5.【閉じられた森の意志】
僕と長は、村の守り神である巨木の梢を見上げていた。
暑い季節であっても、巨木に茂る葉は緑ではない。僕たちの髪にも似た白銀の色――それが無数の枝を宝石のように彩っている。
「それで、用っていうのは?」
沈黙に耐えかねて、僕は先に口火を切った。銀葉が宙を舞い、ひらひらと風に乗って僕たちの間に落ちてくる。太陽に煌めく白銀の色。それが地面へと落ち切る前に、長がそっと手を伸ばす。
「うん、まあ。そこまで突飛な話じゃない。あの子……きみが『セツナ』と呼ぶ子どもについてだ」
長の手に舞い降りた葉は、静かに輝きを放つ。長は何でもないことのように笑って、そっと僕の手のひらに銀の葉を落とす。
「セツナの? ……まさか、あの子が何かしたとか?」
受け取った葉を眺めたところで、同じように光り輝くことはない。少し困惑して長を見返すと、いつもの微笑みだけが返される。
「……長?」
嫌な予感がした。続きの言葉を聞きたくなくて、僕は首を横に振る。だけど長は変わらぬ微笑みのまま、『それ』を告げた。
「あの子どもにはこの森を出て行ってもらう」
長は笑っていた。ずっと同じ笑みでこちらを見ていた。僕は何を言われたのかわからなくて、何も信じたくなくて。歪な笑いを浮かべると、手の中の葉を握りしめた。
「何言ってるんだ? 突然……セツナが何かしたっていうのか?」
「あの子どもは、外の人間と会っているよ。……知らなかったのかい?」
頭を殴られたような衝撃があった。信じられない気持ちで長を見ても、否定の言葉は返ってこなかった。
セツナが、外の人間と会っている。気づきたくなかったけれど、最近の行動、あの手の豆や稽古という発言……ほんとうに誰かと会っていたとしたら? いや、だが……それが何だって言うんだ?
「だとしても、出ていかせる理由にはならないだろう? 別に何が起こったわけでもないんだから」
「本気でそう思っているんだとしたらおめでたすぎるね。何の意味もなく人間がこの森に近づくとでも? あの子どもが誰かに接触した時点で『何か』は起こっているんだよ」
「だ、だけど。もし、もし……そんな風に突然追い出してセツナに何かあったら、どうするつもりなんだ。あの子はまだ、一人で生きていくには小さすぎる……!」
こんな懇願なんて、ほんとうは無意味だとわかっていた。長がそう決めたのなら、何を言っても覆ることはない。だけど、どうしても納得いかなかった。セツナがここで生きていてもいいと、長はそう考えてくれていると思っていたのに。
「どうもしない。ねえ、きみ。誤解していないかい。私が目をこぼしたところで、森の意志には皆、逆らえないんだ。刹那の森は『あの子どもを庇護する必要はない』と言っている。……私がこう言わなくても、いずれ他の皆があの子どもを排除するだろう」
「だったら皆を説得する……! セツナを排除なんてさせない」
「きみ……はじめに言ったこと覚えている? 一人で育てられるの? って。その時点で皆がきみの味方でないことぐらい、理解していたと思っていたけれどね」
言われて、何も応えられなかった。事実、長以外の仲間たちはセツナに冷淡だった。はっきりとした敵意を感じたことも一度や二度じゃない。僕一人では、セツナを守ることができなかったのだ。多くの困難や苦しみ、外の脅威……あるいは、刹那の森の意志や自らの仲間からも。
「それでも僕は、セツナに出て行けなんて言えない……」
手のひらから、ばらばらになった銀の葉が落ちていく。小さな欠片は風にさらわれ、どこかへと流されてしまう。セツナ、まだ幼い僕の大切な……。まだ小さい手を今離したら、あの子はどこへ行けばいいのだろう。僕は再び長を見た。だけど、長は微笑みを崩さず、無情に言い放つ。
「なら、きみがあの子どもを『処分』するかい? 我々に従えないというなら、きみ自身もここで生きる権利はないってこと、わかっている?」
一瞬、言葉の意味が掴めなかった。僕がセツナを『処分』しなければ……どうなるって? 優しげなふりをした理屈にぞっとする。セツナを追い出さなければ、僕も『処分』……殺されるってことか? 他でもない仲間たちに?
