長も『ぜひ呼びたい』と二つ返事でしてね」 教諭は揉み手をしながら、私を「有能な客寄せパンダ」として見る目を隠そうともしない。
私は湯呑みを口に運び、訓練された完璧な角度で微笑んでみせた。 「光栄です。ただの経験則をお話ししているだけなのですが、お役に立てているなら何よりです」 謙遜する言葉とは裏腹に、私の頭の中は徹底して冷え冷えとしていた。
デジャヴだ。 かつて、煌びやかなシャンデリアの下で、上流階級の男たちに値踏みされていたあの頃と同じ感覚。 彼らは私を「人間」としては見ていなかった。「連れて歩くのに相応しいトロフィー」として、「場を華やかにする彩り」として消費した。 そして今、この学校も、生徒たちも、私を「恋を叶えるための便利な装置」として消費しようとしている。 構造は何も変わっていない。結局のところ、私はショーケースの中の商品だ。
けれど――。 私はふと、自分の膝の上に置いた手に視線を落とした。 あの頃、私の手は男の腕にすがりつき、機嫌を損ねないよう常に震えていた。 だが今は違う。 この手には、自分で書いた台本(シナリオ)がある。自分で選んだ移動手段があり、自分で決めた「売り文句」がある。 私は「消費される」のではない。そうではなく、「自分という機能を売っている」のだ。
その主導権の違いが、私の背骨を一本通していた。 かつては屈辱だった「役割を演じること」が、今は奇妙なほど心地よい。それはきっと、私が自分の意思でこの仮面を被り直したからだろう。
「――では、そろそろお時間ですので。体育館の方へ」 教諭に促され、私は席を立った。
廊下に出ると、窓の外には暴力的なまでの青空が広がっていた。 雲ひとつない、突き抜けるような快晴。 気象庁の発表によれば、今日の降水確率は0%。高気圧が日本列島をすっぽりと覆い、完璧な行楽日和を約束している。 生徒たちも、先生たちも、この空を疑いもしないだろう。
けれど。 私は歩きながら、ふと足を止めて東の空を見上げた。 視界の端、地平線の境界あたりに、薄い刷毛で掃いたような白い筋が見える。巻雲だ。 さらに、肌に触れる風には、アスファルトの熱気とは違う、わずかな湿り気が混じっている。鳥たちが飛ぶ高度も、心なしかいつもより低い。
(……崩れるわね) 予報図には現れないレベルの、微細な大気の揺らぎ。 おそらく夕方前、局地的な通り雨があるか、あるいは急激な突風が吹く。 完璧な晴れなんて、この世界には存在しないのだ。
どんなに美しい青空の裏側にも、必ず次の雨の種が潜んでいる。そして反対に、どんな土砂降りの雨雲の上にも、必ずこの青空がある。 昔の私なら、この「予測できない瑕疵(キズ)」を許せず、完璧であろうとして自滅していただろう。 けれど今は、その空の嘘さえも、愛おしく感じる。 晴れも雨も、ただそこにある現象に過ぎない。 それをどう読み、どう乗りこなすか。
もう怖くはない。 私は誰に聞かせるでもなく小さく呟く。
「さあ、予報の時間ね」 私は光の満ちる廊下を、ヒールを高く鳴らして歩き出した。 背筋を伸ばし、顔を上げ、「恋の天気予報士」という看板を背負って。
講演後の教室は、まさに光の洪水だった。 大きな窓から差し込む真昼の日差しが、生徒たちの白いシャツに反射し、部屋全体の露出を上げている。 私の周りには、休み時間のチャイムと共に数人のグループが集まっていた。
以前の学校と違うのは、彼らの手に握られたスマートフォンの画面だ。そこには、あらかじめ検索された私の名前や、例のまとめサイトの記事が表示されている。
「ねえ先生、これマジですか? 『雨の日の告白は成功率が高いけど、事故率も高い』って記事、」 茶髪の男子生徒が、面白半分に画面を突きつけてくる。 そこには『元女子アナが教える! 恋の天気予報・注意点まとめ』という、誰が書いたかも分からない記事が踊っていた。 内容を目で追うと、どうやら第三章での「雨女子」の一件が、尾ひれ背びれをつけて拡散されているらしい。「準備不足で特攻して自爆した先輩がいる」という都市伝説として。
