意味喰い ―言葉が死ぬ夜、私は母になる―
ソコニ
第1話 意味喰い
十七歳の冬、私は言葉を失った。正確には、失ったふりをした。なぜなら母が死んだ夜、私は「母」という単語の意味を、物理的に食べてしまったからだ。
雪が降っていた。
白石遥は、仏壇の前に正座していた。母の十三回忌。線香の煙が、天井に向かってゆっくりと昇っていく。
父は仕事で不在だった。いつものことだ。母が死んでから、父は家にいる時間が極端に減った。逃げているのだと、遥は思っていた。
遥は五歳の時から、ほとんど喋らなくなった。学校では「選択性緘黙症」と診断された。話せるのに、話さない。正確には、話せなくなった。
理由は、誰にも言えなかった。
遥には、普通の人には見えないものが見える。
言葉が、見えるのだ。
「ありがとう」という言葉は、淡いピンク色の球体として視界に浮かぶ。
「嘘」という言葉は、黒い棘のある結晶として、空中に突き刺さる。
「愛してる」という言葉は、温かい光を放つ、複雑な幾何学模様として現れる。
遥は共感覚者だった。文字に色が見える人や、音に形が見える人がいるように、遥は言葉に視覚的な形を見ることができた。
そして、稀に、言葉を味わうこともできた。
仏壇の引き出しを開けた時、それは転がり出てきた。
古いカセットテープ。
ラベルには、母の筆跡で。
「はるかへ。18歳の誕生日に聞きなさい。これは、あなたを守るための鍵」
遥の誕生日は、まだ三ヶ月先だった。
でも、彼女は我慢できなかった。
母の声を聞きたかった。
遥は、押し入れから古いラジカセを引っ張り出し、テープをセットした。
再生ボタンを押す。
最初は、雑音だけが流れた。
やがて、母の声。
しかし、それは普通の日本語ではなかった。
「透明な舌が、数字を編む。編まれた数字は、夜を逆流し、逆流した夜は、あなたの名前を溶かす。溶けた名前は、私の中で、まだ生きている。」
遥の視界が、歪んだ。
母の声で構成された文章が、遥の脳内で立体図形として浮かび上がった。
正二十面体。
いや、違う。
四次元超立方体を三次元に投影したような、ねじれた多面体。
それは、遥の目の前で、ゆっくりと回転し始めた。
そして。
回転が加速した瞬間。
遥の部屋から、「母」という言葉が消えた。
最初、遥は何が起きたのか理解できなかった。
彼女は立ち上がり、部屋を見回した。
すべてが、いつも通りだった。
机。椅子。ベッド。本棚。
でも、何かが違う。
遥は仏壇を見た。
そこには、遺影が飾られている。
笑顔の女性の写真。
(これは……誰?)
遥の脳内で、「母」という言葉を検索する。
すると、出てくるのは。
「自分を産んだ、偶然同じ遺伝子を共有する成人女性」
という、恐ろしく冷たい定義だけだった。
「親子関係」という概念が消えている。
「育ててくれた人」という記憶も消えている。
「愛情」という感情的な繋がりも消えている。
目の前の遺影は、ただの「知らない女性の写真」でしかなかった。
遥の背中に、冷たい汗が流れた。
彼女は鏡の前に立った。
鏡に映った自分の顔を見る。
しかし。
鏡の中の顔が、母の顔だった。
いや、物理的に母の顔になったわけではない。
遥の脳内で、「自分の顔」という認識が、「母の顔」という記憶に侵食されている。
遥は、自分の頬に触れた。
確かに、そこには自分の肌がある。
でも、鏡に映っているのは、母だ。
遥の舌の上に、何かの味が広がった。
鉄の味。
錆びた金属のような、生臭い味。
それは、言葉の死骸の味だった。
そして、もう一つの味。
母の唾液の味。
遥の脳裏に、記憶が蘇った。
五歳の夏。高熱を出した夜。母が氷を口移しで与えてくれた。冷たい氷が、遥の舌の上で溶けていく。母の優しい声。「大丈夫よ、はるか」。
でも、今、その記憶には「温度」と「感覚」しかない。
「母」という意味が、ごっそり抜け落ちている。
遥は床に座り込んだ。
呼吸が浅くなる。
(私は……母さんの「意味」を、食べてしまったのか?)
