SOUVENIR(スーベニール)
木崎 百美
第1話
冬の寒さが厳しければ厳しいほど、春が待ち遠しいのは、北国ではごく当たり前の事だ。
深い雪や凍える寒さや切れそうな冷たい風に、長い冬の間中ずっと苛めつけられてきた人々は、春の香りも敏感に感じる事ができるものらしい。
ようやく雪もすべて消え、瑞々しい若緑がそこここにあふれ、日差しはほんわりと暖かく吹いている風は柔らかで、春のほんのり甘い香りがしている。
通りのあちこちで日向ぼっこしている犬たちからも、お日様と若草の匂いがしてくるようだ。
そして、人々は底抜けに明るく元気だった。
「さぁさ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。この市場でないものは、ないよ!無けりゃぁ買えねぇときたもんだ。
よっ!そこのハンサムな金髪のお兄さん!お連れの綺麗なお嬢さんに、どうだい、この髪飾り。美女の黒髪にはよく似あうねぇ。それともスカーフがいいかい?ますます惚れられること間違いないしだよっ!」
市場の中での呼び込みに、隣で彼女がくすくす笑った。
「ハンサムな金髪のお兄さんってあなたのことでしょ?買わなくていいの?」
「綺麗なお嬢さんに、かい?」
笑いながら僕が言うと、彼女がまたくすくすと笑った。
「ますます惚れられる、だって」
僕は首をかしげた。
「君が欲しいならいくらでも買ってあげるけど、あれが欲しいの?」
男が手にした極彩色の派手な色目のスカーフと髪飾りをちらりと見て、彼女がかぶりを振った。
「そうね、あれは欲しくないわ。もっと違う感じのがいいの」
僕らに声をかけたその中年の男は、口八丁で次々とそこらを歩いている人々をネタにして呼び込みを続けていく。
「やぁ、そこの綺麗な若奥さん。子供用のこんなおもちゃはどうかねぇ?それとも自分用にこんなドレスってぇのもあるよ。そっちのいかしたお兄さん、いい葉巻が入ってるんだが、どうだい、どうだい」
「ねぇ、私も若奥さん、なんだけど。そうは見えないのかしら?」
僕の腕にしっかりと掴まり、人ごみの中を流されまいとしながら、彼女が不満そうに唇を尖らせた。
「呼び込みだもの。女の人は、みんなお嬢さん。男はお兄さんになるんだよ」
「若奥さんは?」
首をかしげる彼女に、僕は無言で若奥さんと呼ばれた女性の方を見やった。
もうだいぶ薹の立った、もうすでに孫でもいそうな感じの落ち着いた女性だった。
「なるほど、そういうことか」
隣で彼女が真面目な顔でひとりごちたのがおかしくて僕が笑うと、彼女が軽く僕を睨んだ。
「だって、初めてだもの。こんな大きなバザールって」
「よかったね、いろいろ勉強になって」
僕が笑うと、彼女はつんと顔を上に向けた。
「ええ、とーっても。わたしの旦那様は、必要以上に物知りだし」
「え?なに、その、必要以上に物知りって?」
僕が聞き返すと、彼女は口をへの字にして、白く細い指で僕の胸のあたりをつんとつついた。
「あぁら、さっきのことなのに。胸に手をあてて考えてみたら?」
あぁあれか、と僕は苦笑した。忘れてくれてたら、よかったんだけどなぁ。
ドーンの町に着いたのは、昼を過ぎたあたりで、僕と彼女はまず宿を探して馬と荷物を預ける事にした。
ここへ来たがったのは、実は僕ではない。
僕たちの結婚式が終わってどこかへ旅にでも出ようか、というときに彼女に何処がいいかと聞いたら、
「あなたの生まれ育った町がいい」
という答えが返ってきたのだ。
そういえば十五で破門になって以来、ドーンにも師匠の工房があった村にも一度も戻ったことがなかった。
僕は少し躊躇した挙句、それを承知したのだった。
もう何十年ぶりになるのかわからないほど、ご無沙汰していたドーンの町は、新しいところが多く古いところがひっそりと残っている、懐かしいというよりも見慣れない町、といった風情だ。
ごくたまに少年の頃に見た看板が残っていると、何故あれがここにあるのだろう、と逆に不思議な気持ちになってしまう。
このごろは町を元の形を思い出せないほどに作り変えてしまうのが、流行っているのだろうか。
旅をしていると、何百年も変わらぬ町並みを維持しているところと、しばらく見ないだけですっかり面変りする町がある。
ドーンはどうやら後者のようだった。
町に着いてきょろきょろとあたりを見回している僕を見て、彼女は「懐かしい?」と聞いてきたが、正直なところ、素直にうん、とは言えなかった。
まるっきり見慣れない町になっている。ここは僕の知っているドーンじゃない。
心の中のつぶやきが聞こえたのか、彼女が慰めるようにきゅっと僕の手を握ってくれた。
やがて大通りの中ほどに大きくて綺麗な宿を見つけて部屋をとったのだが、そのとき通りをぐるっと見回していた彼女が、
「あの宿って妙に派手派手しいのね?」
と目を丸くしたのが、向い側の通りに見えている赤とピンクの看板と扉をつけた、宿場ごとにある、まぁいうなれば、そちらの商売に従事している女性がいっぱいいる、淫売宿(ここは小声かな?)だった。
看板には確かに『宿』と書かれているのだが、明らかに普通の旅人用のものではない。
そういうものは本来、裏通りにあるべきだと思うのだが、これもドーンの町並み改革と言うものなのだろうか?
