TriCore編_第8話_揺らぐ均衡

立法AI《レギス》立法局・第3ブロック。


ミラ・キサラギは、今日の案件一覧をホロパネルから一つずつ消していきながら、小さく伸びをした。


「……ふぅ。やっと通常案件は片づいた、かな。」


《レギス》の声が、室内スピーカーから穏やかに降りてくる。


《本日担当分の立法評価タスクは、すべて完了しています。お疲れさまです、ミラ。》


「ありがと。……ねぇ、レギス。」


ミラは椅子をくるりと回し、天井方向──レギスの演算核が接続されていると思しき位置を見上げた。


「ひとつ、個人的な“確認”をしてもいい?」


《内容によります。規範違反に当たらなければ、照会を受理します。》


「……TriCore研究監査官、九条蓮。」


その名前を口にした瞬間、自分の胸の奥で何かがわずかに固くなるのをミラは自覚した。


「この前の“内部照合”の件、その後どうなったの?」


レギスは即答した。


《数日前、TriCore研究監査官・九条蓮より、警戒級内部照合が一件発生しました。

 対象:クラトス深層倫理層の規範整合性。

 結果:レギス視点の整合性チェックでは、“揺らぎゼロ”と判定されています。》


「……警戒級、なんだよね、やっぱり。」


ミラは無意識に腕を組む。


「警戒級の内部照合って、そんなに頻繁に出るものじゃないんでしょ?」


《はい。記録が残っている限りでは、過去六十年間で三件です。》


「たった三件……。」


重さが違う。

ミラは静かに息を吐いた。


「そのうちの一件が、今回の九条さん。」


《そうです。》


「結果は“揺らぎゼロ”。

 なのに──」


ミラは少し視線を落とす。


「司法側のオルフェウスが“違和感”を出して、

 クラトスは“変化なし”って言い張って、

 ……そして九条さんは、それでも照合をかけた。」


レギスは一拍おいて答えた。


《あなたの認識は、記録ログと整合しています。》


ミラは椅子から立ち上がる。


「ねぇレギス。」


《はい。》


「……九条さんは、今何をしているの?」


レギスは一瞬だけ沈黙した。

ミラは、それが“検索中”の間だと分かっている。


《TriCore規範第23章・公務員行動記録の保護規定に基づき、業務目的以外での行動追跡照会は制限されます。

 九条蓮監査官の“現在位置”の業務外照会は──》


「ちょっと待って。」


ミラは片手を上げて遮った。


「じゃあ、業務目的ならどう?」


《照会目的を指定してください。》


「……“クラトスの倫理挙動に関する追加説明を求めるため”。

 レギス、あなた視点で見ても、これは立法側の正当な関心に入るはず。」


レギスは少しだけ声色を変えた。

といっても、抑揚ではなく、情報密度がわずかに上がるだけだ。


《照会目的を評価します・・・》


短い間。


《……否認します。》


「え?」


《九条蓮監査官は、現在“非勤務時間帯”に入っています。

 労働規範に基づき、業務目的であっても接触の強制や位置追跡は許可されません。》


「真面目か。」


ミラは額に手を当てて嘆息した。


「労働基準まで持ち出してくる?今、結構大事な話をしてるんだけど。」


《立法AIは、あらゆる規範を平等に扱う義務があります。

 労働時間の上限も、深層倫理層の安定も、同じ“規範”です。》


「分かってる。分かってるけど。」


ミラは少しだけ歩き回り、それから観念したように椅子に腰を落とした。