携帯が震えた。
着信。
画面を見ると、発信者は「母」と表示されている。
しかし、母は五年前に死んだ。
遥は、震える手で電話に出た。
「……もしもし」
『はるか』
母の声だった。
『ごめんね』
「……」
『でも、これしか方法がなかったの』
「誰ですか」
遥の声は、冷たかった。
『あなたのお母さんよ』
「私に、母親はいません」
『……そう。もう、食べてしまったのね』
母の声は、悲しそうだった。
『はるか。これから、たくさんの言葉が死んでいく。あなたの周りで』
「それは、あなたのせいですか」
『私のせい。でも、あなたのせいでもある』
「意味が分かりません」
『分からなくていい。ただ、一つだけ覚えておいて』
母の声が、遠くなっていく。
『神代朔を、探しなさい。彼なら、すべてを知っている』
電話が切れた。
遥は、携帯を床に落とした。
その夜、遥は眠れなかった。
窓の外から、街の音が聞こえる。
車の走る音。
犬の遠吠え。
風が窓を叩く音。
すべてが、いつもと同じ。
でも、何かが決定的に違っていた。
遥は、自分の部屋を見回した。
そして、気づいた。
「タンス」という言葉が、死んでいる。
部屋の隅にある、木製の収納家具。
引き出しが四つ付いた、茶色い箱。
それは確かに「そこにある」。
でも、遥の脳内で「タンス」という言葉を検索すると。
「木材を直方体に組み、引き出しを設けた構造物」
という、機械的な説明しか出てこない。
「衣類をしまう」という機能が消えている。
「家具」という分類も消えている。
「祖母が嫁入り道具として持ってきた」という家族の歴史も消えている。
それは、もう「タンス」ではなかった。
ただの木材の集合体だった。
遥は立ち上がり、その木材の集合体に近づいた。
引き出しを開ける。
中には、衣類が入っている。
でも、なぜ「衣類」が「この箱」の中に入っているのか。
因果関係が、見えない。
遥は、一枚のTシャツを取り出した。
綿でできた、布の塊。
なぜこれを「着る」のか。
なぜこれが「自分のもの」なのか。
すべての意味が、霧のように消えていく。
遥は、Tシャツを床に落とした。
そして、再び床に座り込んだ。
翌朝。
遥は学校に行かなかった。
代わりに、母の遺品を漁った。
古い手帳。日記。写真。
そして、一枚の名刺。
「東京大学言語脳科学研究所 神代朔」
裏に、母の筆跡で。
「何かあったら、この人に」
遥は、その名刺をポケットに入れた。
そして、家を出た。
東京大学本郷キャンパス。
遥は、言語脳科学研究所の建物の前に立っていた。
受付で神代朔の名前を告げると、受付嬢は困惑した表情を見せた。
「神代先生は……もう、こちらにはいらっしゃいませんが」
「どこにいるんですか」
「それは……」
受付嬢は、何かを躊躇していた。
遥は、母の名刺を見せた。
「私の母が、神代先生に会うように言ったんです」
受付嬢は、名刺を見て、何かを理解したようだった。
「……少々お待ちください」
彼女は奥の部屋に入り、しばらくして戻ってきた。
「神代先生の現在の連絡先です。ただ、先生は三年前に大学を離れられていますので」
遥は、メモを受け取った。
そこには、都内の住所が書かれていた。
廃病院だった。
遥がたどり着いたのは、郊外の、取り壊し予定の古い病院の建物だった。
入り口には「立入禁止」のテープが貼られている。
でも、建物の地下から、明かりが漏れていた。
遥は、テープをくぐり抜け、建物の中に入った。
廊下には、古い医療器具が放置されている。
壁には、剥がれかけたポスター。
「手洗いを徹底しましょう」