確かにアレックスあたりは、よくこういうところに泊まりたがるのだが、「街中の表通りにあるなんざぁ、色気もそっけもねぇよな」などと言いそうだ。
うっかり僕がそう教えると、彼女は初めのうちは、へぇ?と聞いていたが、やがて厳しい表情になった。
「よーくご存知なのね。そういうとこ。男のたしなみってもんかしら?」
しまった、詳しく説明しすぎた、と思った時には、もう遅かった。
彼女の大きな黒い目がきらきらと輝いて、僕を睨みつけていた。
彼女はご機嫌が斜めになりかけている。
僕は無言で肩をすくめるしかない。
言い訳すると、かえってややこしくなる。
しかたがないので急いで荷物を置いてドーンの町で一番大きいバザールに連れ出して見たのだが、やっぱりまだ斜めらしい。
まあ確かに新婚記念の旅には、全然ふさわしい話題じゃないけどね。
僕が相当、困った顔をしたのだろう。
彼女は、つんとしていた顔を崩して、くすくすと面白そうに笑った。
「もう、本当に困った人ね。そんな顔されたら、わたしの方が困っちゃう。
何かうまい言い訳するとか、何かないの?なんて言い訳するのか、楽しみにしていたのに」
僕はふうっと息をついた。
「からかってたわけ?」
彼女はううん、と首を振った。
「怒ってたわよ、ほんとに。でも、もういいの。それよりわたし、欲しいもの見つけたの」
え?と、僕が改めて問う暇も無かった。
彼女は僕の手をつかむと、ひとつのテントのほうへ半ば駆けるように引っ張って行った。
「ね、素敵よ!」
うっとりしたように彼女の足が止まった。
もうすでに彼女の目は、いろいろな物を品定めしているようだ。
確かにその店には、品のいい洗練された物がたくさんあった。
遠目にちらりと見ただけで、この店を選んだ彼女に僕はいたく感心し、同時に迂闊なことはできないなということを改めて思う。(いや、別にするつもりもないんだけど、ね?)
何はともあれ、買い物をしてご機嫌が直ってくれれば、それに越した事はない。
ちょっとほっとした僕は、洋服や布地を店の売り子の女の子と一緒に夢中で品定めしている彼女から離れて、ぶらりと中へ入ってみた。
店の前は人がごった返しているが、中はさほどでもない。
店の前は女性向きの小物や衣類、装身具などが多いが、奥に行くにしたがって大きな物が多くなり、子供の背丈ほどの大きく美しい花瓶や凝った細工の調度品や絵画なども置かれていた。
一番奥の帳場らしきところには、この店の親方らしき初老の男がパイプを燻らしながら、造りがしっかりしていて頑丈そうな椅子にゆったりと腰掛けている。
気のせいか、彼は僕が入っていった時からじっとこちらを見ているような感じだった。
何故だろう?