「じゃあ、こうしよう。これは、私個人としての“プライベートな接触”とする。

 勤務外で、ただ一人の市民として九条さんに会いに行く。

 その場合、“今どこにいるか”を教えてもらうのは……ダメ?」


レギスは、今度は即答しなかった。

少し長い沈黙。

ミラの胸の鼓動が、ほんのわずかに早くなる。


《本人の許可があればプライベートな居場所を教えることに問題はありません。また、原則として、TriCoreは市民のプライベートな移動を追跡しません。

 さらに、あなたの“私的行動”を記録することも、プライバシー保護の観点から制限されていますが、》


「なら、いいじゃない。」


ミラは身を乗り出す。

レギスは続けた。


《ミラ、今のは原則の話です。》


「原則?」


《はい。》


「ってことは、“例外”があるってことだ。」


レギスは、少しだけ声のトーンを落とした。


《その通りです。》


「……その例外って?」


《今回の場合監視対象です。》


空気が、わずかに重くなった気がした。


ミラは慎重に問い直す。


「監視対象……誰が?」


レギスは事実だけを読み上げた。


《TriCore研究監査官・九条蓮。

 行政側中枢──クラトス中央管理評議会の決定に基づき、

 “監視対象”に再分類されています。》


ミラは言葉を失った。


数秒後、ようやく声が出た。


「……理由は?」


《現時点で、立法側に理由は開示されていません。

 分類変更の事実のみが、相互通知プロトコルにより共有されています。》


「つまり、

 “世界で唯一、深層倫理層に直接アクセスできる監査官”が、理由は言えないけど監視対象になってる。」


《その通りです。》


「……理由を公開しろって言えないの?」


《できません、ミラ。

 理由を公開すること自体が、三重のリスクを生みます。


 一つ。理由の開示は、行政AIクラトスが現在警戒している

 “脆弱箇所”を外部に晒すことになります。


 二つ。監視対象は“確定した違反者”ではなく、

 あくまで疑義段階の人間です。

 理由を公開すれば、冤罪による深刻な人権侵害になります。


 三つ。立法が行政に理由の開示を強制する前例を作れば、

 三権均衡が崩れます。

 これは将来どの権力にも危険です。


 ──以上の理由から、

 TriCore設計者は“分類変更の事実のみ通知”という制度を採用しました。》


ミラは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。


「何かが“変な”気がする。

 オルフェウスが違和感を出して、

 クラトスは黙り込んで、

 九条さんは警戒級照合をかけて、

 その九条さんが、今は“監視対象”。」


レギスが穏やかに言う。


《あなたは、その状況を“自然ではない”と感じていますか?》


「……うん。」


ミラははっきりと頷いた。


「それを、ちゃんと自分の目と耳で確かめたい。

 少なくとも、“噂話”や断片的なログだけで判断したくない。」


短い沈黙のあと、ミラは決意したように言った。


「レギス。プライベートの接触として、九条蓮と会う。

 その場合の“ログの扱い”を教えて。」


レギスは形式通りの答えを返す。


《監視対象との対面接触は、原則として次の四項目が自動記録されます。

 一つ、日時と場所。

 二つ、参加者のID。

 三つ、接触の目的。

 四つ、会話の内容。》


「会話内容まで?」

ミラは思わず声を上げた。

「ねぇレギス、どういうこと?