でも、「手洗い」という言葉の意味が、遥の脳内で揺らいでいた。
なぜ「手」を「洗う」のか。
その因果関係が、朧げになっている。
遥は、地下への階段を降りた。
地下室の扉を開けると。
そこは、研究室だった。
壁一面に、人間の脳のMRI画像が貼られている。
しかし、普通のMRIではない。
脳の一部、特に言語野と呼ばれる領域が、黒く侵食されている画像ばかりだった。
まるで、脳が何かに食べられているように。
部屋の奥に、男性が座っていた。
四十代半ば。無精髭。白衣ではなく、しわだらけのシャツ。
彼は、古い書類を読んでいた。
遥が入ってきたことに気づくと、顔を上げた。
「……君は」
「白石遥です。白石香織の娘」
男性の表情が、一瞬で変わった。
恐怖。罪悪感。そして、諦め。
「そうか……ついに、来たのか」
彼は立ち上がり、遥に近づいた。
「私が、神代朔だ」
神代は、遥に椅子を勧めた。
「君の母親が、これを遺したのか」
遥は、カセットテープを取り出した。
神代は、それを見て、顔色を変えた。
「彼女は……やってしまったのか」
「どういうことですか」
神代は、深く息を吸った。
「話す前に、一つだけ聞かせてくれ。君は今、どんな症状が出ている?」
「症状?」
「言葉の意味が、消えていないか」
遥は、黙った。
それが、答えだった。
神代は、椅子に座り込んだ。
「やはり……」
「説明してください。このテープは何ですか。私に何が起きているんですか」
神代は、遥を見た。
その目には、深い罪悪感があった。
「君の母親、白石香織は……私の実験の被験者だったんだ」
神代は、古い棚から、ビデオテープを取り出した。
「これを、見てくれ」
彼は、古いテレビとビデオデッキを起動した。
画面に、ノイズ混じりの映像が映し出される。
映像の中の神代は、若かった。
三十代前半。研究者としての野心に満ちた目をしていた。
そして、その隣に、若い女性が座っていた。
遥は、息を呑んだ。
母だった。
二十代前半の、母。
遥が生まれる前の、母。
神代(映像内):「これから、特殊な音声パターンを聞かせます。リラックスして、頭に浮かんだイメージを教えてください」
香織:「分かりました」
神代:「では、開始します」
スピーカーから、奇妙な音が流れ始めた。
それは、言語とも音楽とも違う、何か。
人間の声のようで、でも人間の声ではない。
香織:「……海、が見える」
神代:「どんな海ですか」
香織:「でも、『海』という言葉がない海」
神代:「素晴らしい。意味と知覚の分離が起きている」
香織の表情が、次第に苦悶に歪んでいく。
香織:「ねえ、神代さん。何か……変です」
神代:「どう変ですか」
香織:「言葉が……言葉が、形を持ってる」
神代:「それは正常な反応です。続けてください」
香織:「いえ、違うんです。言葉が、私の中に、入ってくる」
映像が揺れる。
香織が立ち上がり、頭を抱えている。
香織:「やめて!頭の中に、何かが入ってくる!」
神代:「落ち着いてください!これは想定内の反応です!」
香織:「言葉が……言葉が食べられてる!!」
神代:「もう少し!もう少しでデータが!」
香織:「やめて!お願い!やめて!!」
画面が、ブラックアウトした。
神代は、ビデオを止めた。
部屋に、沈黙が満ちた。
遥は、震えていた。
「これが……母さんに起きたこと?」
「ああ」
神代は、自分の顔を両手で覆った。
「私は……君の母親を壊してしまった」
神代は、シャツのボタンを外した。
胸部に、奇妙な傷跡があった。
まるで、何かに噛まれたような、不規則な痕。
「これは、香織に付けられた傷だ」
