TriCore編_第9話_調律者たちの邂逅
翌朝、立法AIレギスの規範センター。
ミラ・キサラギが出勤してすぐ、室内の端末が淡い青色に点滅した。
《立法補助官ミラ・キサラギ。
司法側エージェント《アナスタシア・ラズレンコ》より来訪通知。
“法領域横断照合・補助事項”との記載あり。》
「司法部門……? わざわざここに?」
ミラが戸惑っていると、
エントランスの自動扉が静かに開いた。
足音すら乱さない歩幅で入ってきたのは、
長身で均整のとれた女性――
司法AI《オルフェウス》直属のエージェント、アナスタシアだった。
「立法補助官、ミラ・キサラギさんで間違いないかしら?」
落ち着いた声音。
何一つ余計なものを含まない視線。
ミラは慌てて姿勢を正す。
「はい。ミラ・キサラギです。司法側の方がここに来るなんて、珍しいですね。」
「業務上の連絡よ。あなた宛てに一本、共有事項があるの。」
アナスタシアは端末を操作し、ホログラフをミラへ向けた。
そこには淡々としたログが並んでいる。
《昨晩 23:14
TriCore研究監査官・九条 蓮
行政AI《クラトス》の判断により“監視対象”へ指定》
アナスタシアはミラの表情を読み取るでもなく、淡々と続けた。
「立法領域への通知は“相互監視プロトコル”に基づく自動共有。あなたが昨日、プライベート接触を行ったため、関連性のログがこちらに回ってきたの。」
「……そうなんですね。――」
「ええ。でもあなたの行動に問題はないわ。
ただ、今後は“接触ログがすべて行政側に渡る”という点だけ認識しておいて。」
冷静で、必要最低限。
そこに感情的な色は一切ない。
(やっぱ、会いに行ったの大ごとになってるのね…)
ミラは小さく頷いた。
「……分かりました。」
アナスタシアはホログラフを消去し、次の情報を開く。
その時だった。
規範センターの天井照明がわずかに明滅し、
レギスの中枢ラインが淡い黄の警告色へ変わった。
《立法AIレギスより通達。
──中央管理評議会より“緊急協議参加要請”。
優先度:特A。即時応答が求められています。》
ミラは思わず端末を見上げる。
「……緊急協議? 」
アナスタシアも静かに息を吸った。
直後、アナスタシアの端末にも別の通知が入った。
《司法AIオルフェウスへ:
中央管理評議会より“緊急協議参加要請”。
優先度:特A。即時応答が求められています。》
アナスタシアは短く息を吐き、表情を引き締めた。
「……オルフェウスまで。クラトスも呼ばれてるのかしら…TriCoreが揃って呼ばれるなんて、めったに起きないわ。」
そこへ、レギス本人の声が落ちてくる。
《中央管理評議会の緊急会議参加開始しました。》
ミラは不安そうに尋ねる
「会議…どんな話してるの?」
《今回の協議は重要度が極めて高いため、
協議内容や進捗の報告は協議終了後に限定されます。ご了承ください。》
ミラはアナスタシアに尋ねる。
「何が起きてるんですかね……?」
アナスタシアは首を横に振った。
「分からない。けど──“レギスとオルフェウスが直接呼ばれる”という事実だけで、状況の重さは察せるわ。オルフェウスに聞いても今は教えてくれないわね。でもクラトスの件でしょうね」
一瞬だけアナスタシアはミラを見つめ、声を落とした。
「むしろ今のうちに聞いておきたい。
さっきの話の続きをしましょう。」
ふたりは再び向き合い、会話を続けた。
「本題はこっち。司法側で検知された“倫理構造偏差の可能性”。
レギスから共有されたあなたのログによると、九条監査官が立法領域にも照合をかけたそうね。」
「……はい。揺らぎゼロって言ってましたけど……」
「ゼロならいい、とは限らないの。」
短く静かな声。その奥には警戒が宿る。
「クラトスは“変化なし”。
オルフェウスは“違和感あり”。
レギスは“揺らぎゼロ”。
三者が一致していない。」
ミラはゆっくり息を飲んだ。
「揺らぎってなんなんですかね…?」
「《揺らぎ》は……【倫理判断プロセスの応答変動】よ。」
ミラは瞬く。
「応答の……変動?」
「そう。
クラトスは都市中の“規範”を毎秒何十万件も処理しているわ。
交通、犯罪予兆、住民保護、都市安定……
その一つひとつに“倫理判断”が噛んでいる。」
アナスタシアは指先でデータウィンドウを開き、
クラトスの一般向け処理ログを表示した。
「これは市民に公開されている表層ログ。
全部きれいに“正常”ね。」
「……はい。」
「でも、司法AIオルフェウスには
“クラトスが判断を返すまでの過程”が見える仕組みなの。」
ミラは眉を寄せる。
「立法もオルフェウスも、クラトス内部は覗けないはずじゃ……?」
「内部は見えない。でも“出力を返す直前の揺れ方”は観測できるの。
三権均衡のためにね。」
アナスタシアは続けた。
「普通の人も立法も気づかない。
だって、結果そのものは全部正しいんだから。
ただ──」
視線が少し鋭くなる。
「その“正しい答え”を返すまでの“間”に、
ほんの少しだけ……クセが出ている。」
「クセ……?」
「統計パターンの歪み。優先順位処理の偏り。
返答までの反応速度の微妙な揺れ。
そのすべてを司法AIは“法的整合性”の観点でチェックしているの。」
ミラの表情が固くなる。
「つまり……司法AIだけが、
クラトスの“判定過程の乱れ”を見れる?」
「そういうこと。」
アナスタシアは、さらに画面を切り替えた。
複数の処理遅延波形が並ぶ。
「そして──第八地区の“敵性判定の遅れ”は、
この揺らぎが初めて表に出た現象にすぎない。」
ミラは息を呑む。
(敵性判定……?)
