OutLands編_第12話_空から目が消えた日
その朝も、第八は灰を吸っていた。
乾いた風。
テントとテントのすき間を抜けていく砂ぼこり。
水タンクの列にできた、いつもより少し短い人の列。
短くなったのは、
気温のせいでも、配給量が増えたからでもない。
リオ。
サム。
マイク。
第七から戻ってこなかった十二人。
そして、カーンとソフィアは今も都市の中にいる。
名前を一つずつ思い浮かべるたびに、
第八の空気は、目には見えないのに、確実に薄くなっていく気がした。
イリヤは、空になった水桶を肩に担ぎ直した。
「……軽くなったな。」
思わずこぼれた独り言に、自分で顔をしかめる。
軽くなったのは、水じゃない。
ここに居る人間の数だ。
ふと、テントの端でしゃがみ込んでいる子どもたちが目に入った。
リオと同じくらいの年の子もいる。
笑い声が、耳にささる。
——戻ってこないんだよな。
そう思った瞬間、視界の端が少しだけ暗くなった。
イリヤは首を振って、足を速めた。
◇ ◇ ◇
昼前、集落の外からバギーの音がした。
灰を巻き上げながら広場の手前で止まり、
側面に擦れかけた印を付けた男たちが降りてくる。
ディスパーサの腕章。
先頭にはダリル。
その後ろに、見覚えのない偵察役が二人。
テントの中で道具をいじっていたレイモンドが、顔だけ突き出した。
「嫌な音色だな。」
「良い知らせを持ってきたことなんて、あったか?」
カイがぼそりと返す。
数分後、ダリルたちはレイモンドのテントの前に集まった。
「レイモンド。」
「ここで聞く。」
レイモンドは立ったまま言った。
「中を荒らされると、片付けが面倒だ。」
「……相変わらずだな。」
ダリルは苦笑し、それから声を落とした。
「第七の方で、妙なもんを見た。」
「妙なもん。」
レイモンドの目が細くなる。
後ろに立っていた偵察役の一人が、前に出た。
「ウォッチャーが、居なかった。」
「雲に隠れてたとかじゃなくてか。」
カイが訊く。
「二晩続けて、だ。」
もう一人が続ける。
「いつもなら、この時間帯に一本は灰域の上をなぞる。
ルートを変えても、時間をずらしても、小さな光がひとつは動く。
それが——どこにも見えなかった。」
「……まあ、空の巡回コースを変えたって話かもしれない。」
レイモンドが言う。
「それだけなら、そうも思えた。」
ダリルが首を振った。
「だが、外縁の近くまで出た偵察が居る。
そいつの話じゃ——」
偵察役が、無意識に喉を鳴らした。
「外縁に貼り付いてるTFが、一台も動いていなかった。」
テントの中の空気が、音もなく変わる。
「“反応が鈍い”とか、“照準が遅い”んじゃない。」
男は、手振りを交えて言った。
「砲塔も、センサーも、完全に止まってる。
こっちが見える距離まで近づいても、警告の光ひとつ点かない。」
「近づき過ぎて、撃たれなかったのか。」
カイが確認する。
「撃たれなかった。
あの距離まで行って生きて戻ったやつは、今まで一人もいない。」
沈黙。
やがて、レイモンドが口を開く。
「罠の可能性は。」
「ゼロじゃない。」
ダリルは即答した。
「だが、あれを全部止めてまで仕掛ける罠は、
都市側にとっても割に合わない。」
「……一回、自分の目で見てみる必要はあるな。」
レイモンドが息をついた。
「偵察だけなら、付き合ってやる。」
「私も行く。」
イリヤが口を挟んだ。
「カーンとソフィアを連れていかれたのは、その“向こう側”だ。
様子がおかしいなら、見ておきたい。」
「だったら、俺も。」
カイが肩を回した。
「歩数と距離くらい、測ってやる。」
ダリルは三人の顔を順に見た。
「勝手に走って逃げるなよ。
今回は、お前らの足も借りる。」
◇ ◇ ◇
第八から半日歩けば、都市の外縁を見渡せる丘に出る。
灰を含んだ風が、肌にまとわりつく。
遠く、地平線の向こう側には、ぼんやりと光る都市の輪郭。
その手前に、真っ黒な線のようなフェンスと、
内側に並ぶいくつもの影が見えた。
灰域に向けて口を開けたTF。
都市の“牙”。
——の、はずだった。
「……本当に動いてないな。」
カイが双眼鏡を覗いたまま言う。
「いつもなら、砲塔が少しずつ揺れてる。
自動追尾の癖で、必ずどこかが動いてるはずだ。」
「今は。」
「絵みたいに固まってる。