「母さんが?」
「実験の三日後、香織が私の研究室に来た。彼女は取り乱していて、私に掴みかかった。そして、この傷を付けた」
神代は、傷跡を撫でた。
「でも、これは物理的な傷じゃない」
「どういうことですか」
「香織は、私の胸に噛みついたわけじゃない。彼女は、私の『名前』を食べようとしたんだ」
遥は、理解できなかった。
神代は続けた。
「実験は失敗した。香織の脳内で、私が埋め込んだ音響パターンが暴走し始めた。彼女は周囲の人間の言葉を、無意識に『食べる』ようになった」
「食べる……」
「意味を、捕食するんだ。言語の意味素を、物理的に吸収する。それが、『意味喰い』だ」
神代は、ホワイトボードに図を描き始めた。
「意味喰いのメカニズム」
言語の意味素
↓
音響パターンによる刺激
↓
脳の言語野が「意味」を実体として認識
↓
実体化した意味が、他者の認識から「剥離」
↓
剥離した意味が、感染者の脳に「吸収」される
「つまり、言葉が持つ『意味』という抽象概念を、脳が『物質』として誤認識するようになる。そして、その物質化した意味を、捕食できるようになる」
遥は、自分の手を見た。
確かに、昨夜、「母」という言葉を食べた。
その味を、まだ覚えている。
「母さんは……その後、どうしたんですか」
神代は、窓の外を見た。
「彼女は、自分を隔離するために、田舎に引っ込んだ。周囲の人間から言葉を奪わないように。君が生まれたのは、その後だ」
「じゃあ、父は……」
「君の父親は、香織の症状を知らなかった。彼女は必死に隠していた」
遥は、母の人生を想像した。
誰とも深く関わらず。
誰とも長く話さず。
ただ一人で、言葉を食べ続ける人生。
「でも、母さんは、私を産んだ」
「ああ」
「なぜですか」
神代は、遥を見た。
「それは……私にも分からない」
それは、嘘だった。
遥には分かった。
「本当のことを言ってください」
遥の声は、冷たかった。
神代は、観念したように、机の引き出しを開けた。
そして、一枚の書類を取り出した。
「人体実験同意書」
被験者名:白石香織
実験内容:意味喰い音響パターンの次世代継承実験
署名欄には、香織の署名。
そして。
日付は、12年前。
遥が、五歳の時だ。
「これは……」
「君が五歳の時だ。君の母親は、君を私の研究所に連れてきた」
遥の記憶の中に、断片が蘇る。
白い天井。
機械の音。
母の泣き声。
「やめて!やめてください!やっぱりやめます!」
でも、その声は遠くて。
遥の意識は、麻酔で沈んでいて。
「君は麻酔で眠らされ、その間に……私は、君の脳に意味喰いの音響パターンを埋め込んだ」
遥は、立ち上がった。
椅子が、床に倒れる音。
「あなたが……私を……」
「ああ。私だ」
神代は、床に膝をついた。
「香織は、途中で実験を中止しようとした。でも、私は……研究者としての欲望に負けた。私は、実験を完遂させてしまった」
遥の拳が、震えた。
「君の母親は、私を許さなかった。そして、自分自身も許さなかった」
「母さんは……」
「三年後、彼女は自殺した」
遥は、神代を見下ろした。
「あなたは、母さんを殺したんですね」
「ああ」
「そして、私も壊した」
「ああ」
遥は、神代の胸倉を掴んだ。
「なぜ、そんなことをしたんですか」
神代は、答えなかった。
答えられなかった。
遥は、神代を突き飛ばした。
「私は……あなたを許さない」
遥は、研究室を出ようとした。
「待ってくれ」
神代が、遥の腕を掴んだ。
「君には、知る権利がある。君の母親が、何を遺したのかを」
「もう十分です」
「いや、まだだ」