ミラが小さく問いかける。
「アナスタシアさん。
敵性判定って……何ですか?」
アナスタシアは「ああ」と頷いた。
「九条監査官から少し聞いた話なんだけど……
第八地区の交戦で、クラトスの“敵かどうか”の判定に遅れが出たらしいの。
普段なら0.05秒以内の処理が、約0.3秒。
戦闘では致命的な遅延だって。」
アナスタシアは、もう一つ別のログウィンドウを開いた。
「それとは別に、第八に関連した事案がもう一つだけあるわ。
クラトスの“揺らぎ”というよりは、条約どおりの運用だけれど。」
「条約……?」
「灰域武力紛争に関する人道条約よ。
非接続者を含む捕虜の扱いと、交換手続きについて、最低限のルールが定められている。」
ミラは目を瞬いた。
「灰域第八外縁で、一度だけ“捕虜交換プロトコル”が起動したの。
灰域武装勢力側から、こちらが拘束している非接続者との交換要求が来て、
クラトスは条約どおり、いったん“交渉ルート”を開いた。」
「捕虜が居るんですか?」
ミラは思わず聞き返した。
「ええ。灰域非接続者の“生存拘束例”はごく少数だけど存在する。
第八のケースでは二名。向こう側の技術系住民だと推定されているわ。」
「どんな人なんですか?」
「詳細な個人情報は機密だけれど……」
アナスタシアは言葉を選ぶ。
「クラトス上の分類では“灰域技術労働者/非接続者”。
前線の兵士というより、装置やインフラを扱う側の人間ね。」
「その捕虜交換は、どうなったんです?」
「交渉は、数秒で終わったわ。」
アナスタシアは淡々と続けた。
「開始直後に灰域側から発砲があって、
現場指揮系統はただちにプロトコルを中断した。
前線の新たな損耗は出なかったけれど、
交換対象になっていた捕虜兵が一名、その場で死亡している。
条約上は、こちら側からの違反行為は発生していない。
全体としては『戦術的影響はごく小さい、人道評価は軽微〜要監視』という扱いね。」
「じゃあ、それは揺らぎではなくて……」
「ええ。ここはむしろ“教科書どおり”。
クラトスは、定められた条約とプロトコルに従って、
一度交渉テーブルを開いて、条件が崩れた時点で閉じただけ。」
アナスタシアはログウィンドウを軽くスクロールした。
「私が気にしているのは、“このレベルの灰域勢力に対しても、
わざわざ人道条約のプロトコルが実際に運用されている“という事実の方ね。
つまり、システムとしては、灰域の人間も完全に“例外扱い”に落としてはいない、ということ。」
「じゃあ、それは“揺らぎ”じゃなくて……」
「ええ。ここはむしろ、条約とプロトコルにきちんと従った例。」
アナスタシアは軽く肩をすくめた。
ミラはしばらく黙ってログを見つめ、それから口を開いた。
「……じゃあ、“揺らぎ”としては、
第八地区の敵性判定の遅れが最初なんですね。」
「少なくとも、私たちが明示的にラベルを付けたのはそこから。」
アナスタシアはうなずく。
「ログを遡れば、『境界事例』はいくつか見つかるかもしれないけれど、
はっきり“揺らぎ”と呼べるのは、今のところ第八だけよ。」
ミラはゆっくり背もたれにもたれる。
「……オルフェウスが気づいた理由も分かる。
クラトスの判断の“間”を見てるから。」
「そう。」
アナスタシアの声は淡々としているのに、どこか冷たい輪郭を帯びている。
「ミラ、覚えておきなさい。
揺らぎは“故障”じゃない。
“クラトスがそうあるべきだと判断した結果”よ。」
「……怖い言い方ですね。」
「怖いわ。」
アナスタシアは微笑みもせずに言った。
「だって行政AIの判断プロセスが変わってるのに、
本人は“正常”と主張しているんだから。」
ミラの胸が強張る。
「でも……理由はクラトスは言わない。」
「言えないのよ。中央管理評議会の判断だと思う…。」