僕も彼女も身なりは悪くない。
泥棒にも詐欺師にも見えないはずだが、と心の中で苦笑しながらも、僕はその視線を気にしない事にして、殊更ゆっくりと品物の間を歩き回り、じっくりと眺めることにした。
やがて、棚の奥にひっそりと置かれた回転木馬の形をしている可愛らしい音匣(オルゴール)に目がとまった。
淡い色に塗られた美しい木馬には、小さな輝石がいくつもはめ込まれている。
それでいて色合いがふんわりと上品で、いかにも夢の国の乗り物、といった感じが気に入った。
細工もとても丁寧だ。
手を伸ばし、きりきりと木ねじを回してみる。
細く繊細な音楽と共に10頭ほどの色とりどりの木馬が、上下に動きながらくるくると回りだした。
それを見て僕は、彼女と出会った移動遊園地を思い出していた。
確かあの時も、回転木馬がこんな風に回っていた。
彼女も覚えているだろう。きっと喜ぶに違いない。
いや、そうでなくてもこの木馬には、何か心惹かれるものがある。
どこかで見たような懐かしさ、とでもいうのだろうか?
「どうだい?いい出来だろう?職人だった俺の父親が作ったんだが」
ふいに横合いから太い声がした。
パイプを咥えた店の親方が、いつのまにか僕のそばに立っていた。
彼がくゆらせている煙草のいい香りを吸いこんで、僕は微笑んだ。
「ええ、とてもいい出来ですね。音も色合いもとても綺麗です」
親方は満足そうにうなずいた。
「金20枚と銀5枚、ってところだ」
さっきの視線は、上客だと思われたからなのだろうか?
相場よりかなり高い。
僕が素直にそう言うと、親方はにやりと笑った。
「正直なとこ、俺はあんまり売りたくは無いんだ。親父の形見だしな。だが、物はいいから、ぼってるわけではないよ」
確かにそこらでよく見かけるものよりは、技術的に優れているようだ。
「ここで切り替えられるんだ」
親方が台座の上にあった小さなレバーを押し上げると、ふいに曲が変わった。
明るい音楽に合わせて、今度は木馬が一番高い位置へ上がったところでくるりと回転してみせた。
実際の木馬であったら乗ってるほうは目が回るだろうが、この
「すごいな。凝ってますね」
こんな綺麗な
とはいえ、ドーンから僕の城までは結構な道のりがある。
こんな大きさの繊細な細工物を、馬に乗せて運んでも大丈夫だろうか?
魔法をかけなければ、無事に運べないかもしれない。
「マリオン、ねぇ、どっちの色が好きかしら?」
考え込んでいると、店の前にいたはずの彼女が、蒼銀色と薄い若草色の毛織布の見本を両手に持って中へ駆け込んできた。
彼女のコートドレス用にしては、色合いが少しくすんでいる。
「僕のかい?フェリシア」
嬉しそうに彼女は微笑んだ。
「ええ、そうよ。上着にするのよ。どっちが好き?マリオン」
首をかしげて彼女がそう尋ねると、僕が答える前に店の親方が大きな声をあげた。
「マリオン!」
ふいに彼に大声で名前を呼ばれて、彼女も僕も驚いてそちらを見た。
フェリシアは、怯えたようにしっかりと僕の上着の袖をつかんでいる。
「それは僕の名前ですが、僕に何か?」
少し警戒するような口調になったのは、無理も無いだろう。
「やはり、そうなのか!?似ているとさっきから思っていたんだ。ちょっとここで、待っててくれ」
親方はそういい置くと、慌てて店の奥へ入っていった。
「ね?何あれ?どうしたの?」
小さな声で彼女が不安そうにささやいてきたが、僕はすっかり好奇心をそそられていた。
さて、僕は何に似ているのだろう?そして何故、僕の名前に彼は反応したのだろう?