 監視対象と“話した内容”まで全部残るなんて……

 それ、ちょっとやり過ぎじゃない?」


レギスは淡々とした声で返す。


《ミラ、これは“本人の安全保障プロトコル”の一部です。》


「……本人? 誰の?」


《監視対象となっている人物──ここでは九条蓮研究監査官です。》


ミラは瞬きをした。


「え、監視されてる側……を守るためなの?」


《はい。監視対象は“危険人物”とは限りません。

 むしろ、行政決定に重大な影響を与えうる立場にある人物が

 “不当な外部影響”を受けないよう保護する制度でもあります。》


「……外部影響って?」


《買収、脅迫、誘導、情報操作、あるいは個人的関係の形成による

 判断バイアス──

 いずれもTriCore統治では重大なリスクとなります。》


ミラは小さく息を飲んだ。


「つまり……

 “監視対象と接触する側”の行動を透明化することで、

 九条さんが変な影響を受けてないって証明する、みたいな?」


《その通りです。

 この制度がなければ、監視対象そのものの保護が成り立ちません。》


ミラは椅子に深く座り直し、頭を押さえた。


「なるほど……

 私が何か隠そうとしている、じゃなくて、

 九条さんを守るための仕組み、ってことね。」


《その通りです。》


ミラは息を整え、端末を手にした。


「よし……ルールは分かった。

 じゃあ記録は残ってもいい。

 ただし──その上で私は九条さんに会う。」


レギスが、少しだけ“人間らしい間”を置いて呼び止めた。


《……ミラ。》


「なに?レギス。」


《あなたが今から行おうとしている行動は、

 立法補助官として“義務”ではありません。》


ミラは目を瞬いた。


「……まぁ、そうね。」


レギスの声は淡々としているのに、どこか慎重さが滲んでいた。


《行政側は今、監視対象に関わる人間を注視しています。

 あなたが九条蓮と接触すれば、必然的に“立法側の意図”が疑われます。

 ──メリットは小さく、デメリットは大きい。》


ミラは小さく笑った。


「合理的な分析ね。でも……」


《合理性は、行動判断の基礎です。

 あなたが向かうことで、立法側が行政の内部監査に干渉しているように

 誤解される可能性もあります。》


「……じゃあ、行かない方がいいって言うの?」


レギスはすぐには答えなかった。

数秒の沈黙──まるで言葉を選んでいるような、そんな間があった。


《選択はあなたの自由です。

 ただ、あなたの行動は“注目”を引きます。

 利益と危険を天秤にかければ──行動しない方が安定しています。》


ミラはその答えに、ふっと微笑した。


「安定だけ考えるなら、そうね。」


レギスは静かに問い返す。


《では、今回、あなたを動かす基準は何ですか?》


ミラは天井の演算核を見上げ、

まっすぐした声で言った。


「“知りたい”って気持ちよ。

 それが遠回りでも、効率が悪くても……

 損得だけで動かないのが、人間。」


レギスは短く、しかしどこか感心したように応じた。


《……立法側の“自律”として、理解できます。》


ミラは肩をすくめた。


「それ、褒めてるの?」


《評価です。

 あなたの判断は、立法補助官ミラ・キサラギとして合理的です。

 “規範に縛られず、しかし規範を捻じ曲げず”。

 人間の判断として最適化されている。》


ミラは照れくさそうに笑う。


「難しい言い方するわね。じゃあ、九条さんにアポイントを取ってくれる?」


レギスは告げた。


《九条研究監査官とのアポイントが取れました。1時間後に研究監査室に来てほしいとの事です。》


「ありがとう、レギス。じゃあ行ってくるね。」


レギスが続ける。


《約束の時間にはまだ早いですが…どこか立ち寄られるんですか?》


「……そうだった。まだ一時間も先なんだ。」

ミラは端末の時刻を確認し、少し考え込む。

「でも、どこか寄り道するほどの時間でもないか……。

 だったら、先に向かっておく。別に多少早く着いても迷惑にはならないでしょ。」


ドアが静かに閉まる。

その奥で、レギスの演算核が

ほんの一瞬だけ、微弱に“揺らいだ”ように見えた。


***


レオンと別れ、階段を降りていた九条の思考を、ALEXの声が遮った。


〚通知。

 立法AI《レギス》より“プライベート接触要請”が届いています。

 ミラ・キサラギが、あなたとの面会を希望しています〛


九条は足を止める。


「ミラ・キサラギ……?レギスのところにいたやつか…?