一コマ切り取ったみたいに、微塵も動いてない。」
レイモンドは丘の斜面から一歩前に出た。
「ディスパーサが“ここから先は馬鹿の領域”って言ってたラインは。」
「この辺だ。」
偵察役の男が、地面に爪先で印を付けた。
「ここから数歩出たら、いつもならウォッチャーがルートを変えて、
外縁の牙と一緒にこっちを睨んでくる。」
イリヤは印の少し手前に立った。
「……出る。」
誰にともなく言って、一歩、境界を越える。
灰を踏む音だけが響く。
上を仰いでも、いつもの小さな光はどこにもない。
灰色の天井が、ただ広がっているだけだ。
「もう二歩。」
偵察役の指示で、さらに足を出す。
「ここまで来た時点で、普通は砲塔が最低一基こっちを向く。」
カイが双眼鏡をイリヤに押し付けた。
イリヤはレンズ越しに外縁を覗き込む。
フェンスの内側、地面に固定されたように動かないTF。
砲塔は灰域ではないどこかを向いたまま、
完全に止まっている。
センサーの黒い“目”も、沈黙したまま。
警告灯らしき小さなランプも、点く気配すらない。
「……生きてる機械の顔じゃないな。」
イリヤは息を吐いた。
「近づく。」
レイモンドが低く言い、斜面を降り始める。
「馬鹿か。」
ダリルが舌打ちした。
「そこで撃たれたらどうする。」
「撃たれたら、“まだいつも通りだ”って分かる。」
レイモンドは振り返らずに答える。
「それだって情報だろ。」
結局、全員でついていくしかなかった。
灰が深くなり、靴の裏がずぶずぶと沈む。
フェンスの鉄骨が、目の前に迫る。
——それでも、何も起きない。
警告音も。
照準光も。
砲塔のわずかな揺れさえ、どこにもない。
「……本当に、死んでるな。」
ダリルが低く呟いた。
カイは、TFの側面に顔を近づけた。
防護パネルの隙間に、小さな表示パネルが見える。
「文字が出てる。」
「読めるか。」
レイモンドが訊く。
「……“LINK LOST(リンク喪失)”。
その下に、“SAFE-LOCK(安全固定)”。」
カイが顔をしかめた。
「上と繋がらないから、安全姿勢のまま固まってます、だと。」
「空の目も飛んでない。」
レイモンドは、砲塔を見上げる。
「外縁の牙も、こうやって地面に刺さったまま。
少なくとも今は——
都市の“目”も“手”も、ここには届いてない。」
誰も、それに反論できなかった。
◇ ◇ ◇
◇
夜。
第八の外れ、小さな丘の上。
粗末な墓標の列の向こうに、灰色の空が広がっている。
ウォッチャーの光点は、一つも見えない。
リオ。
サム。
マイク。
第七で倒れた十二人。
リース。
並んだ名前を、イリヤは指先で一つずつなぞった。
「……空からも、居なくなったな。」
誰に聞かせるでもない声が、風に消える。
「お前らの上を通ってた“目”も、今日はない。」
それが良いことなのか、悪いことなのか。
まだ、答えは出せない。
ただ、空がこんなふうに“何も通らない夜”になったのは、
イリヤの記憶の限り、初めてだった。
後から振り返れば、
この日を境に、第八は「待つ側」から「選ぶ側」に変わっていくことになる。
その夜のイリヤは、ただ黙って、
目のない空と、名前の増えた墓標を見つめていた。
報告を持ち帰ったあとの集会は、いつもよりずっと静かだった。
第八の大きなテントの中、灯りは最低限。 真ん中の木箱を囲んで、レイモンド、ダリル、カイ、それに各集落の代表たちが腰を下ろしていた。 イリヤは入口の布を少しだけめくり、冷たい外気と一緒に中へ入る。
「もう一度、最初から話してくれ。」
レイモンドが、イリヤの方を見た。
「……外縁のウォッチャーは、少なくとも半日は飛んでない。 いつもなら、一時間に数回は光の筋を引くのに、今日は一度も。」
「外縁の鉄の奴らは?」
「全部止まってた。 足も砲塔も動かない。警告灯も、死んだみたいに暗いまま。」
テントの中で、小さなざわめきが起きる。
「巡回、ゼロってことか。」
カイが低く言う。
「ゼロ。 こっちがどれだけ外縁に近づいても、誰も撃ってこなかった。」
「……都市で、何か起きてる。」
誰かの呟きに、レイモンドがうなずいた。
「少なくとも“いつもの都市”じゃない。
ウォッチャーも外縁も黙ってる都市は、俺たちが生きてきた中で初めてだ。」
「なあ。」
