別れの夜に、約束のキスを

葉月 望未

序章

出会ってしまった人




 体の奥が熱い。


心臓が動くたびに沸き立ち、目は捉われ、周りの音は遠くなっていく。


この人だ。


——ただ、そう強く感じた。







「ねえ、柚子菜ゆずなちゃん、俺と一緒に抜け出そうよ」


「いえ、あの……抜け出すのは、ちょっと」


「えー?行こうよー」


 事務職で入社した会社の飲み会だった。新卒で、しかも初めての飲み会。花山はなやま柚子菜はとても緊張していた。


リクルートスーツに身を包み、黒髪はハーフアップにしている。化粧をしているが薄く、柚子菜は自身を地味な女だと自覚していた。


 だからこそ、同期の男からトイレの出待ちをされるなんて微塵も思っていなかった。今まで男と付き合ったことがなく耐性がない。



「俺、柚子菜ちゃんのこと可愛いって思ってた」



 柚子菜は同期の男の顔を一瞬だけ目に映したが、すぐに逸らして俯く。


 私が可愛い?信じられない……。



 同期の男は目が細く色白で顔は薄かった。一見、真面目そうだ。


この強引さは女慣れしているから?顔はモテそうなタイプではないと思うけど……。



「柚子菜ちゃん?聞いてる?」


「あっ、うん」


こんなチャンスはもう二度とないかもしれないけど、気が進まないな……。


 居酒屋の賑やかな笑い声を遠耳に恐る恐る顔を上げ、断ろうとした刹那。



「ねえ、その子、嫌がっているんじゃないかな?」


 誰かが近づいてくる。ゆったりと落ち着いたその声は、騒がしい店内の中でもくっきりと聞こえる雑味のない声だった。


「は?おっさん、誰?」


 同期の男は眉間に皺を寄せ、背後に立った男を見上げた。


柚子菜はスカートの裾を強く握る。


——あの人から目が離せない。



 男は背が高く、すらっとしていた。


目尻には薄い皺があり、それが柔らかい雰囲気を醸し出している。


黒髪と濃い灰色のスーツがしっくりと似合っていた。


30代後半から40代くらいに見えるその男は柚子菜が知っているおじさん上司とは違って清潔感があり、モデルのような容姿をしていた。

女性から引く手数多なのだろうと容易に想像がつく。



「こいつは俺と同期なんですよ。邪魔しないでもらえます?」


「ははっ、おじさんは邪魔か。こんなにも魅力的な女性、そりゃ、ほっとかないだろうね」



 男は壁に寄りかかると俯きがちに小さく笑った。睫毛が長く、その横顔はあまりにも綺麗で。


「では、私も口説かせていただこう。お嬢さん、私とお茶でもいかがですか?」


 目を細めて微笑む男に柚子菜はすっかりやられてしまった。


 そうして、その男と居酒屋を抜け出した。


 今、柚子菜の目に映るのは彼だけだった。周りの人々はぼやけているが、彼だけがくっきりと輪郭をなしている。


「君はこんなふうに誰にでもついてきちゃうのかな?危ないからこんなこと駄目だよ?駅まで送るから」


柚子菜と男の間には一人分の距離がある。男に「口説く」意志は見受けられない。それどころか眉を下げて心配そうに柚子菜を見ている。


「あの、さっきは助けていただき、ありがとうございました。……でも、びっくりしました。こんな私を口説く人がいるなんて」


 どこかの店から外にまで笑い声が漏れて聞こえてくる。夜だというのに繁華街は明るく、月は見えない。



「ちょっとそこのお客さーん!お店に寄って……えっ」

「……あの人、かっこいい」


 客引きの女性達は声を出すのを中断してしまうほど男に釘付けだ。しかし、男はそれを気に留めるでもなく、柚子菜に歩幅を合わせながら前を向いて歩いている。



「貴方は、魅力的な人だよ」


 男は明瞭な声で、今度はゆっくりと口にした。

彼を見上げると、心なしか耳が赤く染まっている。


 胸の奥がぎゅっと、少しだけ苦しくなる。


そっと俯いて、はやくなっていく自分の鼓動を感じた。


 この人は気持ちをこんなにもはっきりと伝えてくれる。


男の綺麗な横顔を見つめる。

——夜の街に似合わず、耳には桜色の天然石らしきピアスが淑やかに輝いていた。



「ん?ああ、ピアスを見ているの?」


「あっ、は、はい。綺麗だな、って」


 視線を感じたのか、男は柚子菜を見た。目が合いそうになって咄嗟に逸らしてしまう。


「……ピアスは、空いている?」


 男が足を止める。


「え?」


 柚子菜も男に合わせて止まった。


ゆっくりと男の手が柚子菜に近づき——触れる直前で、止まった。


 不思議に思って顔を上げると目が交じり合う。男は優しく穏やかな目をしていた。


「あ、の……」


 柚子菜は小さな自分の声を聞きながら、すでに男を受け入れていることに気がついた。心も体も男の手を避けようとはしなかったのだ。


「少し、触れても?」


 空気に溶けていくような甘さを含んだ声に、柚子菜はこくりと頷く。再び手が近づき、指先が耳朶に触れた。


「私のピアスをあげよう」


「……え?」


「お守り」


 男はひっそりと、まるで秘密を囁くかのように、そう口にした。


「今、外すからね」


 だが、次の瞬間には静謐な雰囲気から打って変わり、ニコッと笑って明るい声を出した。


それから自分のピアスを外して鞄からウェットティッシュを取り出すと丁寧に拭き始める。石の部分はクロスで拭いていた。


 え?本当にくれるの?と目を丸くしていると、男はハッとした様子で顔を上げた。


「おじさんのピアスなんて欲しくない?大丈夫かな」


男の顔があまりにも真っ青で、クスクスと笑ってしまった。


「大丈夫です。嬉しいです!」


 ピアスを着けてもらっている間、男の手の熱をじんわりと感じていた。

もっとこの人のことを知りたい。


初めて会った人にこんなことを思うなんて。とても不思議な感覚だった。


「うん、似合うね。可愛い」


「あ、ありがとうございます」


 男は柔らかく微笑み、柚子菜を見つめていた。






——柚子菜にはそれ以降の記憶が、ない。


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