「本気で言ってるのか?」
「何言ってるんだい。本気かどうかなんて言うまでもなくわかるだろう。私はかなり譲歩していると思うけどね。子どもを出で行かせるか、それとも自分の手で『処分』するか。それも選べないならきみたちに『死』を、とね」
長は笑う。普段と何一つ変わらぬ笑顔で。僕がセツナを殺せないことはわかっているだろうに、わざわざ選択として提示する辺り、確実に悪意がある。僕が実質取れる選択肢はひとつだけ。セツナを出ていかせるしか……いや、それよりも良いことがあった。
「だったら、僕も森を出ていく」
「出来ないよ」
即座の否定。笑顔のままの長に、強く首を横に振ってみせる。出来る出来ないじゃない、やるんだ。しかし、僕の決意をあざ笑うように、長が一歩こちらに踏み込んでくる。
「出来ないよ。だって、私たちは刹那の森の一部なんだ。私たちのままでは、この森から離れることは叶わない」
「意味がわからない。そんな戯言、信じるとでも思っているのか?」
「理解は求めていない。これは事実だからね。きみにできるのは子どもを捨てるか、殺すか。ああ、一緒に死ぬっていう選択肢もあるのかな?」
「ふざけるな」
「きみの意志なんてどうでもいいよ。森の意志もまともに拾えぬ半端者。ずっとかわいそうで庇ってあげていたけど、そろそろ潮時かな。私の言うことが聞けないって言うなら、あの汚らしいゴミと一緒に処分するしかないなぁ? あ、きみ自身もゴミ屑だったか? すまないねぇ。はははははははっ!」
心が、体の中心が、どす黒いものに取って代わられる。今まで長に感じていた親しみは、木っ端みじんに砕け散ってしまった。僕は思考を放棄した。ただただ、わき上がる熱くて冷たい感情のままに、拳を振り上げる。
「お前みたいなやつに、セツナを傷つけられてたまるか……!」
「ほんとうに、甘いなぁ」
僕は、長に殴りかかったはずだった。しかし、みぞおちに重い衝撃を感じたあと、気づけば地面を転がっている。背中が痛い。息ができない。それでも地面にしがみつきながら立ち上がると、素早く足を払われて世界が回転する。
「う、あ……っ!」
「甘いし弱いなぁ、きみ。それで誰かを守ろうとか、ほんと笑っちゃうよね」
長の足に手を伸ばそうとすれば、上から踏みつけられる。痛い、苦しい。感情とは無関係に涙がこぼれ落ちる。無事な方の手で殴りかかろうとしても、無駄だと言わんばかりに蹴り上げられた。
「そんなだから、きみには森の意志が聞こえないんだよ。馬鹿なだけならまあ許すけど、私の手まで煩わさないで欲しいね」
頭を踏みつけられ、視界が滅茶苦茶に明暗する。口の中に鉄の味が広がり、全身が心臓になったみたいにどくどくと脈打った。もしかして、僕は死ぬのか。死の気配なんて今まで少しも感じたことがなかったのに、こんなにもあっけなく訪れるものなのか。
「さあて、お仕置きはこの辺にしようか。そろそろきみの返答を」
「うるさい」
血を吐きだし、低くうなった。うるさい、うるさいうるさいうるさい。お前の……お前たちの思うとおりになるものか!
「……そうかい、なら。先に逝くといい」
低い笑い声。ほんの少しだけ頭の重みが消える。しかしそれだけだ。次の瞬間、僕は――。
「やめろぉおお! シロに触るな!」
どん、と。鈍い音が響いた。続いて聞こえたのは、くぐもった悲鳴と乱れた呼吸の音。何かが起こってしまった一瞬を前にして、僕は何もできず、のろのろと顔を上げた。
「長……?」
僕の数歩先で、長が巨木の幹に背を預けたまま動かなくなっていた。頭の後ろからは赤黒い血が流れ落ち、幹と地面を汚している。長の赤い目は驚きに見開かれた状態で光を失い――その傍らでは、セツナが呆然と立ち尽くしていた。
「お、オレ……? なん、で。これ……長? どうして動かな」
「セツナ」
「違う、ちがうちがう……! オレ、違う! だ、だってこいつ、シロを……シロ? シロ……どうしようオレ」
「セツナ!」
「どうしよう、オレ……長を殺しちゃった……!」
セツナは震えながら口を覆う。黒い瞳は焦点が合わず、ぼろぼろと涙だけがこぼれ落ちる。僕は両手を伸ばし、セツナを抱きしめた。きみは悪くない。きみは何も悪くない……。何度、背中を撫でてもセツナの震えは収まらない。
「セツナ、きみは僕を助けてくれただけだ。きみは悪くない。悪くない……! 悪いのは」
「――長の方だ、とでもいうつもりか。きさまは」
いつから、そこにいたんだろう。何人もの仲間が、木々の間からこちらを見つめていた。みんな同じ、人形のようにのっぺりとした表情で僕たちを見て、その中の一人が音もなく指先をこちらに向けてくる。
「その人間は、長を殺した」「長を殺した」「殺した」
「きさまは、長を見殺しにした」「長を見殺しにした」「見殺しにした」
「これすなわち、森の意志に対する反逆である」「森の意志に対する反逆である」「反逆である」
「ゆえに、きさまらは」
無感情な糾弾にセツナは息もできずに身を震わせていた。僕もこんな日が来るなんて、仲間からこんな視線や言葉を受ける日が来るなんて思いもしなかった。けれど、僕にはセツナがいる。怯む心なんて今は置いておけ。無言でセツナを抱き上げると、仲間に背を向け走り出す。
「きさまらは――死ね!」「死ね!」「死ね死ね死ね死ねしね死ねシネ死ねしねしねシネ死ね!」
異様なほど規則正しい足音が、僕たちの背中越しに響いてくる。怯えるセツナを抱きしめ、僕は森の中を駆ける。
これが刹那の森の意志だというなら。
ここにはもう、僕たちの居場所は存在しない――。
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