焚き火で煤けた顔の誰かが、ぽつりと言った。
「これさ……カーンとソフィアが、何かやったんじゃねぇのか?」
テントの中の空気が、わずかに揺れた。
その“可能性”にすがりたい気持ちは、誰もが分かっていた。
「都市の中で、あいつらに出来ることなんて限られてる。」
レイモンドが淡々と言う。
「だが、何も起きてないよりはマシな夢だな。」
誰かの乾いた笑いが、すぐに消えた。
誰かの呟きに、レイモンドがうなずいた。
ダリルが片肘を木箱につき、じっとこちらを見ている。
「それで、どうする。」
「決まってる。」
レイモンドは、迷いのない声で言った。
「中に入る。 ソフィアとカーンを探して、連れ戻す。 ついでに、自分の目で“都市”を見てくる。」
“連れ戻す”という言葉が、頭の中で何度か反響した。 まだ実感は薄いのに、胸だけ先にざわつく。
「潜入ルートは?」
カイが問う。
「ウォッチャーが黙ってるなら、灰域側から回り込める道がいくつかある。 外縁のTFが完全に死んでるなら、その隙を突ける。」
レイモンドの視線が、こちらに向いた。
「イリヤ。」
「……私か。」
「第八のことを知らない奴だけで行くわけにはいかない。 ソフィアとカーンを連れ戻すと言うなら、その場に“第八”の目がいる。」
喉が少し乾いたが、声は思ったより普通に出た。
「行く。 あいつらの顔を見ないまま諦めたら、一生後悔する。」
カイが小さく笑う。
「だろうな。」
「都市側の車を動かせるやつと、都市の出身者…地理を覚えてるやつが一人。 それで潜入隊を組む。」
レイモンドは周囲を見回した。
「今夜中に準備をして、夜明け前には出たい。」
しばしの沈黙のあと、誰かが息を吐いた。
「……外は、どうする。」
その問いに、レイモンドはほんの少しだけ目を伏せる。
「俺たちが戻るまで、第七も第八も、灰域も……みんなを頼んだ。」
言葉はそれだけだった。 “戻れないかもしれない”なんて、誰も口には出さない。
ダリルが、口角だけで笑う。
「任せとけ。 中で迷子になるなよ。」
「そっちもな。」
レイモンドが短く返し、集会は解散に向かって動き出した。
集会の輪がほどけていく中、テントの端では別の火が小さく揺れていた。
薄汚れたローブをまとった数人が、灰を指先ですくい上げて額に印を描いている。“祈りの丘”の連中だ。
彼らはただ、灰色の空に向かって同じ言葉を繰り返していた。
「箱は眠り、境界は揺らぐ……」
イリヤは、そのささやきを聞き流すようにしてテントを後にした。
今は預言よりも、目の前の仲間を取り戻す方が先だった。
◇
準備は驚くほど早く進んだ。
イリヤとカイは、第八のテントに戻り、簡単な荷物をまとめた。 毛布、乾いた食料、水、短い刃物と古い銃。 なぜか、リオが使っていた小さな金属カップも、手が勝手に鞄へ突っ込んでいた。
「本当に行くんだな。」
背中越しのカイの声。
「うん…」
「……サムとリオを殺した連中が、どんな顔して“箱”に守られてるのか見てやりたい。 それからだ。灰域がこれから何をするか考えるのは。」
「同じだ。」
紐をきつく結びながら答える。
「ソフィアとカーンに会って、 それでも戻れなかったら、そのときはそのときだ。」
テントの布をめくって外に出ると、もう夜の色が広がり始めていた。 遠くでエンジンがかかる低い音がする。 それが、イリヤは自分たちの行き先を決めてしまう音に聞こえた。
◇
バギーのそばで、レイモンドが最後の確認をする。
「潜入に出るのは、俺とイリヤ、カイ。」
指が順にこちらを差したあと、少し離れたところに立つ二人へ向く。
「都市の地理をまだ覚えてるゲイル。それから、車をばらしても組めるロウ。……以上、五人だ。」
ゲイルが肩をすくめる。
「俺が居たのは四十年前だがな。道そのものは、そうそう動かんと思う。」
ロウは無言でバギーのフレームを叩き、エンジンの音を一度だけ確かめた。
「これ以上増やせば足が目立つ。減らせばどこかの役割が抜ける。」とレイモンドが続ける。
「外は俺たちが戻るまで頼んだ。」
それに応えるように、ダリルが顎を上げた。
「さっさと行け。中の様子は、お前らの目で見てこい。」
レイモンドたちと共に第八を出たのは、それからすぐだった。