神代は、別のカセットテープを取り出した。
「これは、君の母親が死ぬ直前に私に預けたものだ」
遥は、神代の研究室に留まることにした。
理由は、他に行く場所がなかったから。
そして、母が遺した二本目のテープを聞く勇気が、まだ出なかったから。
三日後。
遥の高校で、異変が始まった。
最初に気づいたのは、クラスメイトの鈴木美咲だった。
放課後、遥は図書室で本を読んでいた。
いや、「読んでいた」というのは正確ではない。
文字を目で追っていたが、意味は頭に入ってこなかった。
なぜなら、「本」という言葉の意味が、遥の中で揺らぎ始めていたから。
「本」とは何か。
紙を束ねた物体。
でも、なぜそれを「読む」のか。
なぜそこから「知識」や「物語」が得られるのか。
因果関係が、霧のように薄れていく。
「ねえ、遥」
鈴木が、遥の隣に座った。
遥は、顔を上げた。
鈴木の目が、焦点を失っていた。
「私、最近おかしいの」
「どうしたの」
遥の声は、感情が抜け落ちていた。
「『私』って何?」
「え?」
「『鈴木』って何?この音の羅列が、なんで私を指すの?」
鈴木は、自分の生徒手帳を取り出した。
「鈴木 美咲」
「この文字……ただの記号でしかない。意味がない」
遥の背筋に、悪寒が走った。
(まさか……)
鈴木の口から、透明な液体が垂れ始めた。
最初は、唾液かと思った。
でも、違う。
その液体の中に、微細な文字の結晶が浮遊していた。
「鈴木」「美咲」「私」「娘」「友達」「人間」……
すべてが、溶解している。
「ねえ、遥。私、消えちゃうのかな」
鈴木の声は、遠くなっていく。
「消えないよ」
遥は、嘘をついた。
「本当?」
「本当」
鈴木は、微笑んだ。
そして、床に崩れ落ちた。
遥は、鈴木の傍に膝をついた。
鈴木の口から流れ出た液体が、床に広がっている。
遥の指先が、その液体に触れた。
瞬間。
味覚が爆発した。
鈴木の人生が、言葉の断片として遥の舌の上に広がる。
幼稚園の砂場。初めての友達の名前。「さっちゃん」。
小学三年生。母親と喧嘩した夜。「お母さんなんて嫌い」。
中学二年生。初恋。「好きです」と言えなかった後悔。
高校入学式。新しい制服。「私、頑張る」。
すべてが、味になって遥に流れ込んでくる。
甘い。苦い。酸っぱい。辛い。
感情が、味として具現化している。
遥は、吐き気を堪えた。
(これが……母さんが味わっていた感覚……)
遥は、鈴木を抱き起こした。
「鈴木さん、起きて」
でも、鈴木の目は開いていた。
ただ、焦点が合っていない。
「あ……あ……う……」
彼女の口から出てくるのは、もう言葉ではなかった。
母音だけ。
意味を持たない、ただの音。
遥は、携帯で救急車を呼んだ。
しかし、電話に出たオペレーターに、状況を説明できなかった。
なぜなら、「救急」という言葉の意味が、遥の中で曖昧になっていたから。
「助けてください」
遥は、ただそれだけを言った。
「分かりました。場所を教えてください」
場所。
ここは、どこだ。
図書室。
でも、「図書室」という言葉が、意味を失いかけている。
「本が、たくさんある部屋です」
「学校ですか」
「はい」
「学校名を教えてください」
遥は、答えられなかった。
なぜなら、自分が通う学校の名前を、思い出せなかったから。
救急車が到着するまでの十五分間。
遥は、鈴木を抱きしめていた。
鈴木の身体は、まだ温かかった。
心臓も、まだ動いていた。
でも、鈴木は、もう「鈴木美咲」ではなかった。
彼女は、名前を失った肉体だった。
その夜。
遥は、神代の研究室に戻った。
神代は、遥の報告を聞いて、顔色を変えた。
