第一章 上界という世界

1 お披露目の宴


——ああ、吐きそう。


さっきから心の中でそればかり呟いていた。体の中心がぐるぐるして気持ちが悪い。


屋敷の広い一室、「お披露目の宴」との名前付きで宴は盛大に行われていた。


つまりは、婚約を周知するためのパーティーである。


縁側の先には日本庭園が広がり風情があるが、庭をゆっくりと眺める余裕は今の柚子菜には全くなかった。


主役は、柚子菜の隣にぴったりとくっついているこの男。


柚子菜の腕をギチギチに掴んで、少しでも離れようものなら血圧計の如く圧迫し、更に体を近づけてくる。



「あれ?柚子菜、顔色が悪いよ?もう疲れちゃった?でも困ったなあ、挨拶がまだいっぱい残っているんだけどなあ」


息が短く上がり、額に汗を滲ませる小太りの男——永峰ながみねは明らかに柚子菜よりも二回りは上に見えるが、深緑色の着物が余計に年齢を上げているようにも思えた。


重厚感のある、どっしりとしたおじさんだ。

桃色の目は柚子菜を舐めるようにぎょろぎょろと動いている。髪は橙色の短髪、少しばかり生えている髭と分厚い唇が柚子菜は特に嫌だった。


——ふと、あの優しい目を思い出す。


誰だっけ?顔がよく思い出せない。


だけど、優しく見つめられていたことだけはなんとなく覚えている。

あれ?確か居酒屋で、それで抜け出して……。


ああ、頭、痛い。



「永峰様、この度はおめでとうございます」


「これはこれは。本日はお越しいただき、ありがとうございます。こちらが柚子菜です。ほら、ご挨拶して」


 派手な金色の着物を身に纏う白髪のご婦人が青色の目を細め、近づいてきた。


 何かが本当に腹の底から上がってきそうになって思わず唇を片手で隠す。


「んんっ……」


咳払いでなんとか誤魔化し、口元から手を離した。


「失礼、しました。柚子菜と申します……」


「ほら、柚子菜、挨拶がなってないよ。ちゃんと僕の『妻になる』って言わないと」


「嫌ですわあ。仲がよろしいことで。私、羨ましくなってしまいますわ」


 ほほほ、と笑うご婦人からは「羨ましい」なんてこれっぽっちも感じられない、と柚子菜は思った。


 心の中で溜め息を吐き出しながら会場全体を見回す。



 ——ここは、現代の日本ではない。


誰一人として洋服を着ておらず、着物を身に纏っている。



「それにしても黒がお美しいこと。私はてっきり皐月さつき家のお嬢様かと思いましたのよ」


「そんな!あの皐月家と柚子菜を一緒にされたら困りますよぅ。皐月家とは無関係ですから!」


 ご婦人が目配せをした先にいたのは、黒髪黒目の背が高い男性だった。


髪はサラサラで艶があり、色白で端正な顔立ちをしている。周りが華やかな着物を身に纏う中、その男だけが深い黒の着物に身を包んでいた。


 彼は若い女と話していた。その微笑は男にしては柔らかいもので、女は楽しそうにうっとりとしている。


「柚子菜、あの男には近づいちゃいけないよ」


 永峰は周りに聞こえないよう配慮しているのか、それともただ近づきたいだけなのか、擦り寄るように唇を近づけて柚子菜に囁いた。


それを目の前で見ていたご婦人は口元を袖で隠し、卑しいものでも見るかのように眉を顰めている。


柚子菜の視線に気づくと目を細めてわざとらしく笑う。小さな声で「私はこれで」と、その場から離れていった。


……ここには私を助けてくれる人なんていない。


柚子菜は鳥肌と悪寒を感じながら永峰と距離を取ろうと体を仰け反らせるが、永峰はその距離分、近づいてくる。


……逃れられない。


「どうして近づいちゃいけないの?」


 気持ち悪さに身震いしながら聞き返すと、永峰は嬉しそうに頰を紅潮させた。

聞き返したりすると、いつもこうだ。


「柚子菜は下界げかいから連れてきた黒髪黒目の何の害もない女の子だけど、あの皐月家っていう奴らは黒に侵された卑しい一族なんだ。限りなく人間に近くって能力の低い奴らなのに、大神様おおかみさまから大役を仰せつかって気取っているんだよ。気持ちの悪い連中だ」


「はあ……」


「あいつらは大神様の補佐役でね、補佐役はみんな神様から力を与えられるものだけど、あいつらはその中でも奇妙な力を授かっているっていう噂だ。一部の奴らは強く美しいと言うけれど、大方の奴らは気味悪がっているんだよ」


「そう、ですか」


「まあ、美形が多いらしいから、ああやって寄っていく馬鹿も多いけどね。あと、裕福だし。まあ、僕ほどじゃないけどねえ」


 そう言って何故か、ふふんっと鼻を鳴らす。


 柚子菜はもう一度「そうですか」と小さく声を出して目を伏せた。



 ほんのちょっとだけ期待してしまった。あの皐月という男は「同じ世界から来た人間なんじゃないか」って。その期待はすぐ様、粉々になったわけだが。


 この世界——上界じょうかいには、神様やあやかしといった類の者たちが棲んでいる。その気があれば神様の補佐をし、神様になるために修行をするのだという。


補佐をすることで神様からの恩恵を受け、世界が成り立っている。だから、神様の補佐をする者達をこの世界では崇めているのだという。


人の姿を成せる者ほど力が強く神様に近いらしい。この宴にいる者達はそのほとんどが人の姿をしているため位が高いのだろう。


全て永峰から聞いた話だ。黒髪黒目はこの世界では珍しい、という話も。



「ちょっと、ご……え、えっと、かわやに」


 気持ちの浮き沈みだけで、どっと疲れを感じる。


一人になりたくなってそう口にしたが、永峰にがっちりと腕を掴まれてしまった。


「え?じゃあ僕も一緒に」


さも当たり前のような顔をされ、柚子菜は驚きに固まった。


「いえ!結構です!大丈夫ですから!」


 声を荒げすぎた。近くにいた人々が柚子菜たちを不思議そうに見つめている。


 永峰はハッとした顔をして「我が儘で困りますよ」と誤魔化し笑いのようなものを浮かべ、柚子菜から一瞬、目を逸らした。


 今しかない!と少しだけ緩んだ手を振りほどいて足を踏み出す。


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