灰域の夜風は冷たく、砂の匂いはいつもと同じだった。 違うのは、その先にある都市が、今までと同じではないかもしれない、ということだけ。
背後で、第八の灯りが少しずつ小さくなっていく。 イリヤは振り返らなかった。
◇
イリヤたちが闇の中へ消えていくのを見届けてから、だいぶ経った頃だ。
第八の外れ、崩れかけた監視塔の上で、ダリルはひとり、空を見ていた。 ウォッチャーの光は、やはりどこにも見えない。
「……やっぱり、眠ってやがる。」
ダリルはポケットから古い送信機を取り出した。 灰域のあちこちに散らばったアンテナと、伝令役たちに繋がる、くたびれた機械だ。
スイッチを入れると、ざらざらとした雑音が耳を打つ。
「こちらダリル。聞こえるか。」
短い呼びかけのあと、いくつものかすれた返答が重なった。 第七、第九、それから名前も持たない集落の符丁。
ダリルは一度息を吸い、言葉を選ぶように口を開く。
「……ウォッチャーは飛んでいない。 外縁の鉄も、一日中黙ったままだ。」
「だからって、浮かれるなよ。」
しばしの雑音のあと、どこかの集落の声が笑い混じりに返ってきた。
「“丘”に知らせりゃ、“今こそ聖戦だ”って騒ぐかもな。」
「俺が伝える。お前らからは何も言うな。」
ダリルは短く切り捨てる。
「本当に何が起きてるのか分かるまでは。」
雑音の向こうで、誰かが小さく息を呑む気配がした。
「これは、罠かもしれない。 ここから先は、戻れないかもしれない。 だから──“本気”だけを寄こせ。」
塔の上の鉄骨が、風にきしむ。
「二十時間だ。 そのあいだに、戦える奴をかき集めろ。 刀でも銃でも古い爆薬でも構わない。 第八の境界に、持てる牙を全部持って来い。」
返答は、すぐには返ってこなかった。 やがて、ひとつ、またひとつと、短い了承の声が重なっていく。
「これは、村と村の喧嘩じゃない。」
ダリルは、口の端をわずかに吊り上げた。
「灰域の子どもを撃った“箱”に、ケリをつける戦だ。 そう伝えろ。」
送信機のランプが点滅を続ける。
ダリルはそこで一度通信を切り、別の周波数にダイヤルを回した。 灰域の丘の上、粗末な塔と祈りの歌声で知られる宗教集団用のチャンネルだ。
「……聞こえるか。祈りの丘。」
しばらくして、男とも女ともつかない低い声が返ってきた。
『ここは丘の会堂だ。何の用だ、ダリル。』
「空を見ろ。」
ダリルは短く言った。
「ウォッチャーが空から消えた。お前らがずっと歌ってた“都市の自滅”とやらが起きたかもしれん。」
少しの沈黙。その向こうで、ささやき声が増えていく。
『……徴だと、言いたいのか。』
「好きなように呼べ。 神の徴でも、鉄の故障でも構わない。 だが、事実として一つだけ言える。」
ダリルは監視塔から見える暗い都市の輪郭を睨んだ。
「今なら、ウォッチャーはお前らの頭の上を飛べない。 祈るだけじゃなくて、歩いて“あの壁”まで行ける。」
通信の向こうで、誰かが笑ったような息を吐く。
『……これは、聖戦だと、信徒たちは受け取るだろうな。』
「だったら話は早い。」
ダリルは淡々と言う。
「お前の“神兵”を集めろ。俺達がまず突入する。その時、都市の中がどうなってるか教えてやる。
後はお前たちで考えろ。……準備は怠るなよ?千載一遇のチャンスだからな。」
『都市を滅ぼしに行くのか。』
「さあな。」
ダリルは肩をすくめた。
「俺がやりたいのは一つだけだ。 灰域の子どもを躊躇なく撃つ“箱”に、 灰域の全部の怒りをぶつける。」
短い沈黙のあと、低い声が笑った。
『良い。 それを我らは“聖戦”と呼ぶ。 神に見せてやろう、灰域の怒りを。』
通信が切れる。
ダリルは無言で送信機を握りしめ、暗い地平線を見下ろした。
まだ見ぬ場所で、焚き火の光が少しずつ灯り始めている。 戦士たちが武器を掘り起こし、神兵たちが粗末な旗を引っ張り出している光景を、ダリルは容易に想像できた。
「レイモンドが中でソフィアたちを見つける頃には……もう止まれねえぞ。」
誰にともなく呟き、ダリルは送信機の電源を落とした。
こうして、灰域中から戦士と信徒が、 二十時間をかけて第八の境界へと集まり始めることになる。
そのことを、まだイリヤたちは知らない。
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