「大丈夫だよ」
僕は彼女を安心させるように抱き寄せて、微笑んで見せた。
たとえ彼が、王都の軍隊を一個師団連れてきたとしても、僕たちに危害は加えられない。
やがて店の奥から親方は、その手に四角い何かを持って出てきた。
大きな身体をゆすりながら僕の前に飛ぶようにして駆け戻って来ると、彼は無言でそれを差し出した。
手にとると、それは便箋の大きさの小箱で、蓋の部分には象牙が施されており、そこに繊細で精巧な筆致で
描き込まれているのは、2人の少年と1人の男性。
左端にいるのは背の高い青い目のひょろりとした少年、右端にはそれより少し背の低い白っぽい髪の初老の男性。
そして、真ん中には、まっすぐな笑みを浮かべた金髪の小柄な少年。
「あら?!これ、あなたに似てない?」
僕の手元を背伸びするように覗き込んでいたフェリシアが、驚いたような声をあげてその真ん中の少年を指差した。
「やっぱり、そう思うだろう?あんた、だよな?しかも」
親方は満足そうに言うと、まじまじとその絵を眺めている僕の手元に、ひょいとごつい手を伸ばして蓋を開けた。
「中も見てみなよ」
中を開くと、蓋の裏にもう少しばかり成長した、真ん中の少年の横顔が描いてあった。
その何かをじっと考え込んでいるような表情を浮かべた横顔の下には、金を塗りこめた文字が小さく彫ってある。
『わが友、マリオンへ。思い出の地へようこそ』
「まさか、ショーン・・・」
呆然としている僕のつぶやきに、親方が弾かれたように顔をあげた。
「それは、俺の親父の名前だ」
僕は、まじまじと親方の顔を見た。
そういえば、どこかに彼の面影があるだろうか?
親方の目の色が、ショーンと同じ夏の空色であったことに僕は初めて気がついて、思いがけず胸が熱くなった。
「やっぱりあんたがこの真ん中の少年、なんだな?親父がよく言っていた。とても腕の立つ魔術師で俺の自慢の友達だ、と」
「自慢の、友達?」
ショーンは、僕の事をそんな風に見ていてくれたのか。
「それにしても、やっぱりあんた、すごい魔術師なんだな。親父と変わらない年齢には、到底思えねぇ。どう見ても二十代くらいだろ?」
親父はゆるゆると首を振った。
「だから、最初は見間違いだと思ったよ。この絵は子供顔だし、よく似た別人か、ともな。だけど」
親方は、一所懸命僕の手元を覗き込んでいるフェリシアに目をやった。
「この綺麗な人は、奥さんかい?さっき、あんたの名前を呼んだだろう。最初は聞き違いだと思ったが」
名前は、二度呼ばれた、間違えようが無いほど近いところで。
「小さい時から何度も親父に聞かされたよ。マリオンという名前の金髪の男が、もしここへ来たら、是非これを渡してくれ、と。彼は凄腕の魔術師だから、そう簡単に年を取ることはないはずだ、とも」
親父は小箱を指差し、にっこりと微笑んだ。
「そうは言っても、本当に俺が生きているうちに、こんな日がくるとは思っていなかったよ。これで肩の荷が下りた。やっと渡せる」
僕は無言で、もう一度、箱の蓋を閉じた。
そこに描かれているのは僕と、ショーン本人と、そして僕が預けられていた魔法の工房の師匠だった。
僕の隣でのほほんとした顔で、のんきな微笑を浮かべているひょろりとした少年はもちろんショーンだ。
そして、真面目な顔にかすかに笑みを浮かべた背の高い初老の男性は師匠。
とてもよく描けている。あまりに似すぎていて、懐かしさのあまり僕は胸が痛くなった。
「あの、お父様は?」
無言の僕を見やりながら、フェリシアがためらいがちに親方に尋ねた。
親方は目を伏せ、首を振った。
「亡くなったよ。十年程前に・・・」
フェリシアが慰めるように寄り添い、僕の顔を見上げた。
「大丈夫だよ、知っていたから・・・」
僕は静かに彼女に言った。
そう、知っていた。
だが、今でもそのことを考えると胸が痛む。
彼を失ったと知ったときの喪失感が、今でもふいに僕の胸を蝕むことがある。
それは号泣するとか慟哭(どうこく)する、とかいうものとはまた違った、穏やかで静かな哀しみだったが、胸にぽっかりと穴があいて何か大事なものを永遠に失ったという喪失感は同じだった。
二度と埋まらない、ぽっかりと開いたその大きな穴を、僕は時々覗き込んで彼を悼むことしかできない。
