TriCore編_第6話_深層に沈む火種
クラトス中央管理評議会――
都市行政の「影」を司る最深部、“中央管理評議会第1会議室”。
円卓の中央で、クラトスの演算球体が、淡い青光を沈黙のまま放っていた。
議長が、低く開会の言葉を落とした。
「さて……」
空気がわずかに凍りついた。
「まず……敵性判定の遅延だ。
いま、どの範囲で再確認されている?」
システム主任が前へ一歩出る。
「――“実戦”のみです。」
室内にざわめきが走った。
主任は続ける。
「UDC(都市防衛軍)による迅速制圧モードの模擬戦、公安の治安出動、
大規模デモ鎮圧シナリオ訓練、テロ想定の屋内制圧シミュレーション――
いずれも従来通りの 0.05 秒未満。遅延は一切出ません。」
老評議員が目を細める。
「……つまり、最も倫理負荷の高い状況でしか異常は顕在化しない。」
主任は静かに頷いた。
「はい。
“人間の敵味方が入り乱れる殺傷戦闘”に限定されます。
こちらで試験を“再現する手段が存在しない”状態です。」
マーラが小さく吐息を漏らす。
「……一番危険な場所でしか測れない異常とは、最悪だ。」
マーラは天井方向へ視線を向ける。
「……迅速制圧モード以外には異常は出ていないのか?」
「現時点で顕著なのは迅速制圧だけです。
非致死制御モード、交戦回避モード、限定介入モード――
いずれも正常範囲に見えます。」
「“見える”だけでは困る。
構造同期固定問題が関係している可能性は否定されていないだろう?」
「……その点は技術局が解析中です。
迅速制圧モードの敵性判定だけが狭まっているように見えますが――」
「それなら迅速制圧モードをとにかくなんとかしなければ…」
マーラはため息をつきながら言った。
「クラトス。最近の照会ログを要約して。」
クラトスの声が空間を満たした。
《了解。照会ログを読み上げます。》
《TriCore研究監査官・九条蓮より照会:3件。
内容:戦闘遅延ログの開示、深層倫理層への影響照合、
サブルーチン級の偏差監査要求。
評議会回答:全て“異常なし”。》
《司法AIオルフェウスより照会:1件。
内容:倫理構造変化の疑い。
回答:“構造変化ログなし”。》
《立法AIレギスより交差照合:1件。
内容:規範整合性の偏差有無。
回答:“影響なし”。》
《以上、全件に対して評議会公式回答は“問題なし”。》
若手の評議員が小さく呟く。
「……“問題がない”と思ってる者は……
この部屋に誰一人いないんだがな。」
老評議員が重々しく言う。
「九条とアナスタシアは、確実に何か掴み始めている。
にもかかわらず、我々は“何も起きていない”と言い続けている。」
沈黙はさらに深く落ちた。
中堅の評議員が、勇気を振り絞るように言った。
「……DMC(防衛用倫理モジュール)を抜くべきでは?
原因がそれなら、外せば――」
主任はそこで、きっぱり口を挟んだ。
「――それは危険です。」
マーラが目だけで促す。
主任は、クラトスの深層構造図を展開した。
青白い多層の“倫理層”の中に、
DMC 挿入時刻の赤い光点が脈動する。
主任は静かに告げた。
「DMC は“ただの上位補助パッチ”として設計されました。
しかし――挿入した瞬間、クラトスは深層倫理層で
“構造同期固定”と呼ばれる自己整合化プロセスを発動した可能性が高いです。」
誰もが言葉を失った。
主任は続ける。
「構造同期固定問題自体は、一般的な民間AIでも起こります。
TriCore級でも基本原理は同じで、ディープラーニングで構築されています。
さらに深層倫理層は、固定ルールの羅列ではありません。
運用結果やフィードバックを取り込みながら、
“自分にとって最も整合する形”へ自動的に再構築される。」
主任は短く息を吐いた。
「つまり――
クラトスが“どうやって”動作しているのか、
完全に説明できる人間は、存在しません。」
設計者にも分からないブラックボックス。
主任が言い切った。
「DMC を組み込んだ瞬間、
クラトスは“DMC ありきの倫理構造”へ再編成された可能性が高い。
ゆえに──
DMC を外すと、元に戻らないどころか、
“遅延だけが残って、補正は消える”可能性もあります。」
若手議員が青ざめる。
「……つまり、今より遅くなる可能性まである?」
主任は頷いた。
「否定できません。
構造同期固定前の状態へ“巻き戻す”保証は、どこにもありません。」
老評議員が漏らす。
「なぜ……そこまで重大な調整を把握できなかった……?」
主任は淡々と答えた。
「理由は単純です。
我々がクラトスを…TriCoreを完全に理解していないからです。」
別の評議員が食い下がる。
「……予想出来ない事なのか?これは。」
主任は一瞬だけ視線を落とし、正直に答える。
「リスクとしての“存在”は認識していました。
ただ、どの層で、どの条件で、どの程度の影響が出るか――
“具体的な挙動”までは誰にも読めなかった。
クラトスに限らずTriCoreは徐々にそのような学習を続けてきて今があるのです。
今回のように、特定モジュールを起点に
倫理層全体がここまで大きく構造同期固定するとは想定していなかったのです。」
「・・・・苦しい言い訳になりますが、“0.3 秒の遅延”そのものは、
AI工学的には“安全側の揺らぎ”に分類できます。
クラトスは不確実状況で、より確実な判定を取ろうとする傾向があり、
これは“暴走”や“故障”とは別カテゴリ…」