「始まったのか……」
「始まった?」
「意味喰いの連鎖だ」
神代は、ホワイトボードに新しい図を描いた。
「意味喰いの伝播メカニズム」
一次感染者(遥)
↓
周囲の「意味」を捕食
↓
捕食された意味が感染者の体内で「変異」
↓
変異した意味が、音声・体液として「放出」
↓
二次感染者(鈴木)が誕生
↓
指数関数的拡大
「つまり、私が……鈴木さんを壊したんですか」
「いや」
神代は、ホワイトボードを見つめた。
「私が、すべての始まりだ」
遥は、床に座り込んだ。
「どうすれば、止められるんですか」
神代は、しばらく黙っていた。
やがて、口を開いた。
「止める方法は、一つだけだ」
「何ですか」
「君が、お母さんと同じ選択をする」
遥は、神代を見上げた。
「同じ選択?」
神代は、二本目のカセットテープを遥に渡した。
「これを、聞いてくれ」
遥は、ラジカセの前に座った。
神代は、部屋を出ようとした。
「一人で聞きたいか?」
「いえ」
遥は、神代を見た。
「あなたも、聞いてください。これは、あなたへの遺言でもあるかもしれないから」
神代は、椅子に座った。
遥は、再生ボタンを押した。
テープが回り始める。
最初は、雑音。
やがて、母の声。
「はるか。」
遥の目から、涙が溢れた。
「もしあなたがこれを聞いているなら、もう、事態は止められないところまで来ているわね。」
「ごめんなさい。」
「お母さんは、あなたに酷いことをした。」
「これは、正しいことじゃない。」
「お母さんは、それを知っている。」
遥は、息を呑んだ。
「でも、やってしまった。」
「なぜなら、お母さんは弱かったから。」
「あなたを守りたかった、というのは本当。」
「でも、それだけじゃない。」
「お母さんは、自分の中で暴走する『意味喰い』を、誰かに託さないと、耐えられなかった。」
「その誰かが、あなただった。」
神代は、顔を伏せた。
「ひどい母親でしょう。」
「あなたは、お母さんを憎んでもいい。」
「拒否してもいい。」
遥の涙が、床に落ちた。
「でも、もし、もしも。」
「あなたが、この呪いを引き受けてくれるなら。」
「お母さんは、あなたに一つだけ、伝えたい。」
遥は、息を止めた。
「意味喰いは、言葉を食べる。」
「でも、本当は違う。」
「意味喰いは、『意味の重さ』に耐えられなくなった言葉を、解放するの。」
「この世界は、言葉で溢れている。」
「嘘も、本当も、全部、言葉。」
「でも、本当に大切なことは、言葉にならない。」
神代は、母の言葉を聞いて、何かを理解したようだった。
「だから、はるか。」
「食べなさい。」
「すべてを。」
「そして、吐き出しなさい。」
「言葉という『檻』から解放された、純粋な『想い』として。」
遥の呼吸が、荒くなった。
「これは、お母さんの願い。」
「でも、あなたの義務じゃない。」
「愛してるわ。」
「でも、その愛も、あなたを縛る言葉かもしれない。」
「だから、あなたは、自由でいい。」
テープが、終わった。
部屋に、沈黙が満ちた。
遥は、テープを握りしめた。
「母さん……」
遥の声は、震えていた。
「あなたは、私を愛してた。でも、同時に、私を壊した」
神代は、何も言えなかった。
遥は、立ち上がった。
「私は、母さんを許さない」
その声は、冷たかった。
「でも、母さんが遺したものを、無駄にもしない」
遥は、研究室の扉に向かった。
「私は、自分の意志で、これを引き受ける」
神代は、遥の背中を見た。
「……どこへ行く」
「学校」
遥は、振り返った。
「鈴木さんを、助ける。そして、これ以上、誰も壊さない」