「ショーンの伝言も、ちゃんと受け取りました」
「伝言?ああ、あの
そこまで言って親方は、はっとしてフェリシアのほうを見たが、僕は気にしなかった。
彼女のことは、きっといつかフェリシアに話したい、と思っていたのだ。それが少し早まるだけのことだ。
「ええ、セラフィーナ。彼女のことです」
僕の顔色が変わらなかったので、親方も安心したように、ああ、そうだった、セラフィーナだ、とうなずいた。
僕は、彼女にもショーンのものと同じ喪失感を感じている。
優しく強いセラフィーナ、僕はあなたも失ってしまった。
そういえば、フェリシアは彼女に少し似ているかもしれない。
「あの人も5、6年前に亡くなってしまったが」
「ええ」
僕は目を伏せ、短く答えた。
彼女の最後を看取ったのは僕です、という言葉が喉元まで出てきたが、どうしても最後まで口に出すことができなかった。
口に出す事によって蘇る、あの重く深い喪失感を感じたくなかったのだ。
僕の気持ちを敏感に感じたのか、再びフェリシアが慰めるように僕の腕をきゅっとつかんだ。
その後、僕たちはドーンの西の端にある親方の家に招かれた。
宿を早々に引き上げて、次の日、僕たちは親方の家で一晩泊まった。
どうしてもそうしてくれ、もっと話をきかせてくれ、と懇願されたのだ。
気持ちのいい広く明るい家に、彼と奥さんと三人の子供たち(といっても、フェリシアとさほど年齢に違いがない)、そして四人の孫たちが住んでいた。
「兄貴は、ドーンではなくハンダバルの方へ住んでいるんだ。向こうには工房があって、兄貴は親父みたいなことをやってるよ」
俺は手先が母親似で不器用だから、と親方は明るく笑った。
親方の一家は、僕たちを歓迎していろいろもてなしてくれ、ショーンの子供の頃の話を聞きたがった。
子供たちも魔術師である僕を気味悪がることも無く、自分たちの祖父の若い頃の話を熱心に聞いては笑い、涙した。
そして僕には、師匠の工房を離れたあと、鍛冶屋で修行をしてからのショーンの話を教えてくれた。僕は親方夫妻と一晩中昔話に興じ、フェリシアは彼の子供たちや孫たちとゲームやおしゃべりを楽しんでいた。
本当に明るく暖かい一家で、いかにもショーンの血筋だ、という気がして僕は深い幸福感を感じていた。
彼の喪失によってぽっかりと開いたあの暗い穴が、明るく優しい彼らの気持ちで埋められていく。胸の痛みがすべて無くなってしまったわけではないが、これから彼を思い出すたびに感じたあの喪失感は、少し別のものに変化するだろうと思う。
翌朝、彼の家を辞するときは、みなで抱き合い、女性たちは少し泣き、そして最後は笑って手を振り合った。
「ぜひともまた来ておくれ。親父の友達というだけじゃない。あんたたちは俺たち一家の友達だから」
親方の言葉に、僕とフェリシアは再会の約束をして旅路に着いた。
僕の馬には、あのショーンの回転木馬の音匣(オルゴール)と小箱が大事にしまわれていた。
「楽しかったわね。是非また来たいわ」
横に並んだ馬の背でフェリシアが微笑み、僕はうなずいた。
「僕たち魔術師よりも、もっとずっとすごいものをショーンは作り上げているね」
「あら、なぁに?」
「あの家族だよ。親に捨てられた彼は、暖かい家庭にずっと憧れていたんだ。だから、あの家族を一所懸命作り上げた。すごくよくわかる。彼がどんなに一所懸命、あの家族を作ったか。あれは魔法では出来ないものだよね」
フェリシアが悪戯っぽく笑った。
「うらやましいのね?」
僕は首をかしげた。
「うーん、どうだろう?うらやましいというのとは、少し違う。なんというかすごく、そう、感動してる、が正しいのかな。人間は、こんな風にいろんなものを作り上げていく。魔法の力なんて必要無い。こうして世界は作り上げられ、親から子供とぐるぐると回っていくんだな、って」
フェリシアは馬を寄せ思いきり伸びあがると、僕の頬をそっとなでた。
「大丈夫よ、あなた。私たち、これから家族だもの。二人でああいうおうちを作っていけばいいのよ。私たちにも作ることが出来るわ、きっと」
「そうだね、そうなるといいね」
僕は、少し自信の無い笑みを浮かべた。
「ところでマリオン、あの小箱、どこに飾るの?」
「いや、飾らないよ。どこかにしまっておくつもりだけど」