私は苦笑しながら、冷静に彼女たちに釘を刺す。 「マジよ。雨は武器になるけど、整備不良の銃を撃てば暴発する。そういう教訓ね」 生徒たちが「うわー、やっぱり」「ガチじゃん」と顔を見合わせて笑う。 私の知らないところで、私の言葉は勝手に形を変え、警告となり、彼らの恋のテキストになっている。
「先生、私は逆なんですけど」 次に手を挙げたのは、メイクも髪も完璧に整えた女子生徒だった。 「告白動画をTikTokに上げたいんで、絶対に晴れてくれないと困るんです。テーマパークのパレードの時間に合わせて、逆光で撮りたくて」
晴れ絶対主義の現代版だ。彼女にとって恋は、体験するものではなく、発信するためのコンテンツなのだろう。
私は彼女の瞳を見つめ、諭すように言った。 「いい? 『映え』を狙うのは構わない。でも、完璧な西日とパレードの音は、肝心の彼の声を消してしまうかもしれないわよ」
「えっ」 「スマホの容量がいっぱいになったら動画は消すでしょう? でも、心に焼き付いたシーンは、一生クラウドに保存しなくても消えない。……少しはノイズが混じっているくらいの方が、記憶の解像度は上がるものよ」 彼女はキョトンとしていたが、やがてスマホをポケットにしまい、小さく「なるほど」と呟いた。
予報士としての手つきで、次々と飛んでくる相談を捌いていく。 降水確率と勝率を直結させたがる理系男子には「人の気分は線形関数じゃ表せない」と笑い飛ばし、強風を怖がる子には「風は背中を押すものよ」と教える。
その時だった。 集団の後ろで話を聞いていた、大人しそうな女子生徒が口を開いた。 「あの……私、聞いたことがあります」 彼女の声に、周りの視線が集まる。
「隣の県の高校に行ってる先輩の話なんですけど。その人、一回雨の日に告白して、すっごい失敗したらしいんです」 私は内心で眉を動かした。間違いなく、あの子だ。
「でも、その先輩、『天気のせいにするのはダサいからやめる』って言って……この前、もう一回リベンジしたって」 「へえ、懲りないね。で、また雨の日に行ったの?」 周りの男子が茶化す。
けれど、彼女は首を横に振った。 「ううん。二回目は、ふつうの曇りの日だったって。雨も降ってないし、晴れてもいない、特別なことはない日に呼び出したらしいよ。『私が一番落ち着いて話せる天気だから』って」
――! その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で、温かいものがじわりと広がった。 彼女は、「雨を武器にする」という私の教えさえも超えていったのだ。 雨が良いとか、晴れが良いとか、そんな環境論に振り回されるのをやめた。 自分が一番自分らしくいられる空を選んで、自分の足で彼のもとへ歩いていった。
「……そう」 私は短く相槌を打つことしかできなかった。
「で、その先輩、どうなったの?」 「さあ? そこまでは聞いてないけど……でも、なんかスッキリした顔してたって」 生徒たちの噂話は、そこで途切れて別の話題に移っていった。
結果は分からない。 成功してカップルになったのか、あるいは玉砕したのか。 その結末を、私が知ることはもうないだろう。
けれど、それでいいのだと思った。 私は予報士だ。空模様を読み、傘を渡すところまでは手伝える。でも、その傘をさしてどこへ歩いていくかは、彼女たちの自由だ。
観測できない「その後」があること。 その余白こそが、彼女たちが確かに自分の人生を生きている証拠なのだから。
ふと窓の外を見ると、強まってきた風が、教室の観葉植物の葉を揺らしていた。 空を見上げる。 さっきまでの突き抜けるような青空に、いつの間にか白い雲が増えている。 天気は下り坂かもしれない。
でも、その不安定な空の下で、あの子はきっと、もう空を睨みつけたりせず、真っ直ぐ前を見て歩いているはずだ。 私は揺れる緑を見つめながら、届くことのない温かい拍手を、心の中で彼女へと送った。
駅ビルの最上階にあるカフェラウンジは、地上よりも少しだけ時間が隔絶されている気がする。 講演を終え、帰路につく前の短い休息。 私は深煎りのブレンドコーヒーの香りを吸い込みながら、バッグから一通の封筒を取り出した。
先週、編集部気付で届いていた手紙だ。 差出人の名前を見て、すぐにピンときた。あの嵐の日、ずぶ濡れになって泣いていた彼女だ。 かつて泥水で滲み、判読不能になっていた手紙とは大違いだ。パリッとした白封筒に、几帳面な丁寧な文字で宛名が書かれている。
私はペーパーナイフで封を切り、便箋を広げた。 『拝啓 葵先生。 あの日、雨のせいにして先生に当たり散らしたこと、本当にごめんなさい』 冒頭から、素直な謝罪の言葉が並んでいた。
読み進めると、彼女の葛藤が正直に綴られている。 あの日、私の言葉が悔しくてたまらなかったこと。しばらくは恋なんてどうでもいいと投げやりになったこと。 けれど、自分の濡れた靴や崩れた髪を思い出すたびに、先生の言った「準備不足」という言葉が棘のように刺さって抜けなかったこと。
『先生は「雨を使え」と言いました。でも、私は考え直しました。 私にはまだ、雨を武器にするほどの技術も自信もありません。だから、まずは普通の自分で、普通にぶつかってみようと思いました』 彼女が再戦の舞台に選んだのは、雨の日でも晴れの日でもなく、放課後の図書室だったという。
空調の効いた、静かな空間。 そこで偶然彼と二人きりになった時、彼女は用意していた手紙ではなく、自分の言葉で話しかけたらしい。
『結果だけ言うと、すごく“普通の天気”みたいな答えをもらいました』 成功したのか、振られたのか。 彼女は明確な言葉を避けていた。
あるいは、その「白黒」の結果よりも、もっと大事なものを手に入れたのかもしれない。 手紙の最後は、こう結ばれていた。 『今はもう、あの日の失敗を雨のせいだとは思っていません。 次に雨が降ったら、その時はきっと「また挑戦できる日が来たな」って、少しだけワクワクできる気がします』
私は便箋を丁寧に折り、封筒に戻した。 胸の奥に、静かな充足感が広がる。 彼女はもう、私の予報を必要としない。自分で空を見て、傘を持つかどうかを決められるようになったのだ。 それは予報士として、少し寂しく、けれど最高に誇らしい瞬間だった。
ふと、カフェのガラス越しに、外のエスカレーターホールへ視線をやった時だった。 数人の、仕立ての良いスーツを着た男たちの集団が上がってくるのが見えた。 その中心にいる人物を見て、私の指先がピクリと止まる。
――彼だ。 かつて私が隣を歩き、その機嫌一つに人生を左右されていた、上流階級の元恋人。 彼は相変わらず、自信と傲慢さを絶妙なバランスで配合したような笑顔を浮かべていた。そしてその腕には、若い女性が寄り添っている。 濡れたような艶のある髪、完璧なメイク、ブランド物のワンピース。 彼女は彼を見上げ、愛想よく微笑み、頷いている。 まるで鏡を見ているようだった。
あれは数年前の私だ。「画面映えするアクセサリー」としての役割を、必死に全うしようとしている誰か。 彼らの視線が、ガラス越しにこちらを掠めた気がした。 目が合ったかもしれないし、ただの風景として流されたかもしれない。
昔の私なら、咄嗟に背筋を伸ばし、「今の私だって負けていない」と虚勢を張ろうとしていただろう。あるいは、捨てられた惨めさで目を伏せていたかもしれない。 けれど、今の私は、椅子の背もたれに深く体を預けたまま、微動だにせず、彼らを静かに見送っただけだった。
手元には、女子高生からの手紙がある。 私の仕事の確かな結果。私が選んだ生き方の証。 ガラスの向こうを通り過ぎていく彼らが、まるで映画のワンシーンのように遠く感じられた。
胸に残ったのは、痛みでも未練でもなく、「懐かしさ」という名の穏やかな残像だけだった。 彼らは彼らの天気(ルール)の中で生きている。それは華やかで、過酷で、嵐のような世界だ。 でも、私はもうその空の下にはいない。