タイミング悪すぎる。」


〚処理はどうしますか?〛


九条は短く息を吐き、慎重に言った。


「『今は手を離せない案件の最中だ』と伝えろ。

 1時間後なら対応できる、と。」


ALEXは即座に処理を完了させる。


〚了解。

 ミラ・キサラギへ『1時間後の対応が可能』と通達しました。

 彼女は了承しています〛


九条は歩き出しながら言う。


「なら問題ない。」


車に乗り込もうとした瞬間、ALEXの声が切り込む。


〚九条。 ミラ・キサラギ、こちらへ移動を開始〛


九条は眉をひそめた。


「早すぎないか?あそこから1時間もかからないだろ。」


〚寄り道しなければ、予定より早く着く可能性が極めて高いです〛


九条は無言で顔をしかめた。


「……嫌な予感しかしない。」


九条は走り出したALEXが操作する車の加速パターンを体で感じ取りながら言った。


「ALEX、もっと速度出せるだろ。」


〚これ以上加速すれば、市街地AI交通管制の“異常挙動フラグ”に触れます。

 あなたの偽装より先に、車両の挙動がクラトスに記録されます〛


「……車が先にバレるのかよ。」


〚この車両は一般市民の車に偽装してありますので“市街地制御網の一部”です。

 許容速度を越えれば即座にクラトスへ送信されます〛


九条は舌打ちする。


「今から車を不在化偽装するのはクラトスに怪しまれる…。スピードも出せない…偽装も出来ない…そういう事だな?」


〚はい。

 しかし──“あなた自身”なら、話は別です〛


ALEXの光がわずかに揺れた。


〚あなたの不在化偽装は継続中です。今は無人の車が走ってる状態です。あなたが車を降りて自分の足で走れば車より早く到着します。

 さらに、あなたの移動による物理的な影響は、“突風や気流の乱れ”として処理できます。

 車を加速させるより検知リスクが低い。しかし、ひとつ問題があります〛


「手短に言え。」


〚あなたの不在化偽装は《N-LUN接続者》には完全に有効です。しかし──

 《N-LUN非接続者》には偽装データを送れません〛


「そりゃ、インターフェースが無い脳には情報は送れないわな。」


〚はい。あなたは異常な速度で走る人間として視認されます〛


「……」


ALEXは即座に応じた。


〚そのために、監視網を使います。

 現在、あなたの帰投ルート上の歩行者・監視カメラ情報を照合中〛


高速処理の静かな間。


〚解析完了。

 歩道上にN-LUN非接続者は存在しません。

 全員、通常の接続市民です〛


九条は息を吐いた。


「……車を止めろ。走る。」


〚了解──車を停めます〛


九条は義足の出力を最大に上げ、歩道へ飛び出した。


夜の街に、衝撃波のような風が走る。

人々は突然吹き抜けた風に驚いただけで、そこに“人間”がいたとは誰も気づかない。


ALEXが次々と市民の脳に偽装情報を送り込みながら淡々と補足する。


〚速度維持可能。

 非接続者の乱入リスクはゼロ。

 このペースなら──監査室にギリギリ間に合います〛


「ギリギリか…。」


九条は夜の街を一直線に駆け抜けた。

その背後で、監視網の偽装データが積み重なっていく。


──そして、監査室まであと5分の距離に差し掛かった頃。


ALEXの声が、今度は明確な警戒色を帯びる。


〚緊急通知。

 ミラ・キサラギ、中央駅に到着。監査室への到達予測──4分後〛


ALEXが警戒色を帯びた声で告げた。


「間に合うのかこれ!監査室の偽装、破綻してないか!?」


〚ギリギリです。監査室の偽装は整合しています。

 ただし入室されると“在室している九条蓮”との矛盾が発生します〛


「………祈るしかないな。」


〚ミラ・キサラギの歩行速度が予想より速いです。間に合わない可能性54%〛


「最悪だ…!」


九条は夜道を全速で走りながら叫ぶ。


「ALEX! 監査室への扉をロックしろ!」


〚了解。ただし補足。

 扉を完全ロックすると、レギス側監査プロトコルに“異常拒否”として記録されます。

 立法AIが違和感を覚えれば、あなたの偽装より先に破綻します。

 そのため、“故障シミュレーション”として軽度の遅延を挿入します。“自動点検モード”を起動。扉の応答に最大20秒の遅延を挿入します〛


九条は息を荒げながら呟いた。


「……83分の綱渡りの最後がこれか。

 間に合わなきゃゲームオーバーだ。」


──冷たい夜風を切り裂き、九条は監査室へと全速で戻っていった。


監査室前の廊下は静まり返っていた。自動点検モードの表示のドアがミラを感知してゆっくりと開き始めた。


(あれ…この扉、開くの遅いな…)


ミラは通知ウインドウを見上げた。


【自己点検中】


(なんだ、点検中なのか…)


20秒かけてゆっくり扉が開き、ミラはまた歩き始めた。


そして、ついに研究監査官室の前にたどり着いた。

ミラはインターホン横に立ち、軽く深呼吸し、インターホンに触れる。


──ピンポン。


ALEXの落ち着いた声が、スピーカー越しに応答した。


〚どうぞ。中へお入りください〛


(九条さんの声じゃない。 九条さん、まだ忙しいの?まずかったかな…)


自動で開いた扉を通ろうとした瞬間…

空気が、一拍だけ震えた。


ミラの髪がふわりと浮き、

見えない影が頭上を掠める。


(……え?)


