チョコバナナ・メルカトル
不思議乃九
チョコバナナ・メルカトル
甘い。
その感想が、思考の最初の地盤になった。
セブンイレブンの新作、チョコバナナクレープ。
手のひらに収まるサイズのそれを、私は躊躇なくまるかじりしていた。
生クリームとカスタード、柔らかいバナナ、あとから追いかけてくるチョコの苦み。
口の端についたクリームを、無意識に親指でぬぐう。
四十五歳。作家志望。
この年齢と肩書きの組み合わせに、いまさら特別な意味はない。
ただ、甘さだけがやけに正直だった。
「……あま」
幸福だが、少し過剰。
この手のコンビニスイーツ特有の、刹那的な高揚。
それが、頭の中で妙な反応を起こす。
地図が浮かぶ。
世界地図だ。現実の地球。
なのに、私の頭の中では、いつも決まってメルカトル図法だった。
なぜ正積図法じゃないのか。
なぜ極地が、あんなふうに引き延ばされてしまうのか。
理由はわからない。ただ、その歪みが気になる。
グリーンランドは異様に大きく、
アラスカの輪郭は、どこか落ち着きがない。
正しくないはずのその形が、妙に魅力的だった。
――ここ、入口っぽいな。
そう思った瞬間、地図は勝手に変質する。
現実から、ファンタジーへ。
けれど困ったことに、世界のディテールは一向に定まらない。
文明も、歴史も、名前もない。
北米大陸のあたりを、ただ指でなぞるだけ。
狩猟採集でもいいし、機械文明でもいい。
決めないことそのものが、今は心地よかった。
細部を詰め始めたら、この空想はすぐ萎む。
私はそれを、何度も経験している。
だから今は、世界が生まれる直前の、
輪郭だけが揺れている状態を眺めている。
「まぁ、別にいいか」
この言葉が出るとき、私は少し救われる。
ディテールの定まらない思考の断片でさえ、
短編小説くらいにはなると、もう知っているからだ。
ありがとう、メルカトル図法。
歪んでいるおかげで、考えなくていいことが増える。
口の中に残った甘さを打ち消すように、
机の上のブラックコーヒーを流し込む。
苦みが、一瞬だけ思考を絞る。
すると別の構想が、割り込んでくる。
いつか書きたいと思っている、大作。
大航海時代と、日本。
考えるだけで、眩暈がする。
西洋の艦隊。火薬と信仰。
鎖国の列島。武士か、浪人か、異国の血を引く女か。
「……面白いな」
口には出すが、すぐ首を振る。
これを書くには時間が足りない。
資料に三年、執筆に七年。
今の私には、到底無理だ。
だから却下する。
五千字の、まるかじり純文学でいい。
――のに、思考は止まらない。
却下したはずの物語が、
勝手に構造を持ち始める。
侍の物語。
西洋の物語。
そして、その二つが合流する第三の航路。
「ああ……」
コーヒーを飲み干した瞬間、
骨格だけが、はっきり見えた。
物語を“思い浮かべること”。
それが、私の書くという行為だ。
文字にするのは、そのあとでいい。
私はiPhoneを手に取る。
開いたのは、小説投稿サイトではなく地図アプリ。
メルカトル図法の世界で、グリーンランドを拡大する。
白く、巨大で、歪んだ土地。
この地図は間違っている。
でも、間違っているからこそ、物語になる。
そういう一文が、頭の中に生まれた。
それだけで、また短編が始まりそうだった。
ロック画面を消し、メモを開く。
タイトルを打ち込む。
チョコバナナ・メルカトル
そして、最初の一文。
――甘い。
その感想が、思考の最初の地盤となった。
【終】
チョコバナナ・メルカトル 不思議乃九 @chill_mana
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