(あの頃の私は、誰かの空模様で生きていた) 彼の機嫌が晴れれば笑い、嵐になれば怯えた。 でも今は違う。 私は自分の意思で空を見上げ、自分の足で歩く場所を選んでいる。
ふと窓の外を見ると、空の色が変わり始めていた。 西の地平線には、溶け落ちるようなオレンジ色の夕陽。 頭上には、まだ青さの残る空。 そして東の空には、夜を連れてくる紫色の雲と、遠い街で降っている雨のカーテンが見える。 晴れと、曇りと、雨。 それらが一つの空に同居している。 どれが良いわけでも、悪いわけでもない。ただ、世界はそうやって回っている。
私はカップに残ったすでに冷めたコーヒーを飲み干した。 苦味の中に、微かな酸味が混じっている。それは、大人の自由の味に似ていた。
気がつくと、私は予定していた駅の一つ手前で電車を降りていた。 魔が差した、と言えばそれまでだが、今の空気を空調の効いた車両の中ではなく、肌で感じたかったのだ。 駅の裏手に広がる川沿いの土手を歩く。
日没直前の時間は、世界の色が最も曖昧になるマジックアワーだ。 川面を渡る風は少し冷たく、湿った土と、誰かの家から漂う夕餉の匂いが混じっている。
私は立ち止まり、ゆったりと空を見渡した。 西の地平線は、燃え尽きるような深いオレンジ色。 頭上には、夜を待ちわびる静かな群青色。 そして東の彼方には、まだ居座っている灰色の雲の塊。
晴れでも、曇りでも、雨でもない。 すべての天気が一つの空に同居し、静かに溶け合っている。かつての私が一番嫌った、「定義不能」な空模様だ。
けれど不思議と、今の私にはこの空が美しく見えた。 白黒つけられない感情も、割り切れない関係も、すべてそのままそこにあっていい。そう許されている気がした。
(……さて、これからどうしようかしら) 私は川の流れを見つめながら、ぼんやりと未来を思う。 今日の手紙。生徒たちの噂。 どうやら「恋の天気予報士」という仕事は、私が思っている以上に需要があるらしい。 学校を回るのもいい。あるいは、ラジオの深夜枠で、眠れない誰かの恋の雨音を聞くのも悪くないかもしれない。
私はこれからも、他人の空模様を読み続けるだろう。 傘を差し出し、風向きを教え、時には「濡れてこい」と背中を押す。 それが、私が選んだ商売だ。
じゃあ、私自身の恋はどうする? ふと、そんな問いが浮かぶ。 かつてのように、自分の市場価値を高めるための恋愛をするつもりはもうない。 誰かの隣に立つために、自分を天気図に合わせて書き換えるような真似もしない。
この先、誰かを好きになるかもしれないし、ならないかもしれない。 嵐のような恋が来るかもしれないし、一生穏やかな凪が続くかもしれない。 でも、それでいい。
私は大きく息を吸い込み、冷たい空気を肺いっぱいに満たした。 ――明日の天気なんて、どうでもいい。 心の中で、そう呟く。
予報なんてしなくていい。 雨が降ったら、降った時に考えればいい。傘がなければ濡れればいいし、寒ければ走ればいい。
私にはもう、濡れることを恐れて立ち尽くしていた頃の弱さはない。 泥にまみれても、化粧が落ちても、私は私の足で歩いていける。その自信こそが、今の私の唯一の確実な「予報」だ。
カツ、カツ、カツ。 再び歩き出す。 昨日までの雨の名残か、アスファルトの窪みに小さな水たまりができていた。 私はそれを避けることなく、その縁を迷いなく軽やかに踏み越えていく。
濡れた路面に映る空は、雲交じりで、決して完璧な青空ではない。 でも、そこには無限の広がりがあった。 天気は変わる。 だからこそ、人は準備をして、怯えて、失敗して、それでも最後には笑うしかないのだ。
私の足音だけが、夕暮れの土手に響く。 そのリズムは、どこまでも迷いなく、新しい明日の空へと続いていた。
恋の天気予報士 伊阪 証 @isakaakasimk14
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