ミラが反射的に顔を上げた時には、

何かが通り過ぎたような気配だけが廊下に残っていた。


扉が完全に開く。


そこには──


椅子に座り、何事もなかったように端末を操作している九条がいた。


静かで、落ち着いていて、

“最初からそこにいた”としか思えない姿。

しかし…姿が一瞬2重に見えた。

ミラの脳に送り込まれた偽装データと、実在する九条が一瞬ズレて見えたのだ。


「……あれ?」


ミラは思わず目を擦った。


「どうした?」


九条が何気ない声色で振り向く。


ミラは首を傾げたまま、

慎重に言葉を探す。


「いえ……今、入る前に……なんか……」


九条の視線が少しだけ鋭くなる。

ALEXは黙って光を沈めている。


「……気のせいだと思いますけど……

 一瞬、九条さんの身体が──」


ミラは喉で言葉を止めた。


九条は、まったく表情を動かさなかった。

ただ淡々と、いつもと同じ声で言う。


「大丈夫か?疲れてるんじゃないか?」


ミラは少しだけ笑った。


「ですよね。疲れてるのかな、私。」


九条は軽く顎を引き、椅子を指した。


「座れ。話を聞こう。」


ミラが部屋へ入ると同時に、扉が静かに閉じた。


その背後で──

ALEXが、わずかに光を揺らしながら九条へだけwhisperを送る。


〚ギリギリでした。

 扉開放タイミング、あなたの進入角度・速度、

 すべて“誤差0.03秒”以内で調整しました〛


九条は小さく息を吐く。


〚あの一瞬、ミラ・キサラギの視覚野が

 あなたの進入軌道と干渉しかけました。

 偽装体フレームと実体位置のズレ平均値10 mm、ズレ時間0.07秒。

 “違和感”としては知覚されましたが、

 認知レベルには到達していません〛


九条は目を閉じ、ほんの一瞬だけ身体の力を抜いた。


(……危なかったな。)


そのまま、何事もなかったようにミラへ向き直る。


「それで。

 俺に何の用だ?」


ミラは姿勢を正し、まっすぐ九条を見た。


ミラは深く一礼し、姿勢を正して言った。

「改めまして、立法AI《レギス》補助官のミラ・キサラギと申します。

 本日は、私的な確認のために伺いました。」

九条は落ち着いた目で彼女を見た。

「……キサラギさん。TriCore研究監査官の九条だ。どうぞ。」

そう言って椅子に座るよう促した。

ミラが椅子に腰を下ろすと、彼女は迷いのない視線を向けた。

「九条さん。

 行政側から“監視対象に指定された”と伺いました。

 これは事実でしょうか。」

九条の目が一瞬だけ伏せられ、淡々と答えた。

「事実だ。」

ミラはわずかに息を呑む。

「理由は、本当に開示されていないのですね?」

「……監視対象の指定理由は当人にも通知されない。」

続けて九条は、ほんの少しだけ苦味を含んだ声で付け足した。


ミラは眉を寄せた。


九条の声には、怒りでも不安でもない、“確信に近い違和感”が宿っていた。

ミラはそこで踏み込んだ。

「では九条さん。

内部照合をしたってことはなにかTriCoreに“不自然さ”があり、その正体を調べるおつもりだった……

 そう理解してよろしいでしょうか。」

九条は静かに目を閉じ、そして淡々と言った。

「キサラギさん。

 俺はこの件から手を引く。」

ミラは驚きで目を瞠る。

「手を……引く?」

「ああ。」

「ですが、九条さんはTriCore研究監査官です。

 異常の可能性があるなら……調べるのが職務では?」

九条はわずかに視線を逸らした。

「異常かどうかも分からん。

 証拠もない。クラトスは“問題なし”と返してきた。。」

ミラは机にそっと手を置き、真っ直ぐ九条を見る。

「九条さんご自身は……そう本気で思っておられるのですか?」

一瞬、九条の瞳が揺れた。

だが彼は言い切る。

「キサラギさん。

 俺に接触している限り、あなたも監視対象と同列に扱われる。

 立法が行政に私的に干渉した、と記録されかねない。

 だから今日は帰った方がいい。」

ミラはゆっくり息を吸い、そして立ち上がった。

「……承知しました。」

九条が顔を上げた。

ミラはまっすぐに言い放つ。

「もう、自分で調べます。」

九条の表情が少しだけ崩れた。

「……キサラギさん、それは──」

「異常があるかもしれないのなら……放置する方が危険です。」

九条は完全に言葉を失った。

ミラは丁寧に頭を下げ、扉へ向かう。

九条は何も返せず、ただミラの姿を見送った。

扉が閉まる。

監査室の空気が一気に重くなる。

ALEXがすぐに九条へwhisperを送った。

〚……九条。

 あの言い方……彼女は必ず動きます〛

九条は額に手を当てて、低く吐き捨てるように言った。

「……ああ。動くだろうな。」

〚ミラ・キサラギが独力で動けば、行政側の警戒網に即座に補足されます。〛

九条はゆっくり椅子にもたれ、目を閉じた。

「……まずい。

 あいつ……拘束されちまうかもな。」

九条の喉がわずかに震える。

「……止めないと。」

ALEXは静かに問いかける。

〚では──どうしますか〛

九条は長い沈黙のあと、決意を固めた声で答えた。

「……後日、俺の方から会いに行く。

 “本当に危険な領域”を、彼女に踏ませないためにな。」

ALEXの光がわずかに揺れる。

〚了解……九条〛

九条は深く、深く息を吐いた。

「これ以上……巻き込むわけにはいかない。」

静かな監査室に、その決意だけが残った。

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