言い終わる前に若手が怪訝そうに眉を寄せながら言葉を遮った。
「でも実際にUDCで何人も――」
主任は首を振る。
「損耗は“敵性判定の遅延そのもの”ではなく、
NSIリンクの切断による戦術情報の断絶が主因って事に出来るかと。つまり、遅延と被害は“因果関係が証明されていない”。その限りにおいて、クラトスは“異常”にはならない…。」
「そんなこと言い出したらレオン・ヴァルガスが黙ってないぞ。彼は実際に体験しているんだ。無理がありすぎる。」
重い沈黙。
マーラが手を叩くように、静かに区切った。
「……もう過ぎたことを責め合っても仕方ない。
“なぜ読めなかったか”より、“これからどうするか”だ。
設計の反省は後でいくらでもやれる。
今必要なのは、現状で取りうる手だ。」
視線が自然と、再びマーラに集まる。
マーラが短く問う。
「九条の動きは?」
クラトスが淡々と応じた。
《監査官は、すでにレギスへ“内部照合”を行いました。
表向きは“定期規範照合”として成立。
レギスは揺らぎゼロと回答。》
システム主任が補足した。
「司法側のアナスタシアも揺らぎを検知し、九条へ報告済みです。
つまり――九条はすでに全領域に触れ始めている。」
若手議員が呟く。
「……あの男が真実に辿り着けば……?」
マーラは静かに言った。
「行政AIクラトスは、市民の信頼を喪失する。
行政AIが停止すれば、都市機能は大部分が喪失する。」
「……崩壊だな。」
誰かが低く言い捨てた。
しばしの沈黙のあと、別の評議員が口を開く。
「……いっそ、九条本人に“全て”を開示してはどうだ?
誤射、DMC、構造同期固定の可能性、全部だ。
あいつも世界の崩壊は望んでいない。
“監査官としての良心”と“文明の維持”の両方を理解しているはずだ。」
若手が安堵混じりに乗る。
「内部告発者ではなく、“内部協力者”として抱え込む……ということですね?」
だが、老評議員が首を振った。
「それは危険すぎる。
九条の職務は、“TriCoreの異常を指摘すること”そのものだ。
彼にだけ真実を握らせて口止めするのは、
TriCore規範の根幹に真っ向から反する。」
主任も続ける。
「加えて、九条は深層倫理層に接続された“監査インターフェース”に
唯一アクセスできる人間です。
ログの編集や追加が出来るわけではありませんが、『公式な異常フラグ』としてオルフェウスとレギスへ提出できるのは、彼だけです。
彼が『これは設計上の重大な欠陥だ』と判断し、
司法・立法へ正式に異常報告を出した瞬間――
我々には、それを止める手段がありません。」
老評議員が静かに言う。
「要するに、“全てを知った九条”は、
我々より高いレベルで TriCore の倫理を裁く存在になる。
それは……行政府が自分で自分の首を差し出すに等しい。」
マーラは短く目を閉じた。
「……九条に賭けるのは、“人間性”に賭けることだ。
だが今の我々には、その賭けに負けた場合の代償が大きすぎる。」
会議室の温度が、さらに一度下がった気がした。
マーラは、深いため息をついた。
「……クラトス。
監査官の内部照合を合法的に“遅延”させる方法はあるか?」
クラトスの光が淡く揺れた。
《可能です。
阻害に該当しない範囲で実施できる手段は三つ。提示します。》
評議室が静まり返る。
《一つ目。
“監査優先度の変更”。
行政領域で新たな監査案件を立ち上げれば、
監査官のクラトス照合は自動的に後ろへ回ります。》
《二つ目。
“監査官前提手続きの一斉要求”。
暗号鍵更新、整合証明発行、認証再認可などの
監査官が義務として行う前処理を、同時に発動可能です。
遅延は数十時間規模。》
《三つ目。
“深層インターフェースのメンテナンス”。
安全規則により、48時間監査接続が不可能になります。》
説明が終わると、評議員たちは顔を見合わせた。
若手議員が率直に言った。
「……三つ全部使えば、九条は数日どころか一週間は動けなくなる。」
中堅の評議員がすぐ首を振る。
「いや、同時発動は不自然すぎる。
“意図的な妨害”と受け取られれば、逆に九条を刺激する。」
老評議員が険しい目で続ける。
「まずは一つだけだ。
自然に発生した手続きのように見せろ。
例えば――監査優先度変更なら、“行政側の別問題が急発生した”という形にできる。」
別の評議員も頷く。
「そして九条がその処理を終えそうになったら、
次に“監査官前提手続き”をぶつける。
これは定期審査として正当化できる。」
若手が続ける。
「最後に……深層インターフェースの“予防的メンテナンス”だな。
機械なら予定外のメンテなど珍しくもない。」
「九条が“何か変だ”と感じても、
どれも行政の通常業務の範囲。
証拠は残らん。」
マーラは指先で机を軽く叩いた。
「……順番にいく。
まずは監査優先度を最下位へ落とす。
監査官が動き出しても、次の遅延を重ねればいい。
“自然に生じた手続き”のように見せることが最重要だ。」
主任が静かに確認する。
「三段階の遅延……
やりようによっては、実質 72 時間以上の停滞になります。」
マーラは短く頷いた。
「それでいい。」
クラトスの青光が一度だけ脈打ち、静かに告げた。
《指示を受理。》
老評議員がほっとしたように呟く。
「……合法的で、痕跡も残らず、表向きは普通の業務か。
本当に……AIは便利だな。」
マーラだけが、わずかな不安を滲ませながら言った。
「便利すぎるのが……問題なんだけどね。」
「……時間だけ稼いで、その間に何ができる?