「どうやって」
遥は、微笑んだ。
それは、母と同じ微笑みだった。
「母さんが言った。『すべてを食べて、吐き出せ』って」
「待て、それは危険だ」
「分かってます」
遥は、扉を開けた。
「でも、これは私の選択です」
夜。
遥は、学校の屋上に立っていた。
眼下には、言葉を失った生徒たちが、校庭をさまよっていた。
鈴木だけではなかった。
遥のクラスメイト、七人が、同じ症状を示していた。
彼らは、もう「人間」ではなかった。
意味を失った肉体だった。
遥は、目を閉じた。
そして、深呼吸をした。
母の声が、脳裏に蘇る。
『食べなさい。すべてを。そして、吐き出しなさい』
遥は、口を開いた。
最初は、何も起きなかった。
でも、遥は歌い続けた。
それは、言葉ではなかった。
鳥の鳴き声。
波の音。
風が木々を揺らす音。
赤ん坊の泣き声。
母親の子守唄。
言語が生まれる前の、純粋な『音』。
やがて。
遥の周囲から、すべての言葉が煙のように立ち上り始めた。
校舎の壁に書かれた「〇〇高等学校」という文字が、剥がれ落ちる。
図書室の本から、活字が蒸発する。
教室の黒板から、チョークで書かれた文字が消える。
そして。
校庭をさまよう生徒たちの脳内から、失われた言葉が引き出されていく。
言葉は、光の粒子となって、遥の口に吸い込まれていく。
遥の身体が、熱くなった。
いや、熱いというより、膨張している感覚。
遥の脳内に、何千、何万という言葉が流れ込んでくる。
「愛」「憎しみ」「希望」「絶望」「友情」「裏切り」「母」「父」「私」「あなた」……
すべてが、遥の中で渦を巻いている。
遥は、苦しかった。
言葉の重さに、押し潰されそうになった。
(これが……母さんが耐えていた重さ……)
しかし、遥は止まらなかった。
彼女は、さらに強く、音を発し続けた。
そして。
すべての言葉を吸い込んだ瞬間。
遥は、吐き出した。
それは、光だった。
言葉という形を失った、純粋な意味の光。
光は、校庭の生徒たちに降り注いだ。
鈴木が、ゆっくりと立ち上がった。
彼女の目に、焦点が戻る。
「わたし……」
鈴木の口が動く。
「わたしは……誰?」
彼女は、自分の手を見た。
「名前は、わからない。でも、私は、ここにいる」
鈴木は、微笑んだ。
他の生徒たちも、次々と立ち上がった。
彼らの口から、言葉が戻ってきた。
しかし、それは以前の言葉とは違っていた。
「ここは……どこ?」
「私は……誰だっけ?」
「でも、大丈夫。私は、ここにいる」
彼らは、名前を失っていた。
記憶の大部分も、失っていた。
でも、存在しているという実感だけは、確かにあった。
遥は、屋上の手すりにもたれた。
身体が、透明になり始めていた。
いや、物理的に透明になったわけではない。
遥の「存在」が、この世界から剥離し始めていた。
神代が、屋上に駆け上がってきた。
「遥!」
しかし、遥はもう、神代を認識できなかった。
いや、認識はしている。
ただ、「神代」という名前が、彼女の中に存在しない。
目の前にいるのは、ただの「泣いている男性」。
遥は、その男性に微笑みかけた。
「ありがとう」
「遥、行くな」
「私は……もう、『遥』じゃない」
遥の身体が、さらに透明になっていく。
「でも、大丈夫。私は、どこかにいる」
神代は、遥の手を掴もうとした。
しかし、その手は、空を切った。
遥は、もうそこにいなかった。
意味喰い ―言葉が死ぬ夜、私は母になる― ソコニ @mi33x
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます