第4話:霧の原で立ち止まる

 電車の扉が閉まる音はしなかった。

 気づけば僕は、いつの間にか列車を降りていた。


 足元に広がっていたのは、淡い霧に包まれた草原だった。

 地面は柔らかく、踏みしめるたびに音もなく沈む。空は白とも灰色ともつかない色で、時間の感覚が曖昧になる。


 「……ここは?」


 問いかけても、返事はない。

 遠くまで見渡しても、建物も線路も見えなかった。


 白猫は僕の少し前を歩いている。

 振り返らない。ただ、迷いなく進んでいく。


 この場所に来てから、胸の奥が妙にざわついていた。

 怖いわけではない。けれど、落ち着かない。


 しばらく歩くと、霧の向こうに人影のようなものが見えた。

 近づくにつれて、それが“誰か”ではないことが分かる。


 それは、形を持たない曖昧な影だった。

 人の輪郭に似ているのに、顔はなく、声もない。


 影は僕の前に立ち、動かなくなった。


 「……通れない、ってことか?」


 足を踏み出そうとすると、影がゆっくりと揺れ、距離を詰めてくる。

 触れられているわけでもないのに、足がすくんだ。


 その瞬間、頭の中に言葉が浮かぶ。


 ――失敗したらどうする。

 ――また後悔するだけだ。

 ――変わらなかった方が楽だ。


 どれも、聞き覚えのある声だった。

 他人の言葉じゃない。ずっと自分の中にあった考えだ。


 「……ああ、そうか」


 僕は小さく息を吐いた。


 この影は敵じゃない。

 僕自身が作り出した、“進まない理由”だ。


 白猫が足を止め、初めて振り返った。

 金色の瞳が、静かに僕を見つめている。


 助けてはくれない。

 代わりに選んでもくれない。


 それでも、ここにいる意味は分かった。


 「怖いよ」


 声に出すと、影がわずかに揺れた。


 「失敗するかもしれないし、何も変わらないかもしれない。

 でも……それでも、進みたい」


 不思議なことに、そう口にした瞬間、胸の重さが少しだけ軽くなった。


 影はゆっくりと形を崩し、霧の中へ溶けていく。

 道を塞いでいたものは、最初から“立ち止まっていた僕自身”だったのだ。


 霧が薄れ、草原の先に小さな光が見えた。


 白猫は再び歩き出す。

 その背中は、相変わらず静かで、押しつけがましくない。


 僕は一歩、前に進んだ。


 それだけのことなのに、

 確かに何かが変わった気がした。

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