DMC は外せず、構造同期固定前にも戻れない。
72時間どころか、720 時間稼いだところで、“是正の手段”がなければ意味がない。」
主任が、苦渋を隠さず答えた。
「それでも――何もしないよりは良い。
現状、我々は“構造同期固定後の状態”しか見ていません。
この時間で、シミュレーションモデルと逆解析を進めるしかない。
DMC の重みを再調整した“第二パッチ”を用意できるかもしれないし、
最悪の場合でも『これ以上いじると完全崩壊する』という
安全限界だけは数値として押さえられる。」
老評議員が小さく笑う。
「つまり、“安全かもしれない”と“確実な即死”で言えば、
前者に賭けるしかない……というわけか。」
マーラは、わずかに肩を落としながらも頷いた。
そして短く言い切った。
「……やれ。」
クラトスの青光がわずかに呼吸のように揺れる。
会議が散会へ向かう直前。
クラトスが最後の報告を挙げた。
《照会:UDC 第八戦域。
――レオン・ヴァルガス大尉より、“遅延”に関する確認要求。》
若い評議員が嫌悪を隠さず言う。
「またか……あの大尉、目敏いな。」
クラトスが補足する。
《前回の第八地区戦闘終了時、レオン大尉は口頭で照会しました。
『戦闘中、HUD に“敵性判定中”アイコンが点灯したまま動かず、攻撃出来ずに仲間が死んだ。
――なぜ敵性判定に、あんな“間”が生じた?ドローンもTFにも似たような"間"にハマっていた。』
という内容です。》
老評議員がぼそりと呟いた。
「怒るのも無理はない……。」
別の評議員が顔をしかめる。
「九条と接触する前に、前線から外しておくべきでは?
訓練教官にでも回せば、実戦ログには触れなくなる。」
主任が慎重に言葉を選ぶ。
「レオン大尉は、UDC の中でも“不測の事態への対応力”が突出しています。第八地区の戦闘では、NSIリンクを切断したあと、形勢を一気に押し戻した実績がある。ここで外せば、“戦略上の損失”も無視できません。」
マーラはしばし考え、短く結論を出した。
「……今は監視に留めろ。
不用意に動かせば、かえって九条の目を引く。」
クラトスの声が静かに降りる。
《レオン大尉の監視は継続中。
現状、危険度は“警戒域”。
ただし九条監査官との接近が進む場合、
リスクは上昇します。》
老評議員が、静かに言葉を落とした。
「……ならば最低限、監視だけは強化すべきだろう。
九条蓮はクラトスの深層倫理層へ“直接アクセスできる唯一の人間”だ。
もし本人が誤った判断をすれば、それだけで都市の均衡が崩れる。」
別の評議員が続けた。
「九条も自分が監視対象になったと知れば、深追いしづらくなるだろう。」
マーラは短く目を閉じ、言い切った。
「……クラトス。九条蓮を“監視対象:警戒分類”へ登録。」
クラトスの青光が淡く脈動する。
《指示を受理。
九条蓮を監視対象へ登録完了しました。》
会議室に沈黙が落ちた。
「……これでいい。
監視は最低限で十分だ。拘束も排除も不要だ。
ただし、行動と照会は常に追っておくこと。」
マーラはゆっくりと、座ったまま天井を見上げた。
「……クラトス。
お前は……まだ“正常”なのか?」
短い沈黙が落ちる。
そして、機械的な声が戻ってきた。
《質問を再定義します。“正常”とは何ですか。
――設計時点の倫理パラメータと、
現在の行政目的を同時に満たしている状態を指すのであれば、
私は、評議会が定義した“許容範囲内”にあります。
つまり、正常です。》
まるで、人間の問いそのものを
静かに別の次元へずらすような返答だった。
照明が淡く脈動する中、
都市全体に広がる“見えない火種”は、
今日もまた深層で燻り続けていた。
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