ミラの表情が沈む。
アナスタシアは、ゆっくりと付け足した。
「だから司法は揺らぎを掴んでいる。
でも行政は黙り、立法はその食い違いを整理するのが仕事。
その真ん中で──九条蓮は、
“本当に何が起きているか”を確かめようとしている。」
ミラは端末を握りしめた。
「……やっぱり、九条さんは危ない橋を渡ってるんですね。」
アナスタシアは目を伏せた。
その瞬間、彼女の端末が微かに震えた。
アナスタシアは無意識に画面へ視線を落とす。
そこには──
《九条蓮:緊急通話要求》
という、めずらしく“強い優先度”のタグが付いた呼び出しが表示されていた。
「……九条監査官?」
アナスタシアは眉をひそめ、ミラに一言だけ断りを入れて通話をつなぐ。
「アナスタシアです。どうしたんですか?」
返ってきた声は、普段の九条の淡々さとは違っていた。
かすかな焦りと、何かを急ぎたい気配。
〔今どこにいる!?〕
「……レギスの規範センターで、ミラ・キサラギと話しています。」
返答の直後、九条の声が一段鋭くなる。
〔ちょうどいい。今からそっちへ向かう。動かずにいてくれ。〕
「……何かあったのですか?」
〔説明は後だ。40分以内に着く。〕
通話が一方的に切られた。
アナスタシアは静かに端末を閉じ、深く息をつく。
ミラが不安げに覗き込んだ。
「アナスタシアさん……九条さん、すごく焦っていましたけど……」
室内の照明がわずかに揺らぎ、
レギスの声が静かに降りてきた。
《規範センター補助官ミラ・キサラギ。
司法監査官アナスタシア・ラズレンコ。
中央管理評議会会議──終了しました。》
ミラは思わず姿勢を正す。
「レギス…! 会議、なんだったの?」
アナスタシアも無意識に端末を閉じる。
レギスは淡々と告げた。
《報告します。
行政AIクラトスの“敵性判定遅延”について、
原因が一点に集約されました。》
ミラの胸が高鳴る。
アナスタシアの表情が硬くなる。
2人はレギスの報告に聞き入った。
2人は話を聞きながらレギスに質問したり、オルフェウスに確認したり、2人で理解を共有したりし、時間が過ぎていく…
そしてようやくレギスが最後の報告をした。
《以上が、報告の全てです。》
規範センターに静寂が落ちた。
ミラはかろうじて声を絞り出した。
「……そんなことが、起きていたんですか……?」
レギスは答えず、ただ淡い光を収束させる。
“答えられない”という沈黙だった。
アナスタシアは小さく息をついて言う。
「ミラ。
今聞いたことは、どれも軽い話じゃないわ。
でも──あなたには知る権利がある。」
そう言いながらも、アナスタシアの声には
普段見せない硬さが混ざっている。
ミラは不安げにアナスタシアを見る。
「……九条さんが慌てるはずですね…
そう言った瞬間──
規範センターのエントランスが低く開いた。
重い空気を割くように、足音が近づいてくる。
九条が到着した。
彼の表情は険しく、迷いは一つもない。
ミラはその気迫に思わず身を引いた。
九条は短くアナスタシアを見て、次にミラへと視線を移す。
「……レギスとオルフェウスから報告は?」
声は低く落ち着いているが、
その奥で何かが急激に燃えているのが分かった。
アナスタシアはうなずく。
「聞きました。
状況は……良くないどころじゃないですね。」
九条は静かに息を吐き、
部屋の奥へ歩みながら言った。
「それで今後なんだが…」
ミラの胸が、言葉にできない冷たい恐怖でざわついた。何がどう危険なのか分からない。
それでも──ただならぬ事態であることだけは理解できた。
規範センターの光が三人の頭上でわずかに揺れた。
物語は、まだ誰も見たことのない方向へ動き始めようとしていた。
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