少し戸惑いながら僕が答えると、フェリシアが少しびっくりしたような目をした。
「あら、もったいないでしょう?仕舞い込んじゃうの?」
僕の顔が、かすかに歪められたのに気がついたのだろう。
「ごめんなさい、余計なことを言っちゃったわ。もちろんいいのよ?あなたにとって大事なものだもの。」
申し訳なさそうに言うフェリシアに、僕は苦笑してゆるゆると首を振った。
「いや、そうじゃなくてさ。たとえばこれが、マントルピースとかに置いてあったら、僕は毎日、自分の子供の頃の顔と対面しなくちゃいけないわけかい?すごく大切なものではあるけれど、あんまりしょっちゅう、自分の顔は見たくないな」
あら、とフェリシアはくすくす笑った。
「すごく可愛いじゃない、子供の頃のあなた。今も充分面影あってよ?」
その言葉にますます僕の顔がしかめられ、彼女が明るく笑った。
「じゃあ、君に預けるよ。僕に見えないところでなら、使ってくれてかまわないよ」
「いいの?嬉しい!」
彼女は本当に嬉しそうに手を叩いて、笑い声を上げた。
「そうだわ、私の鏡台の引き出しの中に、大切なものを入れてしまっておくことにするわ。それならいいかしら?うんと大事にするわ。
あなたが見たいときは、鏡台の引き出しを開ければいいのよ。もちろん勝手に開けても怒らないわ。ね?」
僕はうなずいた。彼女なら本当に大事にしてくれるだろう。
『どうして僕の顔を、あんな幼い頃のものにしたんだい?』
フェリシアと馬を並べて次の町へ向かいながら、胸の中でショーンに尋ねると、どこかで彼が笑った気がした。
『お前が嫌がると思ったからさ』
そう、彼ならそう言うかもしれない。
だがきっと本当は、彼は二度と見られないものを絵にしたかったんだろうと思う。
あれ以降の僕の左目は金色だったから。
「きっとそうだな」
思わず僕がつぶやくと、
「何か言った?」
フェリシアが振り向いたが、僕は笑って首を振った。
その後、しばらくたってからふいに思い立って、そっと彼女の鏡台の引き出しを開けてみると、あの小箱は綺麗な布に包まれて大事そうに奥のほうにひっそりと置かれていた。
改めて小箱を手に取り、ショーンの描いた昔の僕をじっくりと見た。
12、3歳のつもりか。それとももっと幼い頃だろうか。
金の前髪に隠されることのない瞳は、両目とも明るい緑色だった。
今よりももっとまっすぐで、恐れるものの無い真摯なまなざしをしている。
僕はあの頃、こんな表情をしていたのだろうか?
それともショーンにだけ、こんな風に見えていたのだろうか?
今となっては確認のしようがない。
「こんな形見を残すなんて、ショーン、反則だよ」
僕は僕の隣で永遠にのんきな笑みを浮かべたままのショーンに、小さな声で文句を言った。
中を見ようと蓋に手をかけたところで、僕は躊躇した。小箱の中には、何か入っているようだ。
中を見てもいいのだろうか?
少しためらいながら蓋を開けると、そこにはずいぶん前に僕が彼女のために描いた、彼女の家族の肖像と二人の結婚式の細密画が共に入れられていた。
細い銀の模様に縁取られたそれは、ちょうど掌におさまるくらいの大きさしかない。
その下には、早くに亡くなった彼女の両親と弟の遺髪が入った大きなロケットも見えている。
彼女は、これらをとても大事にしていた。
実はこの彼女の家族の肖像と結婚式の細密画は、彼女の要望で絵柄は同じだが、大きさの異なるものをふたつずつ描いていた。
どちらも大きい方は寝室のマントルピースに飾られているが、小さいほうはどうしたのだろうとちょっと不思議に思っていたのだが、ここに入れられていたのか。
そういえば彼女には、僕の両親の肖像も描いて、と頼まれていた。
もしかしたら、彼女はそれもここへ入れるつもりなのかもしれない。
僕たちのささやかな家族の歴史と記憶。
これからどれだけの思い出が、どんな形でこの小箱の中にしまわれていく事になるのだろうか?
「・・・きっと大事にするよ。いろいろな思い出を、ありがとう、ショーン」
僕は静かに長い旅のスーベニールの小箱を閉じた。
<fin>
SOUVENIR(スーベニール) 木崎 百